目次

  1. 金型製造から販売まで担う
  2. 祖父が整えた一貫体制
  3. リストラを告げて人前で涙
  4. 起死回生のタンブラー
  5. 鉄製フライパンが評判に
  6. オーダーメイドのフライパンがヒット
  7. ハンドルを外せるフライパン
  8. ミズノのバットをハンドルに
  9. オープンファクトリー化が奏功
  10. 次なる視線は海外へ

 藤田金属は約120種類の金物を製造し、9割が調理器具です。中でも鉄製フライパンは右肩上がりで、23年は2年前の1.4倍となる23万枚を出荷しました。藤田さんは「前はアルミ製が主でしたが、今はほぼ鉄製品です。鉄分の補給に効くという評価やキャンプブームでニーズが高まっています」。

製造量を年々伸ばす鉄のフライパン

 同社は、色やサイズなど1480通りの組み合わせをオーダーできる「フライパン物語」、ハンドルを着脱できる「フライパンJIU」などを送り出しています。フライパンJIUは1万円近い価格帯ながら、19年の発売開始から累計6万枚を突破。年商は最低期だった10年の1億円から4億円にアップしました。

 従業員は19人で職人は13人。3代目の父・俊介さん、2人の弟も職人です。商品企画から金型製造、加工、溶接、梱包、発送、販売まで一貫して手がけます。「僕のアイデアをもとに父や兄弟がサンプルを作る。家族一丸のものづくりです」

父・俊介さん(右から2人目)と藤田家3きょうだい

 藤田金属は1951年、藤田さんの祖父・健次氏が大阪市西成区で創業。70年、八尾市に移ります。

 藤田さんは、祖父から「お前は会社を継ぐんだぞ」と言われ続けました。「言わば洗脳です」と笑いつつ、尊敬の念を抱いています。「会社が今も続いているのは、祖父が金型から表面加工まで内製化できる一貫体制を整えてくれたから。金型などの外注には多額の資金が必要で、商品開発の冒険もできません」

 健次氏は23年、102歳で往生しました。

 「祖父は96歳まで仕事をしていました。『会社をもっと大きくせんとあかん』が口癖で、怒るととても怖かった。でも、そのバイタリティーが会社や家族を支えました」

創業者の祖父・健次氏(中央、同社提供)

 藤田さんは大学生だった2003年から、父に頼まれて営業マンとして家業を手伝い始めます。「学生時代、ガソリンスタンドのアルバイトで車検やオイル交換などを勧めるのが得意でした。家業も即戦力で貢献できる自信がありました」

 しかし、藤田さんはすぐ「キツい業界に来てしまった」と痛感します。

 「当時はアルミ製の急須や鍋、やかんが主力で、売り先も量販店やホームセンターがメインでした。製造元の立場は圧倒的に弱く、とにかく値下げを要求されます。低価格競争の過熱で利幅は少なく、職人のテンションも下がる一方。売れる商品を作っても、すぐに海外製の安価なモノマネ品が出回り、周りの日用品メーカーの倒産も相次ぎました」

入社時はアルミ製の急須などが主力でした

 リーマン・ショックで家庭用品の買い替え需要も激減。2010年の経営状態はどん底でした。「赤字続きで、全取引行からお金をかき集めてやっと給料を払える始末。『明日売掛金が入金されなかったら給料は払われへん』という綱渡りでした」

 ついに従業員10人のうち2人にリストラを告げます。「朝のラジオ体操の時間に、私がそのことを他のスタッフに告げました。悔しくて悲しくて、初めて人前で泣きました」

 11年、2代目の叔父が引退し、父が3代目を継ぎました。「父は柔和な性格で、人間関係が崩れそうになると必ず間に入って解決してくれる。おかげで兄弟げんかもありません。新商品のサンプルを作る腕もあり、父となら立て直せると期待しました」

 11年に起死回生のチャンスが訪れます。新商品「ひえーるタンブラー」がヒットしたのです。

 「錫(すず)のタンブラーが静かなブーム」というニュースを見た藤田さんが、「高級な錫ではなくアルミ製なら安く提供できるのでは」とひらめきました。父は「早速金型を作る」と応えてくれました。

窮地を救った「ひえ~るタンブラー」

 藤田さんはこれまでと違う業種に営業をかけます。当時は金属製タンブラーが広まっておらず、コンビニや若者向けライフスタイルショップが「ひえーるタンブラー」に興味を持ちました。父の日用の贈答品需要が生まれ、窮地を救ったのです。

 「父が金型を作れたからこそ初期投資はほとんどなく、フットワーク軽く生みだせました。職人の父と営業マンの自分とのコンビに自信が持てました」

 藤田さんはこれを機に、量販店やホームセンター一辺倒の営業を見直します。父に提案したのが、東京の大型展示会「東京インターナショナル・ギフト・ショー」への出展でした。

 そこでバイヤーが食いついたのが「3番手くらいで考えていた」(藤田さん)という鉄のフライパンでした。

 「当社のフライパンは本体を700度で焼き入れ、油をなじませることで、こびりつきにくく、さびにくく仕上げています。ハードテンパー加工という珍しい技法が関心を集めました」

フライパンを700度で焼き、薄くオリーブオイルを染み込ませて加工します(同社提供)

 従来の鉄のフライパンはさび止めを高温で焼ききって使うのが一般的でした。しかし、昨今のコンロは火力に制御がかかるものが多く、さび止めを焼き落とすのに必要な温度に達しないといいます。その点、藤田金属の鉄製フライパンは購入後すぐ使える点が評価されました。

 ネットショッピングサイトなど複数の新規取引がその場で決まり、父と「赤字を解消できるかも」と喜びました。

 ところが販路を増やした結果、今度はネットショップ同士の値下げ合戦が始まったといいます。「本来3千円で売ってほしいフライパンが、1900円にまで下がりました。『これでは価格競争に巻き込まれ、量販店に卸すのと変わらない』と悩みました」

 藤田さんがひねり出したアイデアが、フライパンのカスタムオーダーでした。焼き付け加工の有無、ハンドルの素材など、ユーザーの好みに合わせて自社サイトで受注する仕組みです。

 「一貫製造の強みが発揮でき、値切られずに済む。妻も『自分だけのフライパンができるのがいい』と賛同してくれました。女性がここまで興味を示すものならうまくいくのでは、と感じました」

「フライパン物語」はハンドルなどをカスタマイズできます

 素材やサイズ、色などを選べる「フライパン物語」を16年に発売開始すると、珍しさからすぐにテレビや新聞で紹介されました。

 ただ、製造の手間が膨大で、工場からは「一つずつ違うフライパンなんて作っていられない」と反発の声が上がります。「職人でもある父が潤滑油になってくれました。スタッフも家族や親族、友人などで最終的には理解してくれました。家族経営だからできたと思います」

 とはいえ、このままでは現場がパンクします。藤田さんはフライパン物語の営業先を法人に切り替え、大手食品会社の景品など数百、数千枚単位の受注にしました。これだと量産に近い工程になるため、次第に職人のぼやきは無くなりました。

 フライパン物語は発売3カ月後には、1万枚が売れる人気商品になったのです。

 藤田さんは17年、ハンドルが着脱可能なフライパンの開発にも動きます。

 「フライパン物語はあくまでカスタムオーダーできる新サービスです。藤田金属のフライパンとして胸を張れるオリジナル商品を生み出したかった。フライパンのハンドルは、使わないときは邪魔と感じるユーザーが多く、外すことができればテーブルに運んでお皿としても使えます」

 そんなとき、ある家庭用品メーカーの勧めでユニークな意匠に定評がある東京のデザインユニット「TENT」と出会います。

 「商品開発を依頼し、3Dプリンターでできたサンプルはフライパンの概念から離れ、お皿に寄せたものでした。『作る』と『食べる』が一体化した形が気に入り、フライパン物語の全利益を注ぎ込むつもりで商品化に挑みました」

 藤田金属は金型を自社で作れるため、TENTが3Dプリンターでデザインしたフライパンを実際の鉄で何度も試行錯誤できる強みがありました。木製ハンドル着脱の簡易化、ハンドルのスムーズなスライド、フランパンの縁をつかむ力加減など、細かな調節に2年をかけました。

 TENTからはPR用のレジピ動画、自社ECショップの立ち上げ、SNS展開も指南されたといいます。そして19年に新商品「フライパンJIU」を発表しました。

「フライパンJIU」という名前は、食材を焼く「ジュウ」という音と、ハンドルと鍋を並べると「10」に見えることに由来します

 フライパンJIUの価格帯は1万円近くで、一般的なフライパンの3倍以上。藤田さんは「内心は不安で宣伝もためらい、広告費はPRメディアにプレスリリースを載せるための3万円のみでした」

 ところが、利便性とデザイン性が話題となり、リリース発表後、数日で300枚が完売。累計6万枚以上の大ヒットになりました。

 「生み出すのに2年かかり、社内でも不安視されていました。『僕が梱包も発送もするから』と説得しつつ、あきらめかけていたんです。TENTさんと父が、根気強く試作のキャッチボールをしてくれたからヒットしました」

ハンドルを外せば皿として使用できます(同社提供)

 フライパン2製品のヒットで、アパレルメーカー、球団、大学などからのコラボレーションが打診されました。

 例えば、スポーツ用品大手ミズノとコラボし、検品ではじかれたバットをハンドルに再利用しました。「バットを削る過程で節が多く浮き出て野球用品には使えないものも、フライパンなら転用できます。廃棄ロス削減に貢献でき、ユーモラスな商品になりました」

ミズノのバットをハンドルに使った「スイングパン」

 藤田さんは20年、4代目社長に就任しました。「父は『借金をすべて返して継がせたい』と考えており、無借金経営になったタイミングで継承しました」

 21年2月には、弟と3人で借り入れをして、約1億2千万円をかけて工場をガラス張りのオープンファクトリーに改装しました。

巨大なフライパンが目印の「ふらいぱんヴィレッジ」

 カフェのように変わった工場は「ふらいぱんヴィレッジ」と名づけ、入り口に巨大なフライパンの模型をしつらえました。

 検品場だった2 階を直営店兼ショールームに替え、テラス越しからフライパンづくりの全工程が一望できるように。熟練の手仕事に触れた後、その場でフライパンを購入できるとあって、月約300人が訪れるスポットになりました。

検品場だった2階がショールーム兼直販ショップに

 「職人の手元まで観察できるよう、機械の位置も大幅に変えました。手間がかかるヘラ絞りや独自の加工法なども公開し、撮影もOKです。手の内を明かすデメリットより、見られることによる品質向上を取りました」

カフェ風に変わった工場を一望できます(同社提供)

 工場見学で職人の緊張感が高まり、商品に傷がつくなどの失敗が減りました。フライパンを購入する姿も確認でき、士気も上がります。

 「カッコいいユニホームやロゴ入りキャップで統一しては」という職人からの提案で、作業服も一新しました。

 今では直営店の売り上げが全体の2割を占めるまでに。ショールームは商談の場にもなり、改装の借入金は2年で完済しました。

 スタッフの平均年齢も10歳若返り、製造や営業の体制を強化して増産に対応しています。「これまで求人広告を出しても応募は60代が多かったのに、新卒を2人採用できました。Z世代に『職人ってカッコいい』と伝えられました」

ユニホームやキャップを統一しました(同社提供)

 今は量販店への営業を行わず、安売りのための開発はすべてやめました。24年7月、東京のJR山手線高架下の商業施設に直販店を開く予定で、テーブルランプや園芸用品などキッチン用品以外の開発も始めています。

照明などの開発も進めています(同社提供)

 フライパンJIUは21年、世界3大デザイン賞の「レッド・ドット・デザイン賞」と「iFデザイン賞」をダブル受賞し、欧米からの注文も急増しました。

 次なる目標は海外展開です。すでにパリとフランクフルトの見本市に出展し、好評だったといいます。

23年、パリの見本市「メゾンエオブジェ」に出展(同社提供)

 「会社を大きくしたい、という祖父の夢はかなえたいですが、社員や工場を急に増やすつもりはありません。精鋭スタッフ19人、家族経営の町工場が世界とどこまで戦えるのかを試したい」

 藤田さんの言葉からは、火にかけたフライパンのような熱さがほとばしりました。