高齢者もがんサバイバーも活躍 横引シャッター2代目の人材戦略
東京都足立区の横引シャッターは、駅の売店などで使われる横引き式シャッターのトップメーカーです。2代目の市川慎次郎さん(46)は、父の代に重ねた売り上げの数倍にのぼる借金や、社員の大量離脱などでも「社員は家族」という理念を守り人員整理はしませんでした。80歳の社員やがんサバイバーの社員も安心して働ける環境をつくる人材戦略で、家業を成長させています。
東京都足立区の横引シャッターは、駅の売店などで使われる横引き式シャッターのトップメーカーです。2代目の市川慎次郎さん(46)は、父の代に重ねた売り上げの数倍にのぼる借金や、社員の大量離脱などでも「社員は家族」という理念を守り人員整理はしませんでした。80歳の社員やがんサバイバーの社員も安心して働ける環境をつくる人材戦略で、家業を成長させています。
目次
横引シャッターの始まりは、市川さんの父・文胤(ふみたね)さんが1970年に創業した中央シャッターです。シャッター修理・営繕・メンテナンスなどを行う会社でしたが、70年代半ばごろ、カーテンのように開閉する横引き式のシャッターを開発しました。
横引き式シャッターとしては後発でしたが、下に取り付けたタイヤでレール上を走らせる他社製とは違い、滑車を使って上吊り式にしたのが大きな特徴です。これによって、シャッターの使用を重ねるうちに動きが悪くなるという問題を解消しました。
曲線を描くように施工できる点も特徴で、現在はキオスクや高島屋などの大型商業施設のほか個人宅まで、多くの場所で使用されています。横引き式シャッターのシェアは業界トップの30%。その独自技術で地元足立区が認定する「足立ブランド」にも選ばれています。
中央シャッターは町の修理業者でしたが、当時はメーカーではないという理由で、ゼネコンなどから取引に応じてもらえなかったといいます。文胤さんは86年、メーカーである横引シャッターを中央シャッターのグループ企業として設立しました。
市川さんは子どものころから、家業を継ぐことに抵抗はなかったといいます。父からは「お前たちが学校に行けて、ご飯が食べられるのも、会社の社員が一生懸命働いてくれているお陰。大きくなったらこの会社に入社し、恩返しするんだよ」と教えられました。
学生のころから夏休みなどに横引シャッターでアルバイトに精を出し、製造、工事、営業など様々な経験を積むことができました。
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高校卒業後は、父の勧めで中国に5年半留学しました。当時、横引シャッターは中国に合弁会社を設立していた関係で、中国語を身につけてほしかったといいます。
2000年に帰国した市川さんは、横引シャッターに入った後、宅地建物取引士の資格取得のため、いったん不動産会社に就職。その後訪問介護の仕事などを経て、02年に再び家業に戻りました。
市川さんは社長秘書に就きます。実態は何でも屋で、雑用係やクレーム担当のほか、あらゆる業務を任されました。
人手が足りない職場の応援に入るなど製造や修理の技術も身につけてきましたが、04年、先代が生きている間に事業承継することを決意します。
「先代にはカリスマ性がありましたが、社長でないとわからないことが多すぎました。このままだと万が一のことが起きたら会社は倒産です。社長が元気なうちに事業承継しようと決めました」
決意が促されたのには、大きな理由がありました。
社内で督促状が開封されずに山積みになっていたので、会社の借金を洗い出したところ、総額9億円にのぼることが分かりました。当時の売り上げが2億円ほどだったので、いつ倒産してもおかしくない状況でした。
銀行からの借入金が6億円、そのほか税金の未払いや仕入れ先への未払い、社員への給料遅配などもあったといいます。
同社は横引き式シャッターのほかにも製品を開発していましたが、いくら新製品を開発しても売れません。借金の原因は開発費を投じて新製品を作り続けても、売れずに利益を生まなかったことでした。先代は「一発当てれば返済できる」と考え、返済より新製品の開発を優先したといいます。
先代と当時の経理部長は借金の総額はわからなかったといいます。市川さんが計算して総額を伝えた時、2人は固まったそうです。暗黒時代が到来しました。
総務部長だった市川さんはまず経理部を二つに分け、借金返済のための部署をつくり、部長を兼務しました。
経費削減も徹底します。工場の照明の位置を変更して暗くすることなしに蛍光灯の本数を減らす、営業車やトラックに入れるガソリンは1日20リットルに制限する、電話回線を減らす、といった細かい施策を積み重ねました。
浮かせた資金を借金返済と会社の資金繰りに。経理部の反発で協力が得られなくなることを避けるため、常に会社の資金繰りの方に多く回しました。滞納していた税金や労働保険料も交渉した結果、分割払いなどでのんでもらうこともありました。
在庫の抑制のため、材料や部品の統一も図りました。3色だった標準色を1色にして塗料を削減したり、部品の寸法をそろえたりしました。活動実態のないグループ会社3社も休眠させたといいます。
人員削減については先代の強い意向で手をつけませんでした。中央シャッターを創業した時、人手不足で苦しい思いをした経験からでした。
「社員を辞めさせないのは、すごくいい経営ポリシーだと思います。ただ、どんな社員であっても辞めさせないので、当時は会社にぶら下がるような人もいました」
余剰人員を活用するため、市川さんは「慎次郎組」を結成し、工場の改修に取り組みます。
使わない鉄骨や回収した古いシャッターを活用し、明るい雰囲気の職場に変えていきました。
営業車を買ったり経理部のパソコンを更新したりするなどの投資も行いました。営業車やパソコンの購入費は本社と工場に設置した自動販売機の利益を使いました。
「社員のモチベーションアップや会社の変化を印象付けるため、目に見えるところを変えていきました」
市川さんは05年に取締役総務部長に就任。返済に着手してから6年後には借金9億円のうち7億円を返していました。
しかし、試練は続きます。11年12月、先代が会議中に倒れ、そのまま息を引き取りました。カリスマだった創業者の死をきっかけに、86人いた社員の多くが離れ、残ったのは市川さん含めて11人だけでした。
そんな中、市川さんは12年に2代目社長に就任し、再スタートを切ることになります。
守り抜いたのは「社員は家族」という先代の教えでした。それは助け合いを重視し、忙しい部署があると他部署の社員が戦力として応援に入る文化でした。
例えば、社員がミスをした際に周りがフォローしなかった時には、全社員が入るLINEグループで「俺はこういう人たちを仲間と呼ばない」と怒りの声をあげたこともありました。
フォローし合う文化が根付いているので、高齢者でも無理なく働けます。22年2月までは94歳の社員が働いていました。今の最高齢は設計担当の80歳。年齢は関係なく採用を進めているので、この社員は入社から2年ほどしか経っていないといいます。
大病を患い長期間休んでも一定の範囲で収入を保障。休んでいる間も、決めた額を支払い続けます。
「額は専務と古参社員に相談して決めます。社員のみんなが頑張ってあげた利益から支払うので、私の気持ちや想いだけで決めるのはいいことではありません」
病気が理由で長期間会社を休んだ間も給料を支払った社員は、これまで7、8人いたそうです。長期入院後に復職したがんサバイバーも元気に働いています。
「家族だったら当たり前のこと」と市川さんは話します。社員には一生懸命働いていれば、大病を患ってもいつまでも働けるという安心感が生まれ、モチベーションを高くして仕事に向き合えるといいます。
社員の多能工化が進んだことも、助け合いが機能している要因です。多能工化に取り組み始めたのは、06年からです。一人ひとりのスキルを明確にし、習得してもらいたいスキルを身につけられる職場への異動を、4カ月に1回程度実施。こまめな異動で多くの仕事を覚えてもらいました。
「誰かに負担が偏らないよう、特殊な技能を要する仕事以外は社員全員ができるようにしました」
営業をはじめとする事務系社員も例外ではありません。人手が足りない時は、工場でも作業できるようになっています。
一方、先代時代と異なるのが製品開発への考え方でした。開発費で大きな借金を作った先代時代の教訓から、市川さんは自社開発にはこだわりません。
他社が開発した製品を自社ブランド製品として販売することもあります。製品を受注すると開発元の他社に発注し、横引シャッターが取り付けや保証を引き受けます。
「社長同士で仲のいい会社と協力して中小企業連合をつくり、互いの製品を自社製品として販売することもしています。これまで届けられなかったところに製品を渡せるようになりますし、販売する時はマージンを上乗せするので損はしません」
「連合」は横引シャッターを含め9社ほどで構成。同業も他業種の企業も参加しています。社長同士の仲の良さでつながり、OEM(相手先ブランド製造)を請け負う契約や販売代理店になる契約を結んでいるわけではありません。
同社が販売している他社製品には、カーテンシャッターやプラシャッター(プラスチック製シャッター)などがあります。他社と部品の共有も進めており、工場が忙しく手が回らない時などに生産をお願いすることもあります。
市川さんは「0から1を作るのが得意な先代と違い、私は1を3や5にすることの方が得意です」と話します。社長就任後は自社開発した新製品よりも、既存品の改良の方が多くなったといいます。
それでも自社開発した製品には、16年1月から発売した「スーパー横引きシャッター」があります。防災に特化し、アルミ製ながらスラット(シャッターを構成する板状の部材)を強化することで地震や台風などの自然災害から家屋や人命を守ります。下レールに防水ゴム、スラットに防水シートを採用し、浸水被害を食い止めることもできます。
シャッター以外では、新型コロナウイルスの感染拡大が始まった20年から、オーダーメイドのアクリルパーティションの提供を開始。同年6月には足立区役所に100台寄贈しています。
市川さんの社長就任1期目こそ赤字でしたが、以後は黒字を継続。現在の売り上げは3億円ほどになります。9億円の借金は完済し、一時11人にまで減った社員も33人にまで増えました。
直近の目標は、中央シャッターなどを含むグループ全体で10億円の売り上げを目指すことといいます。
これまでは働きがいや生きがいに重きを置き、数字を目標に掲げることはありませんでしたが「会社としての形がある程度できてきたので、これからは経営目標に数字を掲げ、追いかけることにしました」。
市川さんは先代のすごさを「亡くなった後も息子に自慢されるところ。社員から見たら裏切らないという絶対的な信頼もありました」と話します。「先代社長の証明」を心に刻みながら、市川さんの挑戦はこれからも続きます。
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