「体力仕事だけ」と悩んだ鈴廣11代目 かまぼこ離れに向き合った日々
1865(慶応元)年創業のかまぼこメーカー「鈴廣蒲鉾本店」(神奈川県小田原市)は、箱根駅伝の小田原中継所としてもおなじみです。11代目を背負う常務取締役本部長の鈴木智博さん(32)は、観光客の落ち込みや消費者の「かまぼこ離れ」に頭を悩ませた結果、ユニークなアイデアがひらめきました。
1865(慶応元)年創業のかまぼこメーカー「鈴廣蒲鉾本店」(神奈川県小田原市)は、箱根駅伝の小田原中継所としてもおなじみです。11代目を背負う常務取締役本部長の鈴木智博さん(32)は、観光客の落ち込みや消費者の「かまぼこ離れ」に頭を悩ませた結果、ユニークなアイデアがひらめきました。
目次
かまぼこは正月の「おせち料理」に欠かせない、日本の伝統食の一つです。鈴廣蒲鉾本店(以下、鈴廣)は年末年始が繁忙期にあたります。
鈴廣の事業内容はかまぼこの製造販売で、日常づかいをはじめ、お正月や箱根土産など、顧客がシーンに合わせて選べるように、豊富な種類を取りそろえています。駅やスーパー、箱根界隈の土産物店などが卸し先で、売り上げは約100億円、従業員数は約700人になります。
11代目の鈴木さんは子どものころから、年末年始に家族が忙しくしている様子を見て、家業がかまぼこ屋であることを感じていたそうです。
毎年1月2、3日は、鈴廣蒲鉾本店やかまぼこ博物館などがある「鈴廣かまぼこの里」が、箱根駅伝の小田原中継所になります。
「年末はおせちの販売で忙しく、梱包作業も小さいときから手伝っていました。もちろんクリスマスはありません。駅伝があるため年明け早々も忙しい家庭でした」
後を継ぐことを意識したきっかけは、鈴廣の社長で父の博晶さんから、家族あてにときどき届く「仕事にまつわる近況報告」のファクスでした。「父は新商品のことや、会社で起きていることなどを、文章や絵に書いてファクスで送ってくれていました」
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通称「親父通信」と呼び、子どもに人気のキャラクターとのコラボや、魚のすり身をつくる専用工場を海外で立ち上げるプロジェクトなど、毎回詳しく書いてあったのです。
「姉ふたりと妹、私の4人で読み、お父さんはこんなことまでやっているんだと素直に受け止めていました。週1回くらい届いていたと思います。それを見ながら、自分がなんとなく後を継ぐんだろうな、と思うようになりました」
鈴木さんは、後継ぎになることに迷いはなく、父に反発するどころか「後を継がないなんて、もったいない」と思うようになりました。その後押しとなったのが大学生の時に企画した「かまぼ考」という展示会でした。
目的は、かまぼこ需要の創造で、23組のクリエーターにかまぼこを再定義してもらい、これまでの形にとらわれず、オリジナルのかまぼこを展示するという内容です。鈴木さん自ら社長に協賛を依頼し、鈴廣が製造を担当。都内で開催された「青参道アートフェア」に参加し、展示しました。
展示会は、東京・青山で開催。老舗のかまぼことアートという組み合わせの妙味で注目され、情報番組でも取り上げられました。
「クリエーターの方に依頼しても断られることはありませんでした。長年積み上げてきた鈴廣の技術と名前で行動を起こすと、こんなにも反響があるのだと驚くとともに老舗の看板の偉大さに気づき、鈴廣を継ぐことへの意欲も高まりました」
大学卒業後の進路も、いずれ家業を継ぐことを前提に「水産関連で、短期間でできるだけ経験が積めること」を条件に探しました。
大手商社の阪和興業に就職したのも、入社1年目から海外での仕事を任せてくれるというのが理由でした。実際、入社後すぐにカナダに行くことになり、半年ほど帰国しませんでした。
カナダで担ったのはサバの買い付けです。大量に運ばれるサバの鮮度やサイズなどからグレードを見極めて検品して仕入れ、日本の加工業者に卸す仕事でした。
一緒に現地に出向いた「テクニシャン」と呼ばれる日本人の魚屋の目利きから、良いサバの見分け方を教わりながら仕事を覚えました。
「魚の専門用語と取引に必要な最低限の英語で、なんとかなりました。需要と供給を考えながら天然資源を守り、水産のビジネスを続けていく。サステイナブルな考え方も学べました」
入社3年目のころには、魚の選別にも自信がつき、現地の工場や日本の加工業者との信頼関係も生まれてきました。社内で「次からはひとりで買い付けを任せる」と言われ、輸出に関する新規事業立ち上げへの参加も持ちかけられていたといいます。
「仕事が楽しくて、天職だと思っていました」。そんな順風満帆な日々を送っていた鈴木さんが、思いがけず壁にぶつかることになります。
15年、父の博晶さんから「いますぐ鈴廣に戻るように」と言われたのです。
鈴廣は当時、箱根・大涌谷の火山活動の活発化による観光客激減の影響を受けました。箱根土産の「鈴廣かまぼこ」の売り上げが下降線となり、伸長する気配もありません。
当時の売り上げは前年対比2割減という状況が続いていました。
父からは「将来のためにも一番大変な時期に戻っていないとダメだ」と告げられました。鈴木さんはどうしても嫌だったので、抵抗したら言い合いになってしまいました。
「父はロジカルに物事を判断するタイプで、理にかなっていれば許してくれる人です。だから、これから立ち上げる商社の輸出プロジェクトの経験は、必ず鈴廣のためになると論理的に説得してみたのですが、だめでした」
父に「(阪和興業の)社長には自分が頭を下げに行く」とまで言われた鈴木さん。「父の感情的な姿を初めて見てこれはよほどのことと思い、退職を決断しました」
最初は全社的なプロジェクトのマネジャーとしてスケジュールを管理し、施策の進行をチェックする仕事を担いました。
右肩下がりの売り上げ状況を見て「何とかしなければ」と焦るものの、何もできない無力さを痛感しました。
「できることは催事で声を張るくらい。体力仕事しか手伝えませんでした」
後継ぎの中には、製造現場とのコミュニケーションが取れず「現場を分かっていないのに・・・」と思われるケースもあるでしょう。
しかし、鈴木さんは現場との関係を築く努力をしてきました。それは、学生時代に鈴廣でアルバイトをしていた経験が大きかったといいます。
「大学生になると、父から鈴廣の工場でのアルバイトを勧められ『工場で働く同年代の社員と友だちになれたら、将来信頼できる仲間になる』と言われました。そのことを今、本当に実感しています」
後に常務となった鈴木さんのことを、今も「ともちゃん」と下の名前で呼び、気軽にコミュニケーションがとれる関係の社員がいます。「おかげでコラボ商品の企画なども相談しやすく、たいてい快く引き受けてくれます」
鈴木さんは「水産練り製品製造技能士2級」の資格も取得しました。月1回、新入社員とともに練習をしたそうです。
「鈴廣はものづくりに自信を持っています。プロ意識の高い現場のメンバーを統率するには、経営陣も技術力や理解力を常に高め、(職人と)コミュニケーションがとれる関係性を構築することが必要です。社長はそのことを分かっていて、学生のころから現場に入るように助言したのでしょう」
鈴廣の課題は、観光客の減少だけではありませんでした。食の多様化が進んで冷凍冷蔵技術も上がり、消費者のかまぼこ離れに拍車がかかっていたのです。
「高度経済成長のころ、かまぼこは保存食としてのたんぱく源で、どの家庭も冷蔵庫に1本は入っていた時代だったと言われています。今後は人口減少とともに消費量も確実に減るので、新しい柱を立てることは経営課題の一つでした」
鈴木さんはかまぼこの栄養素に目を付けます。かまぼこ1本につきグチという魚を7匹使用し、ヘルシーで高タンパクであることは昔から変わっていません。
「これまで何度も、かまぼこメーカーが一体となって『フィッシュプロテイン』という切り口でキャンペーンなどを実施してきましたが、あまりパッとしませんでした」
打開策は意外なところから浮かびました。18年のサッカーW杯ロシア大会の後、日本代表の長友佑都選手がテレビのドキュメンタリー番組で「僕のたんぱく源は魚が中心」と話しているのを見たそうです。
「私自身、子どもの頃からずっとサッカーをやっていたので、ハードな練習や試合の後、高タンパク質でのどごしのいいかまぼこは食べやすく、スポーツとの相性の良さを実感していました」
長友選手と一緒に何かできないか――。
そんな理想が、現実となります。知人の紹介で長友選手にプレゼンする機会を得ることができたのです。
※後編は、長友選手と立ち上げた「魚肉たんぱく同盟」というプロジェクトや、鈴廣の世界観を形づくる「型染め」によるデザインの継承、老舗を背負う覚悟などに迫ります。
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