「無」から「有」を生み出す。

新しいビジネスモデルを打ち出して成功させることを目指すのがスタートアップなら、それを最も実践した先達の1人はこの人だろう。

箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)を創業したころの小林一三氏=阪急電鉄提供

小林一三(いちぞう)。

阪急電鉄や阪急百貨店、そして宝塚歌劇団の生みの親だ。

いまで言う「お客様ファースト」の心持ちを大切に人びとの夢をつむいだアイデアマン。

まず周囲にとって「必要な人」になることを若い人たちに説き続けた。

 

一三は1873年(明治6年)、現在の山梨県韮崎市に生まれた。

1月3日に生まれたことで、「一三」と名付けられたという。

慶應義塾で学び、20歳で三井銀行へ。

日清戦争が始まる前の年に大阪支店へ赴任。

ここでビジネスの面白さに目覚めた。

1910年3月10日、箕面有馬電気軌道の開業当日の阪急梅田駅=阪急電鉄提供

1907年に銀行を辞め、箕面有馬電気軌道の立ち上げに関わった。

現在の阪急宝塚線・箕面線だ。

ここで電車を走らせるだけでなく、沿線の住宅開発を同時に進めることで乗客を増やす独創的なアイデアを打ち出した。

後の日本の私鉄経営に大きな影響を与えることになる田園都市構想だ。

1926年、阪急電鉄が阪急西宝線の仁川駅周辺で開発した住宅地=朝日新聞社

1920年(大正9年)に神戸線が開通。

社名を阪神急行電鉄と改め、「阪急電車」として親しまれるようになった。

大阪・梅田と宝塚との間が結ばれた。

宝塚に客を集めるために温泉施設をつくり、さらに、少女たちによる歌劇を上演するようになった。

これが、のちの宝塚歌劇団の前身だ。

1914年4月、宝塚少女歌劇(現・宝塚歌劇団)の第1回公演=阪急電鉄提供

一方、梅田には、駅とショッピングセンターを融合させた日本初のターミナルデパートを開業させた。

阪急百貨店、現在の阪急うめだ本店だ。

洋食をメインとした大食堂が大人気になった。

マーケットや食堂が入居する阪急梅田駅の駅ビル=阪急電鉄提供

郊外に劇場や遊園地をつくり、都心部に百貨店。

そして、沿線では魅力的な住宅開発を進め、住む人たちを通勤客や買い物客、レジャー客として「本業」の電車で運ぶ――。

東京圏の東急電鉄や小田急電鉄をはじめ、日本の多くの私鉄が後に続いたビジネスモデルの立ち上げだった。

阪急電鉄社長在任中の小林一三氏=阪急電鉄提供

「小林一三は、世間ではアイデアマンとしてだけ理解されがちですが、大変堅実な人でした」

阪急文化財団の理事で、小林一三記念館の館長を務める仙海義之さんはそう話す。

「石橋を叩いて、渡るかと思ったら、渡らない。よく叩いて、いざ渡る時には走って駆け抜ける。そういう人物だったようです」

 

堅実さを培ったのは、社会生活の第一歩を踏み出し、14年間勤めた銀行員生活。

事業の打ち出し方や、いまでいうマーケティング、マネジメントなど管理のノウハウを銀行での仕事を通じ身につけた。

のちに自らが事業の先頭に立つようになると、堅実に足元の事業を前に進めつつ、さらにどんな事業が人々から求められているのかも分析し、新たなアイデアを次々と実現していったという。

1939年、訪欧公演から帰国した宝塚少女歌劇団のメンバーを迎え入れる小林一三氏(中央)=朝日新聞社

一三は、1939年(昭和14年)発行の「事変はどう片づくか」という自著に、こう記している。

「研究に研究を重ねて、事業の大方針、基礎をしっかり作る。決して無理をしない。そのかはり、やり出したならば猛然として突貫する」

戦争の足音が大きくなり、社会が不安に覆われていた時代。

仙海さんは「そうした時代に事業を着々と発展させていた一三の考えが、後々の経営者に向けた良い道筋、アドバイスになっているのだと思います」と話す。

 

一三は学生時代、作家になることを夢見た文学青年だったという。

その言説をまとめた「小林一三全集」の第3巻に、「私の行き方」という本が収められている。

1940年、第2次近衛内閣の商工相となり、自宅で記者の取材を受ける小林一三氏=朝日新聞社

1935年(昭和10年)刊行で、一三が執筆した原稿、講演録が収められている。

「学生と語る」というタイトルの一文には、これから社会に出る若い世代に向けたアドバイスが対談形式で綴られている。

一部を紹介すると――。

「必要な人になることが肝要なことで、どっちでもいいと云(い)ふ人間になっては駄目ですね」

仙海さんはこう解説する。

社会では、第1段階で「便利な人」、第2段階で「必要な人」、第3段階で「特色ある人」にステップアップしていくと、一三は考えた。

「便利な人」は常識的な社会人で、誠実に仕事をする人。

こういう人がいてこそ堅実に会社がまわっている、と言われ、良く言えば真面目、悪く言えば平凡な会社員。

「必要な人」は、自分のスキルや知識を周囲の人たちに役立ててもらえる人。

この分野のことは、この人に聞けばわかる、と言われる人。

「特色ある人」はビジョンのある人。

会社がどうあるべきか、社会がどうあるべきかを考え、新しい事業や仕事をつくれる人。

3つのステップの中で、まずは第2ステップの「必要な人」になることが重要だと、一三は学生たちに説いた。

「自分のもとで働く社員に対しても、堅実な人には堅実な仕事、事業を切り開く意欲のある人には意欲的な仕事を任せた。一三は、実によく人を見ていました」と仙海さん。

小林一三氏の業績を後の世代に伝える小林一三記念館=大阪府池田市、朝日新聞社

会社の同僚や取引先の役に立つような知識やスキルを、まずは身につけること。

ビジネスの時計が早く回り、目先の出来事に追われ、将来の成否が気になって不安ばかり募らせてしまいがちないまの時代に、一三のことばは私たちの足元を明るく照らしている。

晩年の小林一三氏=阪急電鉄提供

鉄道、百貨店、宝塚歌劇団……。

事業を次々と成功させた一三は、東京電燈(現在の東京電力)の経営の立て直しにもあたったほか、第二次近衛内閣の商工大臣や、戦後には戦災復興院総裁に就任するなど政界でも活躍。

1957年(昭和32年)に亡くなった。

84歳だった。

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年4月22日に公開した記事を転載しました)