愛媛FCは1970年創立の松山サッカークラブが前身で、94年に株式会社愛媛フットボールクラブを設立。01年に愛媛FCとなり、06年からJ2昇格。16年にわたってJ2で戦いましたが、21年シーズン終了後、J3に降格しました。
村上さんの父でクラブ社長の忠さんは、地元有力企業の東洋印刷とニンジニアネットワークの後継ぎ経営者でもあります。「愛媛から日本のトップで活躍する選手を育て、羽ばたかせたい」という理念に共感し、愛媛FCの設立に関わった一人です。ホーム会場「ニンジニアスタジアム」の命名権も取得するなど、家業とクラブは長年深い関係にあり、17年に愛媛FCの社長になりました。
愛媛FCがJリーグまで駆け上がるころ、3姉妹の長女の村上さんはクラシックバレエや器械体操に夢中。サッカーのことは分からず、試合も見に行ったことがなかったといいます。
家業の後継者の道を考えたのは、高校生のころでした。「父は『お婿さんか孫にでも会社を継いでもらえばいい』と言っていましたが、それが現実的かはわかりません。それなら、自分がその役割を引き受けるのがベストと思いました」
「アバージェンスは『COO輩出企業を目指す』とうたい、特に後継ぎ経営者の養成に力を入れていました。社長として必要なことは何か、ということを学びました」。この経験は後に愛媛FCの経営にも生かされます。
父とはけんかばかりだったが...
村上さんは16年、帰郷して東洋印刷とニンジニアネットワークに入社しました。「東洋印刷の番頭さんが退職することになり、母から『(父が村上さんに)戻ってきてほしいそうよ』と言われて入りました」
ただ、入ってみて3年ほどは「父とけんかばかりでした」と振り返ります。
「父は基本的に『夢追い人』である一方、コンサル出身の私はファクトベースで論理的に考えることを徹底的にたたき込まれてきました。正反対なんですよね」
村上さんはコンサルの経験を生かし、財務三表の分析などから、期ごとの目標や方針を構築していきます。同時に従業員との1on1の面談を重視し、社内の問題発見と解決にも力を入れてきました。
一方、父の経営者としての熱意や先見性も感じていました。「父は1990年代に、当時としては画期的だった工場のオペレーション自動化に取り組んできました。夢のような話と周りから言われていたのですが、思いを熱く語る父のエネルギーにほだされ、周囲が支援に回るようになる。そうやって、実現させてきました」
私財1億円を投じた父の覚悟
忠さんは17年、赤字が続いていた愛媛FCの再建を託され、家業と並行してクラブの社長に就任します。
村上さんは「県民球団でみんなのものであるがゆえに、長年山積してきた経営問題の責任の所在があいまいでした。父は誰かが何とかしなくてはという使命感から引き受けたようです。県民球団としての立場を尊重しつつ、経営上の問題はうち(東洋印刷・ニンジニアネットワーク)が責任を負う、という覚悟でした」と言います。
それでも経営はなかなか上向かず、家業の役員だった村上さんはむしろ「愛媛FCは自立してもらわないと困る」と指摘する立場でした。
「当初、父はニンジニアから(クラブに)お金を投下しようとしていましたが、そうすることでニンジニアにどんなメリットが見込めるのか、いつまでに回収できるのかを問う姿勢でした」
19年、父は大きな決断を下します。愛媛FCのさらなる立て直しのため、個人資産1億円を投じたのです。
「家族のLINEに一報があって『お父さんのお金は無くなった。残りの人生を愛媛FCにかけるから、君たちに使うお金はないんだ』と。下の妹たちは『パパ、夢に向かって頑張れ』という感じでした(笑)」
忠さんの社長就任後も、愛媛FCはJ3降格は免れるものの、J2下位に低迷するシーズンが続きます。22チーム中21位という結果に終わった20年の翌シーズンから、村上さんは家業から愛媛FCの経営の最前線に立つことになりました。
90分間観戦し続けられなかった
村上さんが愛媛FCに携わるきっかけは、クラブの財務や営業の責任者といった主要幹部が退職したことです。忠さんから直接、経営に関わるよう依頼されました。「父からは、お金周りの見える化を期待されました」
取締役就任初年度は、どちらかといえばコンサルタントに近い立ち位置で、東京のオフィスからウェブ会議などに参加するのが中心でした。
実は当時、サッカーのルールはあまりわからず、試合の結果もあまり把握していなかったと明かします。
「最初は試合を90分間観戦し続けることができませんでした。眠くなっちゃうんですよ(笑)。得点してもどちらのチームのゴールなのかもよくわからない。フィールドプレーヤーは前にも後ろにも動くし、ゴールキーパーが(愛媛FCのチームカラーの)オレンジのユニホームを着てくれれば分かるのですが、黄色か緑色なので。どっちが愛媛FCのチャント(応援)かも分からず、敵のチャントに乗っかる始末でした」
帝王学を財務や組織の変革に
ピッチ内のことは不得手でも、愛媛FCの経営課題の解決には即座に動きました。
「会計の着地見込みがぶれることが一番の問題でした。黒字と報告していたら突然赤字かもと言い出して、さらにその赤字幅もどんどん増えてくる。早めに赤字と分かっていたら手も打てるので、会計の透明化を進めるようにしました」
改革は会計だけにとどまりません。就業規則などをニンジニアネットワークと同じものに変えて、組織としての統一感を持たせました。家業のときと同様、社員や選手、スタッフ全員と1on1で面談しました。競技のマネジメントを担うフットボール部門の専門会議であっても、村上さんは必ず出席するようにしました。
「社員一人ひとりを理解することの大切さは、コンサル時代に帝王学として徹底的にたたきこまれていました。会議にもウェブでなるべく参加し、会議体の設計や、それまでいなかったファシリテーターを務めていました」
J3降格で失いかけた自信
経営ビジョン(詳細は後編)も策定するなど、経営改革を推し進めるも、21年シーズンは成績が上がらず、いよいよJ3降格の危機が迫ってきました。「コンサルっぽくない答えかもしれませんが、『空気を変える』ことがクラブに必要ではないかと思っていました」
そして21年11月、ホームのニンジニアスタジアムで行われた、SC相模原戦がターニングポイントになりました。スタンドで観戦していた村上さんは、次のように振り返ります。
「愛媛FCが後半38分に先制点を挙げましたが、スタンドもざわつくというか嫌な予感しかしませんでした。その3分後にはオウンゴールで追いつかれ、試合終了間際に逆転されました。自分たちも自信が無くなっていました」
そうして、まもなく翌シーズンのJ3降格が決定してしまいました。
FC今治と比べられて火がついた
このころ、同県内のライバルにも「県民球団」の地位を脅かされていました。元日本代表監督・岡田武史さんがオーナーを務めるFC今治です。20年からJ3に昇格すると、「里山スタジアム」構想を掲げて地域密着型の競技場を建設したり、高校を開校したりするなど、全国的な話題を呼び、地元愛媛だけでなく東京の有名企業もスポンサーに名を連ねています。
「FC今治は岡田さんというアイコンがいて、本当にスタートアップという感じでキラキラしている。でも、愛媛FCは経営が厳しくて、観客数は思うように伸びずリーグでも残留争いをしていた。Jリーグを目指す組織になってから20年。『FC今治一つでも、いいんじゃないの?』という声も出るようになりました」
降格によって、スポンサー営業も厳しい状況は続き、「まさに愛媛FC存続の最大の危機でした」
しかし、そうした四面楚歌の状況は、村上さんのハートにむしろ火をつけることになりました。「降格直後は厳しいことを言われることも多く、『くそー見とけよ』と思いながら、とにかく見返したい気持ちでした」
愛媛FCの起死回生。村上さんの怒濤の戦いは、ここから本格的にスタートしたのです。
※後編は、村上さんがビジョンの策定や、組織や営業面の改革で愛媛FCの経営を上向かせ、J2復帰を果たすまでの軌跡に迫ります。
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