――大学卒業後、ベンチャー企業のドリコムに入社されました。
東京に行きたかったんですね。高校生の頃は、家業に対してマイナスなイメージを持っていたんだと思います。ほかのお父さんの仕事を聞くと、誰もが知っている会社だったり、お医者さんだったり。父の会社のことは誰も知らなくて。少し距離を置きたいなと思ったのかもしれません。それで早稲田に受かって、東京へいきました。
ただ、そのあと「ものづくりもいいなぁ」と感じ始め、頭のどこかには家業に戻る選択肢があったと思います。それが就職活動の時期と重なりました。
まわりは大手メーカー志望の学生が多かったのですが、僕も説明会に行ってみると、お金の単位も人数も、僕の知っている仕事とは全然違いました。
大手に就職した先輩から、10年目ぐらいまでは一人前になるまでの時間で、そこで結果を残せば、30代後半から出世街道に乗るような流れを聞くと、「僕のスピード感にあわないな」と感じました。
家業に戻るとしたら、数年で一つの事業を自分中心にやらせてもらうとか、社長のそばで働いて経営を間近で見るとか、会社全体を見渡せるところ、影響力が持てる仕事をやりたいなと思っていました。IT企業にはそれをできる環境がありました。それでドリコムに入社しました。親に相談せず、直感で決めましたね。
自分の商品を自分で売る経験
――ものづくりの家業と、ITはかなり違いがありますよね。
職種や業界はそんなに気にしていませんでした。それよりも「成長産業で働く」ということが大事かなと。ポジションがどんどん空くので、20代でも結果を残せばいろんな仕事ができます。
既存ビジネスではなく、新しく広告事業を始めるのでそこに入ってほしいと言われたのがうれしかったです。必死に広告を勉強して、営業から商品づくり、いろいろなことをやりました。
――学生時代に、父から「後を継いでほしい」という働きかけはあったのでしょうか?
家業に戻ったときに「継ぐ気あるのか?」と言われましたね。「俺は継がせるって決めてるわけじゃないぞ」と。学生時代や前職で働いているときは言われませんでした。
ただ、ベンチャーで新規事業をやることと、後継ぎとして家の仕事に従事する、というのは似ていますね。前職では5人しかチームがいないので、人事から営業、ありとあらゆる仕事をしました。
――家業に入る前にはいろいろなキャリアがありますよね。ベンチャーではいろいろな経験ができるというメリットがあるんですね。
何をやっておいたのがよかったかなと振り返ると、お金の大小に関わらず、自分が商品作りに関わったものを自分で売るという、ビジネスを一回転させる経験がよかったなと思います。これはなるべく早く知っておいた方がいいんじゃないでしょうか。
商品開発畑や営業畑など、ずっと同じ仕事に就くよりも、全ての流れをやってみるべきではないかと思います。
リアルなモノで人の暮らしに貢献したい
――そして家業のビートソニックへ。なぜ継ごうと決めたのでしょうか。
ITで広告の商材開発をしていて、このページを見ている人は何人、そして1PVがいくら……というバーチャルな世界でやってきました。やりがいはありますが、「リアルなモノで人々の暮らしに貢献したい」というところに興味が出てきたんです。
少しマイナスな面でいうと、イノベーティブだったアドテクの事業が、外的要因でストップになってしまって、ぽっかりやることがなくなったんです。精神的にやられまして、そのときに満員電車に乗ったり、新宿の雑踏を見たりしていたら、「実家に帰りたいな」と思ったんですね。
前々から30歳前後で帰ることは考えていましたが、結局27歳で帰ることになりました。
――帰ったとき、ご両親の反応はいかがでしたか。
一人っ子なので「昔から愛されてるな」と思っていましたが、案の定、非常にウェルカムな感じで迎え入れてくれました。
仕事を自分で見つける「後継ぎあるある」
――歓迎だったんですね。入社されてからどのような仕事を担当されたんですか。
「後継ぎあるある」ですが、後継ぎは帰っても仕事がないんですよ。
中小企業って、人が辞めたりしない限り、新しい人が入ってこない。後継ぎだけは例外で、人が足りている状態でぽんっと入ってきます。だから自分で仕事を探さないといけないんです。
カー用品の会社なので、社員は車好きで入っている人ばかり。でも僕は運転の経験がほとんどなくて、「これを車に乗せてあそこまで持っていってよ」と頼まれても、「僕こんな大きな車を運転する自信ないです」みたいな。「これだから後継ぎ君は……」とも言われました。
自分で仕事を見つけるために、前職でもやっていた広報を始めました。プレスリリースを送って新聞社や雑誌に取り上げてもらいます。
ほかの社員は「プレスリリースって何?」というぐらいの認識です。ほかの中小企業があまりプレスリリースを出していなかったことや、ネタを探しているメディアもあったので、結構簡単に取り上げてもらえました。そこで成果を積み上げていったかたちです。
――技術力があり、開発にたずさわる中小企業ならではの強みもあるのでしょうか。
先代が発明家気質なので、カー用品以外にもアンテナを張っていて、いいアイデアが見つかったら作ってみて世に出す、ということをやっていました。
開発って、金型をつくるだけで簡単に100~200万円がとんでいきます。でも、技術力が高く、既存事業の収益が回っていれば、なんとかなります。ダメージがゼロかといえばそうではありませんが、年間数百万円の事業など、小さく初めて小さく失敗できる、というのも中小のオーナーカンパニーならではの強みではないでしょうか。
事業基盤があり、エンジニア・開発、倉庫や車など、今あるアセットを組み合わせれば、新規事業にトライできる。既存事業をガラッと変えるのは難しいですが、BtoBをBtoC事業にずらすといった挑戦はしやすいのではないでしょうか。
事業を絞って「これだけしかやらない」というのも一つの哲学ですが、うちの場合は変化していかなきゃ生き残れないという危機感があるので、変化をしていく文化を選んでいます。カー用品や照明には、トレンドがありますから。
夢のようなサービス、クラファン挑戦
――照明事業を始めようと思ったきっかけはあったのでしょうか。
アメリカで開催されるCESなど毎年、エレクトロニクス系の大きな国際展示会やショーは見にいってました。新しいトレンドが見られるし、自分たちのアイデアにもなるので、我が社では全ブースをまわることにしていました。
すると2012年ぐらいから、LEDの電球や照明を扱っているブースやエリアが倍々ゲームのように増えていて、勢いを感じていたんです。いち早く「LEDの時代になるな」と肌感で察することができました。
――この照明事業では、洗練されたデザインのLED電球「Siphon(サイフォン)」で、2014年にクラウドファンディングに挑戦されました。
6年前なので、今とはかなり環境が変わっていますが、自分にとってクラウドファンディングは夢のようなサービスだなと思いました。
モノを作る前、在庫として抱える前に、売れそうかどうかが分かる。予約販売にもなります。決済ツールまで入っていて、成功すればいろいろなメディアがプロジェクトを宣伝してくれます。
サイフォンのアイデアが出てきたとき、いい商品だと思うけれど、今まで通りにやったら販路がないし、誰にも知られずに終わってしまうと考えました。
当時は、米国ではベンチャー企業が1カ月で1億円を集めるクラウドファンディングのプロジェクトも出始めていました。メーカーのシンデレラストーリーですね。
サイフォンはビジュアル面でも押せる商品です。それがバチッと嚙み合ったので、クラファンをやってみようとなりました。
クラファンは最初の一人が一番大事
――当時の日本では、寄付のイメージが強く、テストマーケのようなクラファンはあまりありませんでしたよね。
アメリカのクラファンでは寄付・ボランティア的な側面と、応援購入の側面がありましたが、日本は東日本大震災があったこともあり、「壊れたお店を復旧させよう」といった寄付型のものが多くありました。「プロダクト型」と呼ばれるような「モノでお返しする」予約購入というのはなかなかありませんでしたね。
――最終的に1500万円ほどが集まりました。なぜそこまで注目を集めたのでしょうか。
いろんな成功があるので、正解はありませんが、僕の持論・経験で言うと、「最初の一人」を大事にしたからだと思っています。
クラファンには「まだ支援金額はゼロ円だけど、これはいいモノだから支援しよう」という最初の一人が必ずいるはずです。その人がいないと何も始まりません。
まだプロジェクトが盛り上がっていない段階で、その人がどうやったら、プロダクトの情報だけで1~2万円の支援をしてくれるのか。その人に向けてだけプロジェクトを作っていく気持ちで設計していました。
価値を分かっている人を設定
――最初の一人に照準を合わせていたんですね。
僕の場合は、これまでのLED電球がインテリアに合わないと思っていました。全体をガラスでつくった、昔ながらの電球のカタチを残したままのLED電球をつくれば、その価値を分かってくれる人がいると思いました。「服を着るように照明を着替えよう」と言っています。
その価値を分かる人に設定したのが、ホテルや飲食店の内装の設計をしている設計士さんや、ふだん照明を販売しているインテリアショップの方でした。その中に、「一人目」がいる可能性が高いと考えて、プロジェクトの言葉・画像を選んでいきました。
――クラファンは事前に見込み客をある程度確保してから挑戦する人も多いですよね。戸谷さんはインテリア関係の見込み客は存在したのでしょうか?
約束していた人はいませんでした。実際、こんなとがった照明、いらないじゃないですか(笑)。友人たちに「1万円支援してよ」と触れ回っても迷惑かなと思いました。
プッシュするよさもありますが、それよりも、最初の一歩を踏み出す人がいると信じて、プロジェクトを始めました。
――開始日はどう決めたんですか?
日程をそこまで細かく気にしていたわけではありません。でも、事前に情報が出ないことは非常に気を遣いました。
先に製品情報が出てしまうと、そこに人が集まりますよね。そのタイミングでプロジェクトが始まっていないというのは、せっかく人が集まったのにマイナスです。「いいな」と思ったときに支援できないと、「じゃあいいか」と終わってしまうことがあるからです。
メディアに情報が載るときには、すでにプロジェクトが始まっていて、調べればページにいける、という環境は意識しました。なので、プロジェクトが始まる前日ぐらいにメディアへサンプルを送って、始まって2、3日目に記事が出れば最高だな……といったかたちで進めました。
――クラファンに挑戦する後継ぎたちも増えてきています。プロジェクトの言葉選びは大切ですね。
こちらの原体験をぶつけていっても、ひとりよがりになってしまい、本当のよさが伝わらないことがあります。
自分が描いている買ってくれそうな人の意見や、クラファンのプラットフォームの人の意見を素直に取り入れるのがいいのではないでしょうか。
「家業」の魅力 進むスピードも事業選択も自由
――戸谷さんにとって、「後継ぎの魅力」とはどんなところですか。
いろいろと自由にできることが大きいですね。一家で株を持っていて、誰かに邪魔されずに事業が推進できる、というのはかなりレアなことですよね。
華々しく見えるスタートアップも、自己資金だけで成長できるところはほとんどなく、ベンチャーキャピタルなどが入って、後ろで何人もが関わっているなんてこともあります。たとえば、行き先を「南極」と定めたら、そこにたどり着く義務が発生するんです。
我々のような会社は、船のスピードを緩めてもいい。あの港で3泊しようとか、寒くなってきたからあたたかいところへ行こう、というのも自由です。
「必ず創業者の思いを継いで成し遂げないと」と思うと、自由度がなくなります。生き残りを最優先に考えたら、「自由に舵取りができる」というのが後を継ぐよさなのではないでしょうか。
受け継ぐものももちろん大事ですが、それは起業家精神だけにして、あとは自分のやりたいことや、自分の思いついたことに邁進する。それに成果が出れば、言うことありませんね。