目次

  1. 旅館が大好きな「坊ちゃん」
  2. 民事再生の旅館を継ぐ
  3. 人件費、設備費、ターゲットの見直し
  4. ファミリー層をメインターゲットに
  5. 若者やインバウンドにもアプローチ
  6. 「何もしない贅沢」を提供したい

 三河湾に面した蒲郡温泉郷のひとつである三谷温泉は、「名古屋の奥座敷」として 明治時代から栄えてきました。

1930~40年代は繊維業の旦那衆がお座敷遊びを楽しんだ

 平野屋は、寛幸さんの曾祖父・平野長蔵さんが1932年に料理旅館として創業 。1954年に現在の場所 へ移転し、客室数78、収容人数400人に施設を拡大。最大300人収容可能な220畳の宴会場を設けて、団体客らを迎えてきました。

昭和期の慰安旅行ブームで訪れた団体客(1950年代後半頃)

 幼いころから、大浴場やロビーで遊んでいた寛幸さんは温泉旅館が大好き。「従業員に『ぼっちゃん』とかわいがられ、いつか自分が継ぎたいと思っていた」といいます。けれども寛幸さんは4人兄弟の末っ子。8歳上と5歳上の兄、4歳上の姉がおり、小学生の時に旅館は長兄が継ぐことを知りました。

 ところが寛幸さんが都内の大学に通っている頃、突然、寛幸さんが跡継ぎ候補となりました。旅館業の修行中だった長兄が宮大工へと転向。次兄に継ぐ意思は無く、姉は結婚していたためです。当時の寛幸さんは、将来を悩みながら、バックパッカーとしてアジアを放浪する日々。日本文化の素晴らしさに気づき、日本人に誇りを感じていたこともあり、旅館を継ぐことを決めました。

 大学卒業後は1年間、母親のつてで、岐阜県の下呂観光ホテルへ修行に。団体客を相手にする商売は厳しくなっていたため、メーンターゲットを個人客に据える下呂観光ホテルの経営手法を学びました。

 平野屋の売上は、最盛期には16億円あったといいますが、寛幸さんが入社した2002年頃には10億円前後。1980年代、90年代に計19億円かかった増築費の借金返済のため、宿泊を安売りした結果、2009年に民事再生法の適用申請となりました。

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