研美社の前身は、中田さんの祖父が創業した研美社印刷所です。そこが廃業し、1986年に中田さんの父が研美社を設立しました。今の従業員数は正社員とパート、役員で31人。20~40代が8割を占めます。2022年5月期の売上高は、約5億6千万円です。
現在、プラスチックカード印刷を強みとする同社は、同業の印刷会社をはじめ広告会社、デザイン会社などからショップカードや社員証、診察券などの印刷を請け負っています。
「プラスチックカード印刷を始めた04年は、まだまだニッチな分野でした。どこに発注すれば良いのかわからない全国の会社がネット検索でうちを探し当て、そのまま注文してくださるパターンがほとんどでした。今も全国から注文をいただいています」
さらに時代の変化に合わせ、同社ではデジタル名刺「ニアバイ」を展開中。非接触が叫ばれる世の中と、SNSや通信ツールが豊富な時代にマッチした商品で、さらなる躍進を目指しています。
幼いころの中田さんは、祖父の逸平さんが創業した「研美社印刷所」の倉庫を格好の遊び場にしていました。父親の勇四郎さんは6人きょうだいの4番目でしたが兄が会社を継ぎ、父も専務兼営業担当として家業に入りました。その後、父は独立しますが印刷機を持たず営業のみで、仕事は研美社印刷所に外注していました。
ところが中田さんが10代後半のころ、研美社印刷所は廃業しました。父親は「研美社」の社名を引き継ぎ、存続させるために外注先探しに奔走しました。
「だからでしょうか。父から印刷屋を継ぐかといった話は一切なかった」
中田さんは大学卒業後の1992年4月、大手電子機器メーカーのキーエンスに就職しました。しかし、東京で華やかな生活が満喫できるという期待は裏切られました。なぜなら配属先は東京ではなく、10人ほどの地方支店だったからです。5年後、中田さんは自ら転勤を願い出、大阪市内の支店へ転勤しました。
「でも転勤願いが通ったことで、“自分は会社に必要とされている”と勘違いしてしまった。俺ってすごいと、てんぐになってしまったんです」。
支店内の雰囲気も、大阪では一変しました。営業の現場は厳しく、手数と提案、そして知識の三つをたたきこまれました。
その環境で、中田さんは人間関係の大切さを痛いほど感じたそうです。「激務の中でサポートしてもらおうと思ったら、やはり相手から好かれなければ。特に営業には必須です」
「わかっていなかった」と振り返る中田さん。気づいた頃には本当の一匹おおかみになっていたといいます。結局8年目で「逃げるように」退職。すでに妻子を抱えていた中田さんは、2000年、「家族を養うため」家業に入ります。父親は黙って迎え入れてくれたそうです。
ネット通販への業態転換
すでに印刷業界は斜陽産業と目されていました。当時の研美社の従業員は、中田さんの両親や妹2人も含む計7人で、典型的な家族経営でした。
中田さんはまず新規開拓と思い、飛び込み訪問から始めました。しかし、「ああ、印刷屋?」、「名刺いくら?」という言葉が投げられるだけ。「印刷屋」という響きと、利益の少ない名刺印刷しか仕事がないという情けなさに、新規開拓の意欲を無くします。
中田さんが着目したのはインターネットでした。当時はメールもネットも中小企業にはそこまで浸透していない黎明期。そんな中、ネット通販のノウハウを教えるセミナーに参加しました。
中田さんは01年に独学でホームページを開設。そこで名刺やはがき印刷の受注を取り始めたのです。それが大当たりして全国から依頼が殺到しました。「対象顧客が全国区になった。これはすごいと心底驚きました」
研美社はそれまでのパッケージ印刷から名刺やはがき、年賀状印刷のネット通販へ業態を変えます。
プラスチックカードの印刷へ
ところがそのうち「これは大変だ」と思うようになりました。原因は年賀状です。季節ものとはいえ、全国からの注文数は膨大で、連日徹夜続きでした。「もっと利益率が良くて先進的な商材が欲しい」
当時、研美社のあった大阪・鶴橋は飲食店が多い町です。研美社には「店のメンバーズカードをプラスチックで作りたいけど、どこに頼めば良いかわからない」と、よく相談が持ち込まれていました。その都度、知り合いのプラスチックカードの印刷工場に問い合わせ、1週間かけて見積もりをもらいますが、時間がかかる上に値段も高いので、思うように商売に結び付きません。
そんなとき、中田さんの元にプラスチックカードの印刷工場から来たという営業担当者が、飛び込みであいさつに訪れました。
「その営業マンはスキルとセンスがよく、ピンときました。きっとカードも全国にニーズがある。ホームページにカード印刷と価格表を出して売れば、当たるかもと」
04年、価格表とプラスチックカードの印刷・販売をうたったホームページを出すやいなや、全国から注文が舞い込みました。研美社は業界でいち早くプラスチックカードの通販を始めた会社として知られるようになったのです。
挫折を機に社員育成法を変える
プラスチックカード印刷のネット通販に切り替えた翌年の05年、売り上げの3分の1を占めていた製薬会社が倒産したこともあり、紙からカードへの業態移行はスムーズでした。07年に中田さんは社長に就任、09年には東京へと進出します。
順調だった研美社も14年、営業赤字転落を味わいました。原因は東京で採用した社員2人が同年に同時退職した影響でした。「東京に出て12年に採用した2人でした。精神的に厳しかったですね」
自分の育て方が悪かったのか、過度なプレッシャーをかけ過ぎたか――。反省した中田さんは立て直しを図ろうと、翌年に始めたのが「GOGOプロジェクト」です。
それまでは会社としての目標を立てていませんでしたが「当時の売り上げは3億円ほどだったので、5億円を目指そうと決めました」。
次にチームワークづくりに取り組みます。毎年2回全社員を集め、1日かけて講師を招いてのコーチングやチームビルディング研修、社員同士の交流会を始めたのです。
「社員の育成は自分一人では難しいので、外部から別にコンサルタントも招いて育成方法を学びました。それだけ社員2人の退職のショックが大きかったからですが、おかげで懸命に取り組めました」
今も年2回、経営方針発表会として全社員を集めて思いを共有。最近ではデジタル社内報も発行しています。
外部に向けた発信では、研美社が運営するインスタグラムが大活躍です。なかでも毎週水曜日12時45分から13時のライブ放送は、社員が漫才ネタや小話を披露する人気コンテンツとなっています。
「ここ2年ほどで、ユニークでアットホームな社風に育ちました。時間はかかりましたが、そもそも人づくりは時間をかけてじっくり取り組むものですから」
そんな研美社らしい自動販売機が、社内にあります。サントリーが展開する「社長のおごり自販機」です。これは全員に配った専用カードを持った社員2人が、一緒に「せーの!」でピッと所定の位置にかざすと、飲料が出てくる仕組み。もちろん社長のおごりなので、社員は無料です。
「実はこの専用カードを作っているのが、研美社なのです」
ICチップ搭載で小ロットでの作成は、まさに小回りのきく仕事ができる研美社の強みが発揮できる分野です。中小企業でも、扱っている商材次第で大手企業と協業できるのがうれしいと中田さんは言います。
デジタル名刺のサービスを開発
約20年にわたりプラスチックカードを主力事業にしてきましたが、最近は顧客向けのサービスをカードからスマホアプリに切り替える店も増えています。
そこで店舗が自由にデザインできるアプリ「ラポレル」を開発し、21年5月から販売を始めました。しかし新型コロナウイルスの長引く影響で、なかなか軌道に乗りません。
非接触が叫ばれる中、1人の役員のアイデアから新たな事業が生まれました。それがデジタル名刺「ニアバイ」です。NFC技術を使い、ICチップを内蔵した自分専用のプラスチックカードを相手のスマートフォンにかざすだけで、プロフィルを相手に伝えられるデジタルコンテンツです。
「アプリのインストールやQRコードの読み込みといった手間は一切ありません。相手のスマホ画面をなでるようにかざすだけで、画面に自分のアイコンがふっと表れます」
そのアイコンをタップすれば、ホームページやインスタグラム、フェイスブックなどの情報や、メールやLINEの情報が表示されるので、すぐに連絡を取り合えます。
紙の名刺以上の情報をまとめて送れるサービス「ニアバイ」は、22年8月に月額880円で販売しました。
類似のサービスを展開しようとする会社は、他にもあるそうです。ただし、そうした会社が発行する専用のカードの印刷を手がけるのも研美社です。ニアバイを広めるのはもちろん、他社のサービスが普及しても研美社の利益が上がる仕組みというわけです。
変化こそが生き残る道
研美社はプラスチックカード印刷を主軸にしながら、ニアバイなど新規事業を育て、5年後の27年には売り上げ10億円を目指します。
19年5月期には売り上げ5億円を突破し、社員も20人を超えました。新型コロナウイルスで一時売り上げは下落したものの、翌年には回復しています。
「当社は大量生産ではなく、小ロット対応を強みにしていたこと。またICチップや顔写真入りのカードなど、付加価値の高い商品印刷を取り扱ってきたという2点が、大きく崩れなかった要因だと思います」
現在も研美社のカード印刷はほぼ外注です。ただし付加価値の高いカード印刷は自社で行います。
21年にはメーカーと商社、そして前職のキーエンスの仲間と協業で開発した特注の印刷機で、これから生産力を伸ばそうとしています。開発したのはロボットアームを組み合わせた新しい印刷機械になります。人の代わりに24時間の稼働が可能になり、研美社の秘密兵器だそうです。
「メーカーだけでは、ロボットアームと組み合わせる発想は生まれなかったでしょう。そこを前職の仲間が提案してくれ、商社がまとめてくれました。この1号機は皆さんの知恵と技術の結集です」と顔をほころばせます。
中田さんは、ひらめきタイプの人間ではないといいます。その代わり常にアンテナを張り、引っかかったきっかけを武器にしてきました。
だからセールス電話も、少しでも印刷に関わることなら話を聞き、飛び込み営業も歓迎します。
斜陽といわれる印刷業界で、紙からプラスチックカード、アプリやデジタル名刺と、業態や扱う商材を変えてきた中田さん。「変わるのは、しんどいですよ」と言いつつ、「でも、変化することが唯一の生き残る道。生き残るためには進化することです」と後継ぎ仲間にエールを送りました。