よみがえったボロボロのジーンズ ヤマサワプレス2代目の挫折と成長
ヤマサワプレス(東京都足立区)は1995年に創業し、アイロンプレス、補修、検品を生業にしています。積極的な業容拡大と丁寧な仕事ぶりで取引先を増やしましたが、急拡大のツケで2代目の山澤亮治さん(47)が体調を崩し、60人いた社員は半分に減りました。起死回生の一手が、米国で廃棄寸前だったジーンズを生まれ変わらせるというものでした。
ヤマサワプレス(東京都足立区)は1995年に創業し、アイロンプレス、補修、検品を生業にしています。積極的な業容拡大と丁寧な仕事ぶりで取引先を増やしましたが、急拡大のツケで2代目の山澤亮治さん(47)が体調を崩し、60人いた社員は半分に減りました。起死回生の一手が、米国で廃棄寸前だったジーンズを生まれ変わらせるというものでした。
目次
米国の業者が差し出した画像に写っていたのは、大きな倉庫に高く積み上げられたボロボロのジーンズ。聞けば、そのすべてがリーバイスの「501」でした。
「501はジーンズの元祖と言われるモデル。その山をみたとき、後先を考えずに『全部買います』と叫んでいました。実物も確かめていない段階で、です」
中学1年生のときから501のファンだった山澤さんは2019年6月、米ロサンゼルスで10トンにのぼるジーンズやその端切れを買い付けました。奇特な日本人のうわさは広まり「うちにもあるよ」と声がかかりました。こちらも10トンありました。
「10トンも20トンも大して変わらないでしょう。二つ返事でまとめて引きとりました」
しかし、翌春、倉庫に運ばれた20トンのジーンズをみて山澤さんは頭を抱えました。想像をはるかに超えて、汚く、臭かったからです。
洗濯を試みるも、こびりついた汚れはビクともしません。このままでは使い物にならない――。山澤さんは1年かけて洗浄技術を開発しました。
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「まずは洗剤をつくるところから始めました。専門の業者とともにつくりあげたのは植物由来のもので、肌にも環境にも優しい洗剤ながら、臭いや皮脂のみならず、ペンキの汚れまで落としてくれます」
同社工場に併設する店舗に並ぶジーンズからは、体にまとわりつくような古着特有の臭いがまるで感じられません。
洗浄のプロセスは手間の固まりです。洗剤を入れたぬるま湯でつけ置きするのが第1段階。第2段階では職人がジーンズ一枚一枚に洗浄液をスプレーで吹き付けながら、生地を傷めにくい馬毛のブラシをかけていきます。仕上げに大型洗濯機を回し、天日干しをしてようやく完成です。
山澤さんは、相談がてら取引のあるアパレル会社を回るも、先方の反応はそろって芳しくありませんでした。
「あわよくば(生地素材として)買ってくれるのではという期待は見事に打ち砕かれました。しかし考えてみればもっともです。相手は同じ規格で大量につくるメーカーで、わたしが手に入れた生地は言ってみれば一点もの。手に余る材料だったのです」
山澤さんは自らの手で何とかするしかないと腹をくくります。ヤマサワプレスに一からつくる技術はなく、旧知の古着屋に協力を仰ぎます。
アドバイスを頼りに2020年6月に誕生させたのが、リメイクブランドの「ワンオーファイブ・デニムトウキョウ」です。ばらした生地をジーンズやジャケット、スカートに仕立て直しました。ジーンズの価格は2万~4万円です。
「ジーンズをはき込めば色が落ち、ヤれて(破れて)いきます。いわゆるエイジングの状態にあわせて糸の色味、番手も慎重に選びます。洗浄から縫製までこれ以上ないところまでこだわりました」
「ワンオーファイブ・デニムトウキョウ」というブランド名は「501」を反転させたものです。「そのままなら処分されていたジーンズを商品としてよみがえらせました。時計の針を巻き戻したんです」
この挑戦により、ヤマサワプレスはあらたなビジネスチャンスをつかみます。と言っても当時はなんの勝算もありませんでした。捨てられる直前だったとは言え、20トンにのぼるジーンズは決して安くない買い物です。周りは反対しなかったのでしょうか。
「そのころには会社のかじ取りを任せてもらえるようになっていましたからね。買い付けの資金は蓄えから捻出しました。銀行から借りようと思ったら間違いなく断られたでしょう」
発売は見切り発車でした。告知の効果も期待してクラウドファンディングで事業展開の資金を募りますが、未達成に終わりました。しかし、二の矢が的を射ます。米国のリーバイス・ストラウスがこのプロジェクトを正式に承認したのです。
「ダメ元で活動を認めて欲しいと持ちかけたところ、サステイナブルな時代にふさわしいと評価していただけたようです」
射抜かれたのはリーバイスだけではありません。三越伊勢丹もパートナーとして名乗りをあげました。
活動を知ったバイヤーが業界の垣根を越えて賛同者を募り、他の大手百貨店やセレクトショップなどを巻き込んだプロジェクトに発展しました。
22年春に伊勢丹新宿店で開かれたイベント「デニム de ミライ」では、70を超えるブランドがヤマサワプレス自慢のデニム生地を思い思いにリメイクしました。
「ワンオーファイブ・デニムトウキョウ」もブースを構えたイベント初日。伊勢丹新宿店の売り場に立った山澤さんは信じられない光景を目にします。開店と同時にお客さんがなだれ込んできたのです。「無鉄砲だったけれど、間違いではなかった。感無量でした」
山澤さんの父・治夫さんは、服のプレス一本でやってきた渡りの職人でした。山澤さんは中学にあがると誰に言われるでもなく、学校に来ていくシャツにアイロンをかけるようになりました。
「父に教わったのは、アイロン台ではなく座布団を使えというものでした。アイロンを乗せると自重で座布団が沈み、アイロンのかけ面が生地に吸いつくようにフィットします。硬くて薄いアイロン台ではこうはいきません。ヤマサワプレスのアイロン台はこの考えに基づくオリジナルです」
高校を卒業した山澤さんは2年は遊ぶと決めてサーフィンざんまいの毎日を送ります。20歳のときに、有名デザイナーブランドから内定をもらいました。
就職を目前に控えたある日、父が思いもよらぬことを言いました。
「(アイロンプレスの)会社をつくろうと思っている。お前も一緒にやらないか」。腕一本で渡り歩く仕事は想像以上に神経をすり減らすものだったのです。
「正直、父の仕事を誇らしいと思ったことはなく、デザイナーブランドへの就職を決めたのも華やかな表舞台にあこがれたからです。でも、一から差配できる自分たちの会社というところに、あらがえない魅力を感じました」
「酔えば冗舌になるけど、ふだんは寡黙。昭和の職人を絵に描いたような父に頼ってもらえたこともうれしかった。内定を辞退して父と会社を興しました」
山澤さんはリビングを改造し、アイロン台を3台置いた作業場を設けました。父が40年かけて集めた取引先の名刺を手がかりに、しらみつぶしに営業に回りました。
新興の会社の20歳の若者は門前払いされ続けました。それでもめげずに回っていると、社長室に通してくれた会社がありました。その部屋の主は開口一番、言いました。「お父さんの腕前には昔から一目置いていたんだ」
この取引が決まったことでヤマサワプレスは徐々に業界で知られるようになりました。
「会社を立ち上げて4〜5年はろくに給料も出ません。地元の仲間は車を買ったり旅行に行ったりして羽振りが良さそうでしたが、腐ることはありませんでした。ワクワクする気持ちを忘れないこと。この思いが今も経営者としての原動力になっています」
事業は軌道に乗り、ヤマサワプレスはプレスだけでなく、補修、検品などアパレル製品の出荷前の作業をワンストップで担う会社へと成長。国内におけるレディースカジュアルメーカーの80%のシェアを獲得するまでになりました。
躍進のきっかけは、ベルトループをつけ忘れたパンツでした。ある取引先から「今から(製造元の)中国に戻していたら間に合わない。ベルトループを縫い付けてくれないか」と泣きつかれたのです。
「その数、600本。昼は母にも手伝ってもらいつつ、丸2日不眠不休で仕上げました。今だから言えることですが、ミシンは近所の量販店で買ってきた家庭用でした」
取引先の信頼を獲得した山澤さんは「断らない」をモットーに事業を広げていきました。
ひと息ついたのもつかの間の2004年、父が脳梗塞で倒れ、山澤さんが社長にならざるを得ませんでした。20代最後の年でした。
ますます仕事にのめり込み、急な仕事も二つ返事。飲みの誘いがあれば朝まで付き合いました。
山澤さんは無理がたたって体調を崩します。食べれば吐き出し、酒も飲めなくなりました。60人いた社員の半分が一斉退職したのはそんなときでした。
「わたしは彼らにもハードワークを強いていました。徹夜で納期に間に合わせるなんて日常茶飯事。社員として働いた経験がない弱みですね。泣き面に蜂とはこのことでした」
その年は過去最高の売り上げを達成しましたが、営業利益は最悪でした。抜けた30人の穴を埋めるために派遣社員をかき集めたからです。
追い打ちをかけたのが取引先の心ない一言でした。
「プレス屋なんてタクシー運転手のようなもんだろ。手をあげたら停まればいいんだよ」
山澤さんにとってその言葉は受け流せないものでした。タクシー運転手にも失礼です。
「一度でも注文を断ったら次はないかもしれない。やりがいを感じつつも、この不安はずっと心の奥底にくすぶっていました。でも、そんな仕事のやり方はもうやめようと思いました」
山澤さんが一番に取り組んだのが職場環境の改善でした。朝礼、昼礼、夕礼を開いて作業の進捗を都度確認し、無理のない範囲で遂行できるように調整したのです。取引先の注文には優先順位をつけ、むちゃな注文は断る勇気をもちました。
現在はフレックス制も導入し、保育園の送り迎えをする母親も働きやすい環境になりました。事務所2階は託児所がわりに使われています。取材中も子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきました。
社内の状況は好転したものの、折からの不況もあり、何らかの手を打たなければならない時期に来ていました。
ヒントを探すため19年に飛んだ米ロサンゼルスで耳に入ってきたのが、買い手のつかないリーバイスの「501」がごまんとある、という情報だったのです。
「501は機能を突き詰めてブランドになった、自他ともに認めるマスターピースです。この年までジーンズはほとんど501しかはいたことがなく、わたしにとって、もはや体の一部のような存在でした。無謀にも買い付けてしまったのは、このまま処分されるのはしのびないという思いでした」
山澤さんのアイロン技術は名だたるブランドから評価されています。
勘どころはまるで人体に着せたかのような丸みを帯びたシルエットにあります。立体的に仕上げれば、体への接地面が少なくなります。接地面の少ない服は、肩が凝りません。着心地はいたって軽やかです。
プレス、補修、検品・・・ワンストップで対応できる体制もさることながら、ヤマサワプレスの強みはなんと言っても確かなアイロンさばきにあります。
「デニム de ミライ」では「ワンオーファイブ・デニムトウキョウ」がメジャーブランドを抑えて売り上げベスト10に食い込みました。本社の直営店には入荷を待つ顧客が列をなします。
人気の秘密は一点ものであることに加え、その着心地にあります。山澤さんの技術は「ワンオーファイブ・デニムトウキョウ」でも発揮されています。
「デニム de ミライ」で脚光を浴びたヤマサワプレスはファッション学校の学生の目にもとまりました。うち何人かはアルバイトとして雇っています。現在の従業員数はバイトも含めて25人です。
「父が元気なうちにこの技術をつなぐ体制が築ければと思っています」
倒れてしばらく言葉もおぼつかなかった父は、今では誰よりも早く工場に入り、軽やかにアイロンを操っているそうです。
「会社を興して10年経ったころ、(職人としてのわたしの仕事も)ようやく手直しされることがなくなりました。でも、父の背中はまだまだ遠い。直されなくなって、はっきりとわかりました。わたしも若手とともに研鑽を積みたい」
山澤さんははにかみながら付け加えました。
「今は胸を張ってこの仕事に取り組んでいます。だって裏方として業界を支えているんですよ。こんなに格好いい仕事はない」
父は伊勢丹新宿店のイベントにも顔を出してくれました。しかし、終始苦虫をかみ潰したような顔をしていたそうです。
「なんとも張り合いがない」。山澤さんは憤慨しましたが、どうやらそれは昭和の職人の照れ隠しだったようです。
「後日母から聞いたんですが、その日の夜、酒を飲んでできあがった父は言ったそうです。『なかなかやるじゃねぇか』と」
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