目次

  1. 認識の外だったブラックサンダー
  2. 「初めて言われたお願い」で家業へ
  3. 工場を勝手に改善
  4. 風向き変えた新パッケージ
  5. 「おまえ変わってるなあ」を進むべき道に
  6. 先代社長に反対されたバレンタイン企画

――子どもの頃、家業はどのような存在でしたか。

 菓子屋という認識は幼い頃からあった気がします。当時は「ブラックサンダー」のような有名な商品はなく、主に有名テーマパークで販売されているお菓子を作っていたので、その印象が残っていますね。

――生まれは愛知県の豊橋市です。

 創業者の祖父が愛知県の出身で、戦後に東京に出てきて事業を始めました。戦後のアイスクリームがはやった時期に、アイスの上にのせるウェハースに可能性を感じ、ウェハースの製造からスタートしたそうです。会社の規模が大きくなると、東京と大阪のなかほどに位置し、祖父の出身地でもあった豊橋に工場が造られました。そこに先代社長の父が送り込まれ、私が生まれ育ったというわけです。

東京の工場での、昔の製品出荷の様子(撮影年不詳、有楽製菓提供)

――1994年に「ブラックサンダー」が発売されます。そのころの様子は覚えていますか。

 当時は中学生ぐらいでしたが、まったく認識していませんでした。全然売れていなかったからです。

 私がブラックサンダーをちゃんと認識したのは大学生になってから。ベストセラーとなった書籍『生協の白石さん』で取り上げられ、大学生協で話題になって売れ始めていた2006年ごろでした。実際に大学の生協で手にとって初めて「あっ、これってうちの商品なんだ」と気づいたレベルです(笑)。

1994年に発売されたブラックサンダーの初代パッケージ(同社提供)

――大学は横浜国立大学の工学部に進まれます。

 家業とは全然関係ないですね。親からは特に何をやれと言われず、ゲームを作りたいと思ったので、情報系の学科に行きました。

――家業を継ぐという意識はなかったのでしょうか。

 兄がいて私は次男だったからです。前々から、「家業には1人しか入れない。それが河合家のルールだ」と言われていました。2人入れると、その代は良くてもその下の代でもめるという理由です。そう言われて育ってきたので、自分は家業には入らないものだと思っていました。

――大学院を修了後、ネットワーク機器大手のシスコシステムズに就職されます。

 大学にはゲームを作ろうと思って入りましたが、院では生産スケジューリングのプログラムをつくる研究をしていました。ブラックサンダーが有名になっていく時期で、多少は家業を意識したかもしれません。これから先はITが重要になると感じ、ITの方面で外から家業に役に立てることがあればいいなと思い始めた。そのためシスコでは、製造業の担当を希望して、実際に担当させてもらいました。

――3年勤めた後にシスコシステムズを退社し、家業に入りました。何がきっかけでしたか。

 シスコに入社して1カ月で、兄が亡くなったのです。もしかしたら自分が継ぐことになるのかな、と思い始めた。ただ、入った会社をすぐに辞めても何の役にも立たないだろうし、葛藤を抱えながら学べることを学ぼうと働いていました。2年半ほど経った時に、金融担当に異動してくれないかと言われました。製造業の担当でなければここにいる意味がないと思い、シスコシステムズを退職することにしました。

――お父様からは、後継ぎについて何も言われなかったのでしょうか。

 ちょっと記憶があいまいですけど、シスコシステムズを辞める前に一回だけ言われたことはありました。豊橋の実家に帰った時のことです。いつもは母が駅まで送ってくれるのですが、その日は父に車で送ってもらうことになった。珍しいなと思っていたら、車の中で、「いつ戻ってくるんだ」と、さらっと言われた。そんなこともあってシスコを辞めるタイミングを悩んでいた時に、金融担当への異動の話があったので、ここだなと。会社に辞めますと言ってから、父に「戻ります」と伝えました。電話で連絡したんですが、父は「ほう、そうか」ぐらいの反応だったと思います。

東京都小平市にある有楽製菓の本社

――後を継ぐことへの抵抗感はなかったのでしょうか。

 人生でほぼ初めて言われたお願いだったので、抵抗はまったくなかったです。それまでにああしろこうしろと言われていたら抵抗感があったかもしれませんが、父は今まで自分の人生に関与してこなかった。なんなら勉強しろと言われたこともなかったので。

――有楽製菓に入社してから、最初はどんな仕事に就きましたか。

 豊橋の工場です。中途だけど4月入社だったので、新入社員たちと一緒に研修を受けました。自分はちょっと年上でしたが、すぐ打ち解けて休日には一緒に遊びに行ったりもしました。当時のメンバーとは、今でも仲良くしています。

――工場では、どんな仕事をされましたか。

 ビスケットの生地を練る仕事を一番長くやりました。力仕事もあって大変でしたが楽しかったですね。季節や気温、湿度、機械の稼働時間によって材料の状態が変わるんです。最後はブラックサンダーの生産ラインでチョコレートの管理をしていました。

――工場では工学部で学んだ知識は生きましたか。

 製造をより効率化するにどうすればいいだろうかと考えていました。配合こそ変えませんでしたが、例えばビスケットの生地を練る回数や時間を、私なりにこうしたほうが良いだろうと変えてみたこともあります。決められた通りにやってくれと怒られました(笑)。今考えれば現場の人間が勝手に合理化したら収拾がつかないですよね。

――工場の後はどちらに。

 開発に行きました。テーマパーク向けの商品を担当し、年間を通して売るお菓子や、ハロウィーンやクリスマスなど季節的な商品を企画していました。

――入社直前のタイミングで「ブラックサンダー」がブレークします。

 06年ごろから大学生協で認知され始めていたのですが、大きくブレークしたのは08年。有名体操選手がブラックサンダーを「好きです」と公言してくれたことで、注目が集まりました。

――パッケージも特徴的です。

 いまでこそなじんでいますが、普通に考えたら、チョコレート菓子のパッケージが黒と金なんてありえません。危険色じゃないですか。キャッチコピーの「おいしさイナズマ級!」「若い女性に大ヒット中!」もおかしいですよね。

2003年に生まれた、ブラックサンダーの3代目パッケージ(同社提供)

――「若い女性に大ヒット中!」のコピーは、03年発売の3代目パッケージから登場しました。どうやって生まれたんでしょうか。

 当時「ブラックサンダーが好きです」といったファンレターが届いていて、その多くが女性からだったんですよ。「ならばそれを書けばいいじゃないか」と先代社長が言ったことで、このコピーを入れたそうです。

 実はこの3代目パッケージから、それまで10年ぐらいアルファベット(BLACK THUNDER)で表記されていた商品名がカタカナ表記になりました。アルファベットじゃ小学生は読めませんよね。当時、ブラックサンダーのことをすごく好きだった社員が、デザインの変更をやらせてくださいと直訴したところ、「売れてないから好きにしていいよ」と言われ担当することになった。そしてカタカナ表記にし、手にとりやすくなったのです。発売以来、ぜんぜん売れない冬の時代が続いていましたが、このあたりから風向きが変わっていきました。

――11年にはマーケティング部を立ち上げ、ブラックサンダーの分析に取り組んだそうですね。

 私と、3代目パッケージの担当者との2人でスタートしました。最初に取り組んだテーマは「ブラックサンダーの人気の理由を理解しよう」です。一過性のヒットで終わらず、売れ始めてからずっと人気が続いていた。なぜこんなにみんなブラックサンダーが好きなのか、社内外の誰もわかっていなかった。それがわかれば新しい商品に生かすことができるだろうし、ブラックサンダーもより売ることができるだろうと考えました。

――人気の理由について、どんな結論が出たのでしょうか。

 口コミになる要素、人に伝えたくなる要素をブラックサンダーが持っていたからじゃないか、ということです。

 さっきも言ったように、表のパッケージは変です。でも中身は、原料や味にめちゃめちゃこだわっていて、有名テーマパークで鍛えられてきたクオリティーがある。ギャップ萌えというか、「変だけどおいしいから食べてみてよ」と言いやすい、口コミになりやすいものだったんだろうなと。

 それにちょっと遠い存在というより、仲間のような身近な感じがある。一回食べるとおいしくて、結局「なんか面白いなこいつ」っていう感じで何度も買ってしまう。他のお菓子とは違う立ち位置、「お前変わってるなあ」と言われるキャラクター性がブラックサンダーの特徴であり、その道を行くべきだろうと決めました。

――13年のバレンタインでは、「一目で義理とわかるチョコ」のコピーを打ち出したキャンペーンが大きな話題になりました。

東京メトロの新宿駅地下通路に設置されたキャンペーン広告(2013年2月、朝日新聞デジタルより引用)

 実はそれまで、有楽製菓はチョコレート菓子メーカーであるにもかかわらず、バレンタインデーのある2月の売り上げが高くなかったのです。バレンタイン向けの施策も何もしていなかった。そこで、バレンタイン向けにブラックサンダーで何かやろうとしたのですが、どう考えても本命チョコじゃない。

 だったら、堂々と義理チョコだとうたったほうが“らしい”のではないかと思ったのです。そして、新宿に「無料義理チョコマシン」を置いてブラックサンダーを配布する企画を考えました。その企画書のなかに「一目で義理とわかるチョコ」というフレーズがあり、それが自分にめちゃくちゃ響いたので、そのまま広告のメインコピーになりました。

――思い切ったキャンペーンだと思いますが、当時社長だったお父様から反対などされなかったのでしょうか。

 「これをやる意味が分からん」「これをやったら何になるの」と言われ続けていました。つたないながらも、「ブラックサンダーの世界観を広げるためです」と何度も何度も説明しました。口コミで広がってきたからこそ、お客さんはブラックサンダーをネタにして話をしたい。「ブラックサンダーがこんなことやってんだよ、知ってる?」みたいな話をできるのが、ひとつのよさであり、だからこそ堂々と義理チョコってうたうのがいいんですと。最終的には向こうが根負けしたと思います。

ブラックサンダーのイベントで新宿駅に登場した義理チョコマシン(2013年2月、朝日新聞より引用)

――キャンペーンは大きな話題になりました。最終的には成功と評価されたのでは。

 プロダクトアウトの思想でやってきた会社なので、良い商品を作れば評価されるのですが、バレンタインのキャンペーンが話題になったとしても、そのおかげで商品が売れたのと証明できたわけではなかった。長い目で見れば効果はあったかもしれませんが、当時は社内でも「あの人たち(マーケティング部)何やってるんだろうね」という扱いだったようです。

 ただその後、父も色々なところで周囲から「あのバレンタインデーの企画は面白かったよね」と言われるようになった。それで少しずつ理解をしてくれたと思います。バレンタインの企画の半年後ぐらいに、豊橋の路面電車をブラックサンダーのラッピング電車にする企画がありました。その発車式で父に駅長のような格好をしてもらったのですが、笑顔でやってくれたのは、ある程度認めてくれたからかもしれません。

 ※後編では、ユニークな商品アイデアが生まれる背景や、ロングセラーのひけつに迫ります。