ふくどめ小牧場は福留家7人を含む計14人が働く有限会社です。1972年、現会長の公明さんが24歳のときに養豚業で創業し、黒豚を中心に生産してきました。1995年に法人化し、福留畜産となります。2004年、日本でここにしかいないというイギリス原産の希少種「サドルバック」に加え、サドルバックと白豚を掛け合わせたオリジナル豚「幸福豚」の生産に乗り出しました。2011年には自社の豚肉を原料にした加工品の製造・販売を開始。2012年、ふくどめ小牧場に改称しました。
「僕らは目の届く範囲の頭数を育てることにしていて、規模の拡大は考えていません。家庭の食卓に『おいしい時間』という小さな幸せを直接届ける。謙虚に、うそをつかない。そんな思いを込めて『小牧場』と名付けました」(俊明さん)
ふくどめ小牧場では、俊明さんが豚の生産(1次産業)、弟の洋一さんが加工(2次産業)、妹の智子さんが商品管理や販売(3次産業)を担当。3つを足しても掛けても6になることから、こうした事業形態を「6次産業」と呼びます。それぞれが専門性を発揮し、3兄妹で6次産業化を実現しているのです。2021年には「令和3年度全国優良経営体表彰」の6次産業化部門で農林水産大臣賞を受賞しました。
ふくどめ小牧場が生産するサドルバックは繊細で肥育の難しい豚です。豚にストレスを与えず、安定して子豚を産んでもらうため、スペースを広くするといった豚舎の改良を続けています。
豚には独自配合した飼料を与えています。トウモロコシや大麦、ノルウェー産の海藻粉末、悪臭対策の納豆菌などを混ぜたものです。一般的な豚の肥育期間は6カ月ほどですが、サドルバックや幸福豚は肥育に時間がかかるため、ふくどめ小牧場では7〜8カ月かけて出荷しています。
出荷された豚は車で20分足らずの食肉処理センターで解体されます。一部は精肉として食肉製造・加工販売会社に卸します。一方、自社ECサイトでの通販とレストランに卸す分の精肉のほか、そのままでは売れにくいウデ、モモ、骨はふくどめ小牧場に戻されます。ウデなどを原料に、弟・洋一さんが加工品を作るのです。
「レストランに卸す精肉は、端っこがいびつで使いづらいので、こちらで先に切り落とします。そうすれば食品ロスが出ないし、切り落としはウデやモモといっしょに加工品の材料にできますから。骨は、牧場の近所の食堂で豚骨スープの材料にしてもらいます。兄の育てた豚を1頭ずつ、丸ごと使い切るんです」(洋一さん)
洋一さんは、ハム・ソーセージの本場であるドイツで7年修行し、国家資格「マイスター」を取得した経歴の持ち主です。ふくどめ小牧場がサドルバックを導入したのは、洋一さんがドイツでその味にほれ込んだことがきっかけでした。
洋一さんの作るハム・ソーセージは、修行先の教えを守ったシンプルな味付けです。国内ではあらかじめブレンドされたスパイスを使うのが主流だそうですが、洋一さんは単品のスパイスを独自に調合し、肉や脂身の味をじかに感じられるようにしています。塩は鹿児島県・佐多岬産です。
洋一さんが作った加工品の管理や販売、会社の広報を担うのは長女・智子さんです。洋一さんがハム・ソーセージを作る加工場の隣のレストランで、商品の販売、ランチの提供(コロナ禍のため現在は休止中)、商品の出荷業務を担います。
「私には養豚や加工の専門知識はなく、2人の兄の間をつなぐ役割です。社内に目配りして、手が足りないところのサポートに入るようにしています。催事での販売も私の仕事です」(智子さん)
加工品を作り始めた2012年当初は売れ残りもあったそうです。しかし、県外のレストランや高級スーパー「クイーンズ伊勢丹」が取り扱いを始めた頃から、評判が口コミで広がりました。次第にレストランのシェフやデパートのバイヤーがひっきりなしに訪ねてくるようになりました。今ではふくどめ小牧場の加工品は全国から引く手あまた。加工品の8割が鹿児島県外へ出荷されています。
「自分たちで売るべき」父の問題意識
6次産業化の背景には、父・公明さんの思いがあったようです。俊明さんと洋一さんはこう振り返ります。
「父は僕らが小さいころから『自分たちで育てた豚は自分たちで売らないといかん』と言っていました。豚はどんなにコストをかけて育てても、赤身の多さで市場の値付けが決まります。でも、実家で育てていた黒豚はもともと脂身が多いので、高値がつきにくい。手間ひまをかけておいしい豚を育てたいなら、消費者の口に入るところまで自分たちで手掛けないとダメだ、と父は感じていたんだと思います」(俊明さん)
「『自分たちで育てて自分たちで売る』は父の夢だったと思います。実家が養豚をしていなかったら、僕は加工の仕事に就いていなかったはずです。おかげでやりたい仕事に出会えました。6次産業化へのレールを敷いてくれたのは父だと感じています」(洋一さん)
俊明さんと洋一さんは子どもの頃、しばしば養豚の手伝いをするよう求められたそうです。
「日曜日や夏休み、冬休み、春休みは必ず豚舎の掃除です。嫌だと言おうものなら、ものすごく怒られました。高校生になると、豚の去勢もするようになりました。養豚の仕事が次第に苦ではなくなり、将来の仕事にしようと自然と考え始めました」(俊明さん)
「中学生になると、養豚の手伝いをすれば日給をもらえました。高校時代は1日5000円だったので、同級生たちもバイトで来ていましたね」(洋一さん)
こうして養豚業に慣れ親しんだ兄弟2人は、自然と家業を継ぐことを考え始めます。しかし公明さんは「2人で同じ仕事をするのはケンカになるからやめとけ」と洋一さんに助言します。洋一さんは高校卒業後、飼育以外の道を求め、食肉技術者を養成する全国食肉学校(群馬県)に進学しました。
一方、妹の智子さんは養豚を手伝わされませんでした。その代わり、家事をするよう言われたそうです。
「女の子は家のことをしなさいという古風な父だったので、家の掃除をしてお小遣いをもらっていました。母も養豚の仕事をしていたので、家事をせざるを得なかったというのが正直なところです。いずれ家業に入るなんて考えもしませんでした」(智子さん)
兄はオランダ留学で最先端の養豚学ぶ
福留家の3兄妹は高校卒業後、全員イギリスへ1年間の語学留学をしています。「いつか世界は1つになる。子どもたちには語学と専門知識を身につけてほしい」。それが父・公明さんの考えでした。
3兄妹は語学留学の後、それぞれの道をたどりました。2代目の俊明さんはオランダの短大に留学しました。オランダ政府が無償提供する養豚技術者養成プログラムを受講するためです。発展途上国の人が対象だったため、俊明さんは有償で参加しました。このプログラムを見つけてきたのも公明さんです。
「父は、豚の薬を販売する外資系企業の人から教えてもらったようです。オランダの養豚技術は世界トップクラス。小さな国だから、1頭の母豚から産ませる子豚の数をなるべく増やし、効率的な飼育をしています。養豚業に対する国の支援も日本よりかなり手厚いです」(俊明さん)
俊明さんは1年弱のプログラムで最先端の養豚技術を学び、帰国しました。しかし当時、実家の牧場で、PRRS(豚繁殖・呼吸障害症候群)という豚の病気が猛威を振るっていました。このため帰郷を延ばし、宮崎県の獣医師のもとで数カ月間、豚の病気について学び、ワクチンの打ち方も教わりました。2001年、帰郷した俊明さんは23歳で福留畜産に入社し、飼育の仕事を任されたのです。
「両親の仕事が全部自分に回ってきた感じでした。ただ、自分で研究していろいろ試せるのは面白かった。苦労したのは病気の予防です。両親の時代にはエサをやっていれば豚は大きくなりましたが、近年はPRRSウイルスが変異し続けており、気をつけないと豚はすぐ病気になってしまいます。全ての養豚家が悩まされている難しい病気ですが、工夫がうまくいったときにはやりがいを感じます」(俊明さん)
豚肉の市場価格は、輸入品の状況や国内の消費動向、景気などに左右されます。3兄妹が6次産業化を実現するまで、ふくどめ小牧場では精肉の大半を市場に卸していたため、損益は大きく変動しました。何千万円の利益が出た翌年に、何千万円の赤字が出ることもあったそうです。融資が必要になった時、社長だった公明さんに代わって俊明さんが銀行と交渉しました。
「父は突進力、決断力がありますが、感覚で動くタイプ。だから銀行に提出する事業計画書を作成するのは、昔から僕の仕事でした。勉強するうち、経営に関する数字を理解できるようになりました。2021年に事業承継した後も、自分の仕事内容に大きな変化はありません」(俊明さん)
弟はドイツで7年修行 マイスターに
俊明さんが帰郷して家業を支え始めたころ、弟・洋一さんは加工の道に進むことを決意します。なぜ加工だったのでしょうか。
「食肉学校で学ぶ中で、ウデ・モモは買い手が少なく、安値になりがちだと知りました。大手ならまだしも、うちのような小さな会社がウデ・モモを安くしたら、売れ筋のロースを高くしないとやっていけません。だったらウデ・モモは自分たちで加工品にして、付加価値を付けて売ったらどうかと考えたんです。家族が大切に育てた豚を丸ごと使い切ることにもつながります」(洋一さん)
洋一さんは食肉学校を卒業後、まず名古屋の精肉卸売会社で1年間修行します。その後、イギリスでの語学留学を経て2003年にドイツへ渡り、ミュンヘン近郊の有機農場「ヘルマンスドルフ」の門を叩きました。
「ヘルマンスドルフは生産、屠殺(とさつ)、加工、販売まで手掛ける農場です。屠殺から経験できれば、加工品製造の流れを一から全部知ることができます。だから、どうしてもここで勉強したかった。ドイツでも、屠殺から経験できるところは少ないんです」(洋一さん)
最初は入門を断られた洋一さんでしたが、諦めずに何度も通って直談判。2カ月後に入門を許されました。専門学校に週1で通い、それ以外の日はヘルマンスドルフで働く日々を3年間送ります。その結果、専門学校を首席で卒業し、一人前の職人であることを証明する国家資格「ゲゼレ」を取得。その後もヘルマンスドルフで研鑽(けんさん)を積み、2009年にはついに最高位の職人を示す国家資格「マイスター」を取得しました。
7年間の修行を終えた洋一さんは2011年、31歳で帰郷します。その後、俊明さんの働く牧場と道路を挟んで向かい側の土地に加工場を建設。翌2012年から鹿屋市内の店舗を借りて加工品の販売を始めました。2014年には加工場の隣の車庫を改造して直売所兼レストランをオープン。洋一さんの帰郷により、ふくどめ小牧場は加工品の販売・提供にも本格的に取り組めるようになったのです。
妹は中国留学から大手通信会社へ
兄2人に続き、末っ子の智子さんも高校卒業と同時にイギリスに語学留学しました。その後は父・公明さんのアドバイスに従い、中国・大連で中国語を学びます。語学研修修了後には、日系企業を開拓する営業担当として大連のホテルに就職しました。まもなく営業先だった日本の大手通信会社からスカウトされます。大連事務所と東京本社で計10年、グローバルの営業担当として活躍しました。
「帰ってきてほしいと父から言われていましたが、仕事が面白くてなかなか帰る気になりませんでした。ただ、働き始めて10年経ったころ、ちょうどふくどめ小牧場の直売所とレストランができたんです。帰省がてらのぞくと、電話やファクスで注文を受けたら終わりで、注文データが整理されていませんでした。兄(洋一さん)は職人ですから、データの管理まで手が回っていなかったんです。『ここで私ができることって意外とあるかもしれない』と思ったことが、帰郷の決め手になりました」(智子さん)
2016年、智子さんは32歳でふくどめ小牧場に入ります。まず着手したのは、加工・販売に関する情報精査でした。どこからどんな注文を受けて、いくらで販売したか。エクセルなどに取引先リスト、見積もり額、受注額などをまとめました。
「データをまとめておけば、今後従業員が増えた時、仮に私がいなくてもやっていけます。仕事が属人的にならないよう、今、義理の姉にデータ管理業務の引き継ぎをしています。このデータを見て、従業員一人ひとりが考えて行動できるようになるといいなと思っています」(智子さん)
生ハムとサラミは「DEAN&DELUCA」に
近年、ふくどめ小牧場の経営は順調です。コロナ禍で全国の飲食店が営業しづらかった2020年には加工品の売上が落ちましたが、需要はすぐに回復。「巣ごもり需要」の高まりで、通販の売上はむしろ伸びています。スーパーやレストランへの卸しも堅調です。
2022年には、人気の高級食料品店「DEAN&DELUCA」(ディーン&デルーカ)にふくどめ小牧場の生ハムとサラミのほぼ全量を卸すことが決まりました。イタリアでアフリカ豚熱(ASF)が発生し、イタリアからの豚肉加工品の輸入が停止したためです。今後、直売店以外でふくどめ小牧場の生ハムとサラミを買えるのはDEAN&DELUCAだけになるといいます。
新商品の「犬用のおやつ」も誕生しました。2022年6月から地元・鹿屋市のトリミングサロンだけで販売しています。原料はふくどめ小牧場で育てた豚の耳と骨と皮です。
飼料価格は1.5倍 ウクライナ侵攻が影響
精肉や加工品の販売は順調ですが、目下の課題は飼料価格の高騰です。
「ロシアのウクライナ侵攻が影響しています。7月は前年同月比1.5倍です。飼料米を使ったり、とうもろこしを海外産から国産に変えたりといった手も考えましたが、打開策は見つかりません。うちではとうもろこしだけで年180〜200トン使います。梅雨や台風のある日本でそれだけの量を栽培してもらうのは難しいんです。飼料は肉の味に直結するので簡単に変えられない事情もあります。飼料の在庫を調整しながら何とか乗り切りたいです」(俊明さん)
豚の病気の防止も課題です。豚を1頭ずつ健康に育て、安定して子どもを産ませることが一番のコストカットにつながる、と俊明さんは言います。
「いかに健康な状態で出荷できるかを追求したい。そのためには適切なタイミングでワクチンを打つ、病気にかかりにくいよう母豚のエサを強化するなど、飼育方法を改善し続けることが大事です」(俊明さん)
弟の洋一さんと妹の智子さんも、それぞれの持ち場で課題を感じています。
「日本のハム・ソーセージは一つひとつビニールパックする必要があります。でもSDGsの観点では、使い捨ての包装用ビニールや容器は環境にいいとは言えません。資材価格も値上がりしており、いい方法がないか考えています」(洋一さん)
「地方では人とのつながりを大切にしないと商売をしていけません。それでも、会社として利益を確保するには厳しい目も必要です。取引先の言い値で発注せず、必ず相見積もりを取る。加工品の包装資材や使い捨てのビニール手袋など、毎日大量に使うものは仕入れ先と価格交渉する。単価が0.1円違えば年間コストは大きく変わります」(智子さん)
チーズやビールも製造 「循環型」農場の夢
弟・洋一さんには夢があります。それは豚肉の加工に加え、チーズやビールも製造することです。修行したドイツの農場がそうでした。製造工程で出るホエイ(乳清)や大麦の搾りかすを豚のエサにして、循環型の農場経営をしていたそうです。
「僕らのような家族経営の牧場では、養豚の規模を広げるのは難しい。だから肉や加工品の品質で勝負するだけなく、『循環』という付加価値をつけたらどうかと考えました。チャレンジを続けて、自分の子どもたちが継ぎたいと思ったり、若い世代がここで働きたいと共感してくれたりする事業にしたい。兄妹で補い合ってやっていけたらと思います」(洋一さん)
俊明さんの夢は何でしょうか。
「自分は養豚家なので養豚に集中し、夢は弟や妹、父に任せたいと思います。ただし、養豚が崩れると加工・販売も立ちゆきません。そうならないよう手堅い経営を心がけたいと思います。利益が多めに出ても無理な投資をせず、飼料高騰や病気の発生による損害を穴埋めしていく。波を抑えられたところが生き残ると思っています」(俊明さん)
ふくどめ小牧場を未来につなぐため、3兄妹はそれぞれが自分の役割を問い続けています。6次産業化の先には、果たしてどんな未来が待っているのでしょうか。