目次

  1. 25歳で家具店から家業へ
  2. ホームページの相談からブランディングへ
  3. ブランディングは交通整理
  4. 一般客も商品を見やすい作りに
  5. 「越権行為」という思い込みを捨てた
  6. 積極的PRで取材が急増
  7. 反発する社員に「信じてついてきて」
  8. 値切る客がいなくなった
  9. ブランディングはビジョンが不可欠
  10. 「熱い思い」は街も変える

西澤明洋さん

エイトブランディングデザイン代表

1976年、滋賀県生まれ。大手電機メーカーのインハウスデザイナーから独立。「ブランディングデザインで日本を元気にする」というコンセプトのもと、企業のブランド、商品、店舗開発など幅広いデザインを手がけている。「フォーカスRPCD®」という独自手法でリサーチからプランニング、コンセプト開発まで一貫性のあるブランディングデザインを強みとする。主な仕事にクラフトビール「COEDO」、抹茶カフェ「nana’s green tea」、スキンケア「ユースキン」、ヤマサ醤油「まる生ぽん酢」、ブランド買取「なんぼや」、手織りじゅうたん「山形緞通」など。著書に「ブランディングデザインの教科書」(パイ インターナショナル)などがあり、特集雑誌「デザインノート『西澤明洋の成功するブランディングデザイン』」(誠文堂新光社)も発刊した。

 釜浅商店は1908年の創業以来、プロの料理人が通うかっぱ橋道具街に根を張り、釜や包丁、南部鉄器、フライパンなどをそろえています。熊澤さんの父で3代目の義文さんはアイデアマンで、波長があう料理人とオリジナル商品を開発することもあったそうです。「父は商売度外視でのめり込み、いつも楽しそうに働いていました」

 店舗上の自宅で育ち、常連客に遊んでもらうこともあった熊澤さんは、継ぐことを前提に、父から「25歳までは何をしてもいい」と言われました。洋服やインテリアに興味を持ち、都内のアンティークショップや家具店で働きます。その家具店はデザイナーやミュージシャンらが立ち寄る店でした。

 熊澤さんは99年、後ろ髪をひかれながらも25歳で釜浅商店に入ります。「衣食住をライフスタイルと捉えれば、ファッションやインテリアと料理道具は密接につながっています。家業で新しいことができるかもと決断しました」

2020年に建て替えられた釜浅商店の内装

 熊澤さんは2004年、4代目社長に就任。そのころの合羽橋は客足が減りつつありました。「合羽橋でなければそろえられなかった調理道具類は大型ホームセンターで購入でき、現物を見なくていい道具はインターネットのほうが安くて早く手に入ります。バブル崩壊後、飲食店を開業する人が減ったことも影響しました」

 釜浅商店の来店客や売り上げが極端に減ったわけではありません。ただ、このまま何もせずにいたら衰退するという危機感から、「プロだけでなく一般の人も喜んでもらえる店に」という思いを抱きます。2010年ごろ、まず自社ホームページのリニューアルを計画。共通の知人から紹介されたのが西澤さんでした。

 西澤さんからは「ホームページだけ新しくしても活気を取り戻すことはできない。ブランディングに取り組むべきです」と、きっぱり言われました。西澤さんはこう振り返ります。

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