村上さんの父・忠さんは地元の有力企業である東洋印刷とニンジニアネットワークの後継ぎ経営者で、17年から経営難だった愛媛FCの社長も兼務しています。家業の役員だった村上さんも父から声をかけられ、21年に愛媛FCの一員となります。財務面や組織マネジメントの改革に努めますが、クラブはこの年、16年戦ったJ2からJ3への降格が決定。村上さんはその悔しさから、再建に本腰を入れ始めました(前編参照)。
降格は愛媛FCにとって大きな試練となりました。元日本代表監督・岡田武史さんがオーナーで同県のJ3クラブ・FC今治とも比較され、「『愛媛FCはもう終わった』という空気が、外だけでなくクラブ内にも蔓延していました。その空気を変えないといけませんでした」(村上さん)。
「就任した年から、営業に回ると『愛媛FCは何をやっているかわからず、ビジョンがない』と言われました。選手出身の青野大介GMがビジネスの勉強もしていて、ミッション・ビジョン・バリューの策定に共感してくれたので、フィロソフィーを考え始めました」
愛媛FCは、1989年度に愛媛県立南宇和高校が全国選手権を制したのを機に、世界に羽ばたく選手や指導者を育てる機運が高まり、1994年に設立されたユースチームがルーツです。
「歴史を振り返ると、十分なお金が無かったので若い選手をレンタルして戦ってきました。しかし、低予算で獲得できるのがレンタル選手しかいないという考えではなく、自分らで有望な若い選手を見つけて成長させ、チームの主軸としてはもちろん、日本や世界のトップで活躍できるようにしたい。そんな柱を打ち立てました」
村上さんは、こうした「育成思想」をフィロソフィーブックとして小冊子にまとめました。ページをめくると「優れた指導者と選手を育み、次世代へつないでいく」、「人を育み、人々をつなぐ」という言葉が並びます。冊子はホームページにも掲載。クラブのステークホルダーに広くビジョンを共有したのです。
ビジョンに共感するスポンサーを
降格決定後、村上さんはスポンサー営業でも新規開拓を目指しました。「最初は(既存スポンサーを)つなぎとめるのに必死でしたが、そこに固執しすぎてもいけない。そこも含めてクラブ経営の入れ替わりなんだと思いました」
村上さんは、地元愛媛の企業にこだわらず、東京でも営業を展開します。そのときに武器になったのが、「育成」を掲げた経営ビジョンでした。
「育成というフィロソフィーに共感して応援してくれる形を増やしたかった。そうしないと、広告宣伝費が1桁も2桁も違う東京のチームには勝てません。愛媛の皆さんに応援していただくのは継続しつつ、フィロソフィーに共感してくれる東京などの企業も探しました」
こうした理念は、企業経営のトレンドともマッチしていたといいます。
「企業の価値観が大きく変わり、給与面だけでなく精神的な豊かさを重視するケースが増えています。私の周りにも、人材育成など社員への熱い思いを持ち、コアバリュー経営を大切に考える経営者がたくさんいました」
村上さんはそうした経営者向けに、愛媛FCのスタジアムツアーを組むなど、育成への共感を広げる営業に注力しています。
カテゴリーを落としたにもかかわらず、愛媛FCの今季のスポンサー収入は過去最大になりました。23年夏には、若手有望株の行友翔哉選手がポルトガル1部のチームに移籍。営業面、競技面ともに「育成」を前面に掲げた成果が表れています。
クリエーティブ領域を強化
村上さんの改革は情報発信にも及びました。フィロソフィーブックをはじめ、動画や写真などのクリエーティブ領域を強化したのです。それまでは内製化していましたが、コロナ禍の補助金などを活用し、外部委託のクリエーターをオフィシャルスタッフとして招きました。
映像クリエーターにも参加してもらい、それまでハイライトのみだった動画配信も長尺で流すようにしました。サポーターとの情報交換会はノーカットでユーチューブ配信しています。こうしたオープンな情報公開も、村上さんこだわりの改革でした。
「クリエーターは単なる発注先ではなく、理念に共感してクラブを盛り上げてもらえる仲間です。組織の一員としてクラブのことを理解しているので、成果物のクオリティーが上がりました」
内部課題の解決にも向き合いました。
「会計の『見える化』を徹底してきました。部門責任者が集う幹部会では、会計の知識がない人にも、『今年は2千万円くらい足りなさそう』といった数字を全部見せています。そうすれば、ここにどのくらいの予算を割くべきか削減できるかなどを、全員が把握できます」
取り払った「他責マインド」
就任当初、サッカーは見るのも「素人」だった(前編参照)という村上さんでしたが、コンサルの経験を競技面のマネジメントにも生かしました。
「降格した年、選手たちには、問題提起が強化部で止まり、経営にきちんと伝わっていないんじゃないかという不信感がありました。経営側と強化部で他責マインドがあるようにも思えました。そこで、監督や選手、スタッフと1on1で面談し、全員とLINE交換もしました。経営に意見を言いやすい環境を作ることで、他責マインドを取り払うようにしました」
そうした結果、ある選手からの要望で、以前の所属先のメンタルトレーナーを愛媛FCに招き入れるなどの結果も出ています。
22年には、念願だった天然芝の練習グラウンド「愛媛FCサンパーク練習場」がオープンしました。地元企業の協和道路などがココヤシガラを活用した耐久性の高い天然芝の技術を開発。同練習場は23年のグッドデザイン賞にも輝きました。
その原動力となったのが、村上さんの父で社長の忠さんでした。
「夢追い人である父のエネルギーとクラブの想いが結実し、『ちゅうやん(忠さんの愛称)の夢をかなえたい』と、協和道路さんが協力してくださいました。『天然芝は無理』という『あきらめの壁』を乗り越えられたのは、まさにクラブ改革の成果なんです」
東京を拠点に「縁に立つ」
村上さんは、家業の東洋印刷とニンジニアネットワークでも役員ですが、リソースの9割は愛媛FCに割き、東京を拠点に営業活動に励んでいます。これは、前職のコンサルティング会社アバージェンス時代の経験がもとになっています。
「東京に軸足を置くのは、自分が地元に染まりすぎないというのがあります。私に帝王学を授けてくれたアバージェンスの代表から『縁に立つ』という言葉を学びました。外側にいるだけではメンバーからの信頼は得られず、かといって内部に染まりすぎては客観視できない。その『縁』に、いかにして立つかだと」
「ただ、東京で偉そうなことばかり言う人間にはついてきてくれません。愛媛FCのメンバーは特に熱いので、一緒に試合を見て感情を共にすることも大切にしています」
家業と愛媛FCの相乗効果も
経営改革と選手の奮闘で、愛媛FCはJ3優勝とJ2復帰を決めました。23年11月にホームであったFC今治との「伊予決戦」は1万1128人の観客で盛り上がりました。クラブを見つめる地域の目線も変わってきたそうです。
「タクシーの運転手さんが『自分は野球ファンだけど、愛媛FC強いよね。県民として誇らしいですよ』と言ってくださり、感激しました」
村上さんは家業の東洋印刷とニンジニアネットワークとの相乗効果も実感しています。
「愛媛FCから見れば、ニンジニアから資金面のサポートを受けられるのは心強いですし、バックオフィス機能もグループ内でシェアしています。東洋印刷やニンジニアは印刷技術などを生かし、クラブの看板やグッズ制作に携わっています。『愛媛FCを守るためにもっと稼がないと』というのが、(家業の)社員のモチベーションの源泉になっていますね。愛媛FCを支える企業なら取引できる、という信頼にもつながるので」
観戦初心者だった村上さんも、今ではスタンドの最前線で「何やってんのよ!」と熱く応援するまでになりました。「詳しくなりすぎたのが弱みです。以前の自分のようなライト層をどう取り込むかが新たな課題になりました」と笑います。
明日から社長になる覚悟で
父の後継者としてステップを踏んできた村上さん、家業を継ぐ女性は決して少なくないはずと見ています。女性の後継ぎ候補へのメッセージを尋ねました。
「私たちは今、大手採用サービスを通じてリーダー層の人材を募集しています。かなり高い返答率なのですが、女性からはありません。謙虚すぎるというか、女性自身が『自分はリーダー向きではない』という殻に閉じこもっているのかもしれません」
「しかし、今はサーバントリーダーシップといった形で、トップのあり方も変わっています。明確なビジョンをトップダウンで示すというより、愛媛FCのように解像度の緩いビジョンを見せ、従業員の当事者意識を醸成していく。私もそうしたリーダーシップを目指しています」
村上さんは家業とともに愛媛FCでも、父の姿を追いかけながらビジネス手腕を発揮させています。
「セオリー通りではない父の姿が、結果的に周りの人を動かし、夢を実現させてきたことを目の当たりにしました。父は『俺は前のめりで倒れていくから、後から骨を拾ってくれ』なんて言っています。それでいいのかなって、今は思えるんです」
24年からJ2に復帰する愛媛FC。これからは愛媛から世界の舞台に挑む選手を増やし、「世界に一番近いクラブ」を目指すといいます。
村上さんもいずれ「県民球団」のかじ取りを担う決意を秘めています。「県民球団なので、意思決定は地域の皆さんにあります。でも、もし必要とされるなら、明日からでも社長になる覚悟はできています」
「今は大好きになった」というサッカーで地域を盛り上げるため、村上さんは全力疾走し続けます。