せんべいの未来に危機感 店も屋号も変えた松崎商店8代目の原点回帰
東京・銀座の松崎商店は1804年創業のせんべい店です。8代目社長の松﨑宗平さん(45)はデザイナーから転身し、今もバンド活動を続ける異色の後継ぎになります。29歳で家業に入り、せんべいの未来に不安を感じたことから「原点回帰」を軸にリブランディングに着手。カフェスタイルの店舗の開店や、看板の瓦せんべいを使ったスイーツの開発、家業のコンセプト作成などを手がけました。社長就任後、本店を移転し、屋号も変える決断も下しています。
東京・銀座の松崎商店は1804年創業のせんべい店です。8代目社長の松﨑宗平さん(45)はデザイナーから転身し、今もバンド活動を続ける異色の後継ぎになります。29歳で家業に入り、せんべいの未来に不安を感じたことから「原点回帰」を軸にリブランディングに着手。カフェスタイルの店舗の開店や、看板の瓦せんべいを使ったスイーツの開発、家業のコンセプト作成などを手がけました。社長就任後、本店を移転し、屋号も変える決断も下しています。
目次
松崎商店は1804年、現在の東京都港区で創業しました。1865年に銀座に移転し、松﨑さんの祖父で6代目の五男さんが1948年に「松崎商店」として株式会社化します。
看板商品は絵や文字を入れた瓦せんべい「大江戸松崎 三味胴」です。小麦粉や卵、砂糖などで生地を作って焼き上げ、色とりどりの砂糖水で絵をつけていきます。
5代目・房吉さんが「茶色のせんべいに少しでも季節感を」と始めたもので、柿渋紙でまんじゅうや上生菓子に絵や模様を付ける伝統手法がもとになりました。店内には花鳥風月を表す絵柄の瓦せんべいがずらりと並びます。
現在の絵柄はおよそ200種類。社章・校章・ブランドロゴなどを入れた瓦せんべい「オリジナル三味胴」も人気です。草加せんべいやおかきなどの米菓子や和菓子の製造・販売も手がけ、商品アイテム数は定番だけで60品以上あります。
父で7代目の宗仁さんは2007年に本店を改装。16年には東京・世田谷の松陰神社前に店を構えました。
18年に社長に就任した松﨑さんは、21年に本店を銀座から東銀座に移転。ネオンサインや、音質にもこだわったスピーカーを配するモダンな店となりました。現在、50人超の従業員(パート・アルバイトを含む)が働いています。
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2人兄妹の長男の松﨑さんは、自宅1階に店があった幼少時代、おやつはもっぱらせんべいで、ポテトチップスにあこがれました。中学生からギターを始め、のちにベーシストに転向。大学時代に組んだバンド「SOUR」が人気となり、現在も精力的にライブやレコーディングをしています。
大学時代にはグラフィックデザインにも取り組み、企業のデザイン部のアルバイトとして経験を積みます。
それでも家業は身近な存在で、当時の東京駅店でアルバイトするほどでした。「祖父母は継ぐ前提で話をしますが、両親からは一度も継げと言われたことがありません」。松﨑さんの中で「継ぐ自分」と「継がない自分」が長らく共存していました。
卒業後はモバイルコンテンツなどを手がけるベンチャー企業にデザイナーとして入社。約10人の会社で、デザインだけでなく営業やプログラム制作、イベント運営など幅広く携わりました。
29歳のころ社員が40人にまで増え、松﨑さんはデザイン事業のトップのチーフアートディレクターに就いていました。しかし、松﨑さんはこのタイミングで父と相談し、2007年、家業に入ることを決めます。
「ベンチャー企業は新規事業に積極的に取り組み、可能性を探るビジネスです。日ごろから売り上げを上げるために何をするかを細分化し、試してだめなら違う形に変えるなど多くをたたき込まれました。家業でもそのロジックは生かせると思いました」
入社後は銀座本店の販売業務を担当し、半年後にはバックオフィス業務に就きました。「特に何も指示されず、自分で仕事を探す必要がありました。店のホームページも個人ごとのメールアドレスもなかったので、自分で整えました」
さらに気になったのは、社員の平均年齢だったといいます。
「60歳代が中心だったので、『あと10年経ったら会社はどうなるのか』と焦りが生じました。若い人材を積極的に採用し、企画室を立ち上げ、ECサイト制作にも力を入れていきました」
この時期に入社した一人は現在、財務担当として松﨑さんの右腕になっています。
昭和初期は草加せんべいが人気だったこともあり、松崎商店は長らく米菓が主力で、松﨑さんが入社したころも瓦せんべいの売上比率は全体の5%も満たない状況でした。
そこで松﨑さんは父やスタッフと話し合い、もう一度瓦せんべいにフォーカスを当てます。
「もともと松崎商店は小麦で作る瓦せんべいから始まったお店です。『昔から長くやってきたものを大切にしたい』と思うようになり、少しずつ瓦せんべいに比重を置く形に変えたんです」
瓦せんべいのラインアップを増やすと同時に、それまで知人・友人からの依頼を受ける程度だった「オリジナル三味胴」の受注を増やすべく、専属の営業部員を入れて様々な企業に声をかけました。
そして、サンリオの「ハローキティ」とのコラボが実現し、松崎商店の存在が広く認知されるように。有名企業からの依頼も増え、瓦せんべいの売上比率は30%以上、「オリジナル三味胴」の受注は10倍以上に増えたといいます。
やがて松﨑さんは、経営課題の根にあるのは長く変わらないせんべいの価格や価値ではないかと考えるようになりました。
「せんべい業界は時代に合わせた値上げがうまくできていませんでした。銀座で200年以上商売をしてきた強みを生かしつつ、さらに多くのお客様に認知されるにはどうしたらいいかを考えました」
前職のベンチャーではゼロからブランドを作り上げた一方、松崎商店は銀座の老舗企業です。正反対の立場から「ブランド」を突き詰め、松﨑さん主導で16年に開いたのが、東京・世田谷の松陰神社前のコンセプトストアでした。
「菓子ブランドや店舗が増える中、お客さまの選択肢を増やすため、父とも相談し、銀座以外に路面店を出すことを目指しました」
13年ごろから始めた物件探しは難航。そんな折、松﨑さんは友人の店がある東急世田谷線の松陰神社前駅を訪ねました。駅前商店街は個性的な店が増え始め、客層も20~30代のファミリーなどが中心で活気があり、出店を決めました。
同店は「地域密着・原点回帰」をテーマに、銀座のフォーマルなイメージとは一線を画し、親子で気軽に立ち寄れるカフェスタイルにしました。イートインにも注力し、瓦せんべいとハンドドリップコーヒーのセットや、あんみつなどの甘味も提供しています。
「松崎商店の原点は街のおせんべい屋さんです。この店は創業時と同じではないかと思いました。原点回帰の想いから、使っていなかった古いロゴを復刻し、デザインやキーカラーを決めました」
松陰神社前店の開業によって取材も増え、副社長に就任した松﨑さんが質問に答えられるように、店の歴史や先祖の想いなどを父に聞くことで、家業への理解をさらに深めたそうです。
大学時代から続けるバンド活動も経営に生きています。
「家業に入った07年ごろからユーチューブにミュージックビデオを投稿していたんです。最初の曲が海外で反響を呼び、その後の曲の動画もバズって、国内外でライブができるようにもなりました。商売も音楽も同じ。間口を大きく広げて松崎商店のお菓子を知ってもらい、最終的に1%でもファンになっていただけたらと思うようになりました」
17年には老朽化のため、銀座4丁目の自社ビルの建て替えを実施します。その1年前、松﨑さんは社長室に呼ばれ、父から「最終判断は任せる」と言われました。不動産会社とも相談しながら建て替え後の土地活用を検討。本店は銀座5丁目に移転し、新しくなった自社ビルはすべてテナントとして貸し出すことにしました。
一段落した18年、松﨑さんは社長に就任します。就任直後の19年にはブランドをリメイクし、家業のコンセプトを「一枚一枚 心を込めて 手を抜くな」と定めました。それは祖母や父がよく口にしていた言葉でした。
「昔のせんべい店は作った分だけを職人さんに払う歩合制が主流でした。それだと枚数を作るほど給料が上がるので、仕事が粗(あら)くなってしまいがちです。うちの店はあえて給料制で、1枚ずつ丁寧に作ることを重視していました。今につながる言葉として大事にしたいと思いました」
コンセプトは店内の壁のほか、スタッフが包むたびに思い出せるように包装紙にも記しています。
松﨑さんは19年5月、強烈な吐き気で入院を余儀なくされます。糖尿病と腎機能の低下によるもので、最高血圧は275になっていました。その後は脳梗塞も発症し、半身麻痺が起こるなど生死の境をさまよいます。
「リハビリをしましたが、舌がうまく回らないことが多かったり、楽器がうまく弾けなかったり後遺症が残っています」
それでも、一命をとりとめた今、大きく考えが変わりました。
「『先は長くないんだ』と実感し、取り組んでいることを全力で楽しもうと考えるようになりました。スタッフのことをもっと信頼しようと、肩の力が抜けたような気もします」
翌20年のコロナ禍で、銀座からも人の流れが消えました。本店は売り上げが立たず厳しい状況でしたが、松陰神社前店は安定していました。地域に根差す店の強さを改めて感じたといいます。
「銀座も、これまでの本店と松陰神社前店の延長線上にあるようなお店に作り替えようと移転を決意しました」
店名も「銀座 松﨑煎餅」から「松崎商店」へ。さらに本名の「﨑」と社名の「崎」を統一するため、アルファベット表記の「MATSUZAKI SHOTEN」に変更しました。そこには表記統一だけじゃない理由もありました。
「祖父がかつて商号を『松﨑煎餅』ではなく『松崎商店』としたのは、今後はせんべいだけじゃなくてもいいのではないかとの想いがあったから、と祖母に聞きました。その伸びしろを作ってくれたのは、僕にとってすごく大きなこと。祖父の想いをつなげるためにも、移転のタイミングで店名を変更しようと決めました」
移転先は東銀座駅のすぐ近く。3倍以上の広さになったこともあり、物販スペースにこれまでの商品を集約。イートインスペースも設け、せんべいやコーヒーを楽しめる場所にしました。キーカラーは移転前の本店のえんじ色と、松陰神社前店の藍色をミックスさせた紫色です。
カカオニブとチョコレートを加えて焼き上げた「黒格子」、黒格子を混ぜ込んだミルクアイス、「ぎんざ空也 空いろ」のあんこを使った「松崎ろうる」なども新しく開発し、瓦せんべいの新しい楽しみ方を提供しています。
同じ老舗の若旦那衆とともに、和菓子を楽しむDJイベントも積極的に実施。今後は本店で開催できるよう、スピーカーやライティングなどにもこだわって店を作っています。
松﨑さんの入社後、看板の「大江戸松﨑 三味胴」を始め、瓦せんべいの販売数は着実に伸びています。現在の生産枚数は1日平均約4千枚、注文が増える時期は6千~7千枚を焼き上げており、せんべいのブランド価値を高めるきっかけにもなっています。
昔ながらのせんべいの魅力を再構築する松﨑さん。老舗の新たな価値をつくるべく奮闘しています。
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