目次

  1. 家業が身近になった「酒蔵開放」
  2. 「美味しんぼ」がバイブル
  3. 自然と家業に、気持ちが向いた
  4. 「経営」と「酒造り」の橋渡し役に
  5. 夫が「名字を変えて応援する」
  6. 「五方よし」の経営理念
  7. 赤字体質を改善した機械化
  8. コロナ禍と火災が直撃
  9. お酒造りは「毎回が1年生」 

 澤田酒造は、江戸時代後期の1848年に創業。「米を白くなるまで磨く美しさと、延命長寿を老成した技」という意味が込められた「白老」という銘柄で知られています。

 澤田さんはそこから1分ほど離れた場所で幼少期を過ごしましたが、酒蔵は少し怖い存在でした。

 「冬になると、岩手県から杜氏さんと仲間の蔵人さんが来られて、方言で何を話しているのか分からなかったんです」

 家業が身近な存在になったのは、小学生のころ。先代の父親が毎年2月、「酒蔵開放」というイベントを始め、地域の人に酒造道具を展示したり、もろみが入ったタンク内をのぞいてもらったりしていました。

 中でも一番人気が、お酒の試飲でした。その日の搾りたてだけでなく、20種類以上の日本酒を楽しむことができ、開催2日間で計5千人を超えるイベントに成長しました。スリッパを出したり、片付けたりしていた澤田さんは、「みんな、本当に幸せそう」と感じていました。

コロナ禍の前に開かれた「酒蔵開放」の様子

 常滑市は西に伊勢湾を望み、澤田さんが子どものころはコウナゴのほか、ワカメなどの海藻類も豊富に取れました。

 澤田さんもワカメをゆでて食べ、ノリが取れればつくだ煮にして口にしていたそうです。「旬なものをおいしくいただいてきました。小学生の頃は、人気漫画の『美味しんぼ』がバイブルでした」

 一人娘でしたが、両親から「家業を継いでほしい」「酒造りを修業してほしい」などと言われた覚えは、ないそうです。「昔から算数や理科が、からっきしだったということもあると思います(笑)」

 外国人と接することに興味があり、大学は英米学科に進学。卒業後は「食に関する仕事がしたい」と、地元のスーパーマーケットに就職しました。

 ここで思い返した「食への興味」が、家業に戻るきっかけにもなりました。

「澤田酒造」(中央)のすぐ西側には、伊勢湾が望めます

 就職先のスーパーマーケットの店舗は小さく、様々な仕事を経験しました。レジ打ちから菓子売り場の担当となり、ナチュラルチーズのバイヤーを務めたことも。最終的には販売促進分野の課長になり、チラシ作りにも携わったそうです。

 就職から約3年半が経ったとき、転機が訪れました。

 澤田酒造の事務を長年務めていたパート従業員が定年を迎え、先代の父から「そろそろどう?」と水を向けられたのです。

 澤田さんは、家業に入ることを素直に受け入れられたと振り返ります。「自分の足元には、酒造りという日本の食文化そのものがあります。そろそろ戻ろうかと、自然に気持ちが向きました」

 それは、2007年秋のことでした。

杉玉を掛け替える澤田薫さん(左下)

 まず求められたのは酒造りの知識でした。そこには父親の考えが、込められていたといいます。

 一般的に日本酒は冬に製造されます。岩手から杜氏と蔵人が来て製造を手がけていたころは、冬に酒を造り終えると地元に戻るため、残った従業員たちで出来上がった酒を販売していました。

 「製造と販売に目に見えない溝があるというか、お互いにタッチしてこなかった風習があったようです」

 酒造りの技能が伝承されず、いずれは家業が立ち行かなくなる――。そんな危機感を抱いた先代の父は、杜氏を務められる社員の育成に力を入れ始めました。澤田さんは、経営と酒造りの現場との架け橋として期待されたのです。

 東京都と広島県にある独立行政法人・酒類総合研究所に通う傍ら、当時80歳代で専務を務めていたおじと一緒に、酒の味を決める作業に関わりました。

家業に戻った澤田さんは、日本酒の味を決める役割を任されました

 「おじからは、『ここで飲んだときにおいしいのではなく、飲み手の方が飲んだときにおいしいかを考えなさい』と常に言われていました」。言葉は少なく、見て学ぶことが奨励されていた時代でもありました。

 日本酒造りは「理系」の仕事と言います。麴や酵母を扱うには微生物学が求められ、日本酒を作り出すには、米と水の割合を計算するなど数学の知識も必要です。文系だった澤田さんは苦手意識を持っていましたが、酒類総合研究所時代の仲間が支えてくれました。

 東京で修業していた際、すでに日本酒造りに携わっていた同期もいました。「酒造りでは役に立たない」と思った澤田さんが買って出たのが「まかない係」。食材費を集め、買い出しに行き、昼食作りを担うことで、同期のつながりを深めました。

 家業に帰ってからも、分からないことがあればすぐに同期に相談し、少しずつ日本酒造りの知識を得るようになりました。

 入社から8年後の15年9月、経営コンサルタントから社長交代を強く勧められ、父親も受け入れました。

 澤田さんは「父が元気なうちに変わった方が、地域の金融機関の心証もいいと判断したようです。体調を崩してから、私が経営を覚えようと思っても難しいですし」と言います。

 ところが、澤田さんは2カ月前に、2人目の子どもを出産したばかり。「当時は、何がなんだか、分からない心境でした」

 社長への就任時期は予想していませんでしたが、6代目として後を継ぐ決心はすでに固めていました。11年に結婚したとき、現在副社長を務める夫から「あなたが社長をやるなら、自分は名字を変えて応援する」と言われたことが後押しになったそうです。

 酒蔵では夫が婿入りして社長に就くのはよくあるケースです。ただ、澤田さんの夫は、婿入りだけでなく「社長をやるのは、あなた」と背中を押してくれました。

子どもを背負いながら仕事をする澤田薫さん

 社長就任後、真っ先に作ったのが経営理念でした。「従業員と一緒に、一丸となって進むためには、絶対に必要でした」

 作り上げた理念は次のようなものです。

 「働き手良し、売り手良し、買い手良し、世間良し、自然良し」

 近江商人の「三方よし」に、働き手と自然を加えた「五方よし」にして、「素直、親切、謙虚、感謝、丁寧」の「五礼」も使命として掲げました。毎日の朝礼で唱和しています。

「澤田酒造」では、朝礼で経営理念を唱和することが、日課となっています

 日進月歩の酒造業界にあって、当時の澤田酒造は「お酒の味が、遅れていると感じていました」(澤田さん)。この頃、人気があったのは、ほのかな香りのする飲みやすい日本酒。しかし、同社のお酒は老香(ひねか=劣化した香り)がすることもあったそうです。

 酒類総合研究所で知り合った仲間の酒蔵を1年間で20社ほど見学し、採り入れている機械を研究しました。最初に手を付けたのが洗米機です。それまでは手で洗っていましたが、機械化によって「より優しく、きれいに洗ってくれる」と手応えを感じました。

 造りの終盤工程を担う搾り機も、補助金を活用して1週間ほどで組み立てられるものに一新しました。その前は、組み立てに20日間ほどかかるものを40年以上使っており、ゴムのにおいがすることもあったそうです。

 自社製造のすべての酒で「麴蓋」を使うなど、伝統的な製法を続けながら、酒質の向上のために機械化を進め、仕事の効率化にもつながりました。経営にも良い効果が出て、「参考にならないぐらいの赤字」が、数年前には黒字に転換したこともありました。

 しかし、経営が改善の方向に進んだ矢先、さらなる困難が待ち受けていたのです。

「澤田酒造」は仕込み水などの原料や製法にこだわっています

 コロナ禍で、澤田酒造も大きな打撃を受けました。1989年から毎年続き、大きな収益源にもなっていた「酒造開放」が中止に追い込まれ、緊急事態宣言などで飲食店への日本酒提供もできなくなりました。

 澤田酒造では、10年ほど前からECサイトの運営もしており、コロナ禍の後は月間売り上げがそれまでの600倍を記録しました。それでも、コロナ禍で失った売り上げを埋めるには至りません。

 20年11月には、追い打ちをかけるように、蔵の一室で麴菌を繁殖させるための「麴室」が焼失しました。原因は電熱線のショートとみられています。

 原料米や種麴、他の機械は無事でしたが、麴室は「車のエンジンと同じで、これがないとお酒を造れないほど重要な設備」(澤田さん)といいます。

2020年に焼失してしまった麴室

 澤田さんは幕末から続いている蔵をたたむことも頭をよぎりました。それでも、フェイスブックやツイッターを使い、火災の状況を報告したところ、「麴はうちで作っていいよ」といった支援の申し出が、たくさん届きました。

 中でも付き合いが深かった4社に依頼し、このシーズンの麴が完成しました。「何とか知恵を貸してほしくて発信したところ、情報が瞬く間に広がりました。困ったときはお互い様という精神が、すごく根付いているのだと思います」

 新しい麴室は21年秋に再建しました。澤田酒造の主力銘柄「白老」の初しぼりを試飲した澤田さんは「新しく生まれ変わったつもりで、できあがりも別物の白老ではないかと思って造りましたが、そこまで変わっていない。改めて酒造りは奥深いと感じました」。

 澤田さんは酒造りの魅力をこう語ります。「正解はなく毎回が1年生です。最近は作り手の思いも、味に反映されているのではと思うようになりました。米も、水も、麴も、お客様も含めて、どれが一つ欠けても成り立ちません」

麴室の焼失後は、地元の小学校から応援メッセージも届きました

 澤田さんの夢は、26年後の創業200年を、自身の代で迎えることです。

 「この1、2年間で、10年分ぐらいの成長をさせていただきました。これからは酒蔵や地域の価値を高めたいと思っています」

 すでに地元の菓子店とコラボレーションして、酒粕入りのパウンドケーキやショコラを商品化したり、余った酒粕を地元の知多牛や名古屋コーチンの飼料として提供したりしています。

 「酒造りだけでなく、他の企業とも積極的に連携して、地域の持続可能な発展につなげたい」と意欲を燃やしています。