釜浅商店は1908年の創業以来、プロの料理人が通うかっぱ橋道具街に根を張り、釜や包丁、南部鉄器、フライパンなどをそろえています。熊澤さんの父で3代目の義文さんはアイデアマンで、波長があう料理人とオリジナル商品を開発することもあったそうです。「父は商売度外視でのめり込み、いつも楽しそうに働いていました」
店舗上の自宅で育ち、常連客に遊んでもらうこともあった熊澤さんは、継ぐことを前提に、父から「25歳までは何をしてもいい」と言われました。洋服やインテリアに興味を持ち、都内のアンティークショップや家具店で働きます。その家具店はデザイナーやミュージシャンらが立ち寄る店でした。
熊澤さんは99年、後ろ髪をひかれながらも25歳で釜浅商店に入ります。「衣食住をライフスタイルと捉えれば、ファッションやインテリアと料理道具は密接につながっています。家業で新しいことができるかもと決断しました」
熊澤さんは2004年、4代目社長に就任。そのころの合羽橋は客足が減りつつありました。「合羽橋でなければそろえられなかった調理道具類は大型ホームセンターで購入でき、現物を見なくていい道具はインターネットのほうが安くて早く手に入ります。バブル崩壊後、飲食店を開業する人が減ったことも影響しました」
釜浅商店の来店客や売り上げが極端に減ったわけではありません。ただ、このまま何もせずにいたら衰退するという危機感から、「プロだけでなく一般の人も喜んでもらえる店に」という思いを抱きます。2010年ごろ、まず自社ホームページのリニューアルを計画。共通の知人から紹介されたのが西澤さんでした。
西澤さんからは「ホームページだけ新しくしても活気を取り戻すことはできない。ブランディングに取り組むべきです」と、きっぱり言われました。西澤さんはこう振り返ります。
当時は店の壁にレーシングカーをかけるなど、お父様の趣味的な一面もみえる一方で、手掘りの大谷石のかまどなどこだわりのある面白い商品もありました。楽しい店なんですが、一般客が買いやすい店とは言い難かった。 スマートフォンが普及した今なら、ウェブで様々な展開が考えられますが、当時のネットは発展途上。ホームページの改良だけで合羽橋のにぎわいは取り戻せないと思いました。プロが集う街にわざわざ来るような一般客は、商品の詳しい説明や分かりやすさを求めています。商品は圧倒的にいいものがそろっていました。来店客がリピーターになるように、接客やディスプレー方法なども含め、店のデザインを見直すほうが効果的であると提案しました。
リニューアル前の釜浅商店の入り口
その提案を聞いた熊澤さんは「話が大きくなりそうで、ちょっと困ったなというのが正直な気持ちでした。当時、ブランディングという言葉は今ほど世の中に浸透しておらず、僕自身も理解できていませんでした」と振り返ります。
ブランディングは交通整理
西澤さんは、熊澤さんがやりたいこと、一番売りたいものなどを質問し、言語化しました。
熊澤さんが特に印象に残っているのは「ブランディングは交通整理」という西澤さんの言葉です。
「自分がやりたいことを実現するためには、店にまつわる情報などを整理することが第一歩と教えていただきました。『ホームページだけ格好よくしても、店の世界観と離れているとむしろマイナス』と言われ納得しました」と振り返ります。
商品カテゴリーを整理するなかで見いだしたのが、「道具をつくる職人と使う人をつなぐ目利き」という釜浅商店の強みでした。
そしてディスカッションから、良い道具には良い理(ことわり)があるというフレーズが出て、「良理道具」という造語が釜浅商店のコンセプトになりました。
西澤さんは、こう説明します。
道具の案内人が良い理を理解して自分の言葉で説明し、道具をつくる人と使う人をつなぐ場が店である。そんな交通整理をしました。もともと釜浅商店が持っていた価値を、自分たちのスタンスとして打ち出すことが、ファーストステップ。そこから、ロゴマークのデザインや店舗の内装の方向性などを決めていきました。
鍋や釜など多様な商品を扱っています(釜浅商店提供)
一般客も商品を見やすい作りに
ロゴマークは、同社のルーツである釜の製造販売から「釜」をモチーフに、外国人にも伝わりやすい漢字の部首のようなロゴをデザインしました。
釜浅商店の新しいロゴマーク「釜蓋」とロゴタイプ
店舗設計は西澤さんとの縁で、ナナズグリーンティーの店舗なども手がける建築事務所「KAMITOEPN」(カミトペン)の吉田昌弘さんに依頼します。
大きく変わったのは、店内の料理道具の見せ方です。それまで使っていたスチールラックの代わりに、オリジナルの什器を開発しました。吉田さんらが釜をモチーフにデザインした棚を開発。商品の種別ごとに棚を置くことができ、店内を見渡しながら回遊できるようになりました。
西澤さんはこう振り返ります。
スチールラックはたくさん商品を積み上げることができるので、プロの料理人には機能的です。しかし、一般客から見ると、商品で積み上げられた棚は「壁」のようで、閉鎖的で入りにくい空間のようになっていました。オリジナル什器のおかげで、見通しがよくなって商品を探しやすくなり、釜や小物類といった種別が分かりやすく分類され、店の情報が一瞬で整理できたのです。
リニューアル前の店内。スチールラックにたくさんの商品が積まれています
リニューアル後の店内。オリジナル棚で見通しが良くなりました
問屋がひしめく合羽橋で、釜浅商店をより際立たせるために、黒色の大きな暖簾も作りました。釜浅商店が持つ2棟のビルのファサードに、ロゴ入りの暖簾をかけて、看板のような役割を持たせています。
2棟のビルにかけられた黒い大暖簾
熊澤さんと西澤さんは、さらなる什器や暖簾の活用も進めました。西澤さんは言います。
釜浅商店は催事の依頼も多いため、「移動式釜浅商店」と題し、店舗と同じ世界観で出店できる催事専用の什器や暖簾なども用意しました。プロ仕様の料理道具ならではのストイックな機能美をイメージしながら、独自の世界観をつくりこみました。熊澤さんからは二の矢、三の矢のアイデアが次々と出てくるので、釜浅商店の世界観はそこからどんどん広がっていきました。
国立新美術館のミュージアムショップに出店した「移動式釜浅商店」
「越権行為」という思い込みを捨てた
熊澤さんは、商品の売り方や接客方法も刷新しました。主力商品はメーカーの製造工程を取材し、産地や商品の特徴などを記したポップや写真を添えて陳列。商品の価値をより伝わりやすくしたうえで、スタッフも「良理道具の案内人」と位置付け、来店客への丁寧な接客を心がけるようにしました。
釜浅商店のスタッフは商品を丁寧に説明しています
熊澤さんは当初、プロの料理人に対し、料理道具について過剰に説明するのは失礼ではないかという葛藤がありました。「商品の特徴や使い方はお客さんのほうがわかっています。僕らが説明するのは越境行為と思い込んでいました」
しかし、西澤さんに話したところ「プロも一般の人も、不親切よりも親切なほうが、わかりづらいよりわかりやすいほうがいい」と言われたのです。
「確かにそうだなと。第三者の視点を入れることで、考え方が凝り固まっていたことに気づき、殻を破るきっかけにもなりました」
積極的PRで取材が急増
ブランディングの結果、一般客が増え、特に子連れの若い女性やカップルなど、これまで見かけなかった方々が訪れるようになりました。外国人観光客も増えはじめ、商店街の活気が戻ってきたといいます。
その陰には積極的なPR活動がありました。フリーランスPRの出口はるさんをチームに迎え、広報スタッフを育てていき、ブランディング初年度からテレビや雑誌などで100件ほど取り上げられました。
西澤さんはこう説明します。
店頭のポップもファサードの暖簾も『ブランディングは伝言ゲーム』という考えのもと、情報が自然と伝わる工夫になっています。そんな新しい取り組みを、多くの人に知ってもらうための広報は基本中の基本。メディアに働きかけたり、興味を持ってくれたメディアをエスコートしたりする活動も、ブランディングに欠かせません。
今も出口さんと連携しながら、広報担当の社員も配置し、プレスリリース発行や取材対応など継続して取り組んでいます。
看板商品の包丁について説明するスタッフ
反発する社員に「信じてついてきて」
ブランディングに着手した当初、4、5人いたスタッフからは反発されたそうです。
「あらゆるものが刷新され、長年働いている人は自分たちがやってきたことを否定されている気分になったようです。最初は社長がやるっていったら従わざるを得ない、といった空気でした」(熊澤さん)
熊澤さんは、積み上げてきた釜浅商店の価値を、より多くの人にわかりやすく伝えるためにブランディングに取り組んでいることを、丁寧に説明し続けました。そして「必ず良くなるから信じてついてきてほしい」と伝えました。
「スタッフのモチベーションも、客層の変化とともにいい方向へと変わりました」
ブランディングで若いスタッフが急増しました
ブランディングは採用にも奏功。20代の入社希望者が増え、今は社員20人ほどになりました。年代も幅広く、外国人も働いています。
西澤さんもこう振り返ります。
合羽橋の他の店は高齢のスタッフが多い中で、釜浅商店はブランディングに取り組んだ後、早い段階で若い人が増え、そこから加速度的に会社が変わった印象を受けました。やはりブランドをつくり出すのは人なんだと思いましたね。
値切る客がいなくなった
熊澤さんがブランディングで目指したのは「値切られない店」でした。
「問屋は値切られることが当たり前。そんな感覚が嫌でたまらなかった。釜浅商店は値切らない方針でしたが、それでも『負けてよ』と言われることは多々ありました」
「近くの問屋でも同じメーカーの同じ商品を扱っていますが、値段はバラバラ。安売りしている店は利益を削っているだけで、不毛な戦いなんです。そこから抜け出すためにも、自分たちがブランドとして強くなることが必要でした。その効果はてきめんで、釜浅商店で値切る人はいなくなりました」
釜浅商店の名が広がったことで、メーカーからの引き合いでオリジナル商品の開発も加速しました。「やりたいことがやれるようになった。これもブランディングの功績の一つです」
最近のヒットは、酢酸ビニル(EVA)と呼ばれるやわらかい素材でつくった黒いまな板です。「やわらかい素材のまな板を使うことで、包丁が長持ちします。EVAはプラスチック素材と木材のいいところを併せ持った素材です。市販品はベージュ色が主でしたが、それを黒色にしたところ、入荷してもすぐに売り切れるくらい人気が出ました」
大人気のオリジナル商品「包丁にやさしいまな板」(釜浅商店提供)
オリジナル商品もどんどん開発されています
ブランディングはビジョンが不可欠
2棟あった釜浅商店のビルのうち1棟は、20年に老朽化で建て直しました。それに伴い、西澤さんと包丁売場のリブランディングにも取り組み、面積を拡大しました。
2020年に建て替えられた釜浅商店の新ビル
周りで競合の包丁専門店が増えたこと、包丁を求める外国人観光客が多くなり広いスペースを必要としたことも理由ですが、一番の目的は社員の意識改革でした。
「ブランディングに取り組んで10年。釜浅商店の認知度も高まり、社員の人数も増える一方です。それでも、長年働いていたスタッフの入れ替わりもあり、改めてスタッフ全員が、当事者意識を持って働いてほしいという思いがありました。もう一度、自分たちの強みや目指すことを再認識するため、包丁売場を軸にリブランディングに取り組みました」(熊澤さん)
一新された包丁売場
包丁売場には詳しい商品説明を掲示しています
再びブランディングに取り組んだことについて、西澤さんはこう話します。
以前のように熊澤さんとの1対1ではなく、社員の皆さんとワークショップ形式のブランディングに取り組みました。約半年間、包丁売場のラインアップの整理や個性をどう出すか、中長期的な戦略やそのために何をすべきかなど話し合いました。あわせて釜浅商店のウェブサイト もリニューアルし、ECとブランドサイトを一体化させています。
ブランドサイトと一体化したECサイト
釜浅商店は18年にパリに出店。23年にはニューヨークでポップアップショップを出店するなど、販路は海外に広がっています。約15年前、ブランディングに着手してから、釜浅商店の売り上げは右肩上がりで、直近の売り上げは着手前と比べて約3倍になりました。
熊澤さんは今後も家業をブランディングでアップデートし続けます(編集部撮影)
熊澤さんは今後のブランディングの展開などを、こう話します。
「ちょうど今は社員が若返った時期です。だからこそ、包丁の産地を広げ、接客や知識、提案力、メンテナンスを磨いて、新しい釜浅商店を作っていきたい。ブランディングには、自分の会社をどうしたいのかというビジョンが欠かせません。ただ、素人だとうまく表現できないこともあります。そのビジョンを描く手助けをしてくれるのが、デザイナーであると思っています」
「熱い思い」は街も変える
西澤さんは、釜浅商店のブランディングを次のように総括しました。
釜浅商店の視察のために浅草・かっぱ橋道具街にはじめて訪問したときのことをよく覚えています。問屋街ってめちゃくちゃ面白いんだなと。当時、そのことを熊澤さんにお伝えすると、「でも人が全然いなくなったんです」ととても残念そうにお答えが返ってきました。 ホームページのリニューアルの話からお声がけいただきましたが、「なぜリニューアルしたいんですか?」と質問すると「合羽橋を以前のようににぎわいのある場所にしたい」と熱い思いを一番最初にお聞かせいただきました。 釜浅商店の売り上げや知名度をあげたいという前に、まず合羽橋をよくしたいというビジョンがとても印象に残っています。 リブランディングの後、当初は周りのお店の方々も静観・様子見状態でしたが、若い後継者を中心に徐々に他のお店のリニューアルも進み、観光やインバウンド需要も取り込みながら、この10年ほどの間に、合羽橋はまたにぎわいを取り戻してきました。その中心に釜浅商店があったことをとてもうれしく誇らしく思っています。 ブランディングでは「熱い思い」がとても大事という話をよくするのですが、熱い思いは街をも変えることができるんだと、約15年伴走させていただいて逆にこちらが教えていただきました。 経営者の高い志こそが、世の中を変えます。 ブランディングをはじめる前に読者のみなさんも、まず自分自身の熱い思いを探すことからはじめてください。