倒産危機のパン店を再生 「世界一の職人」冨士屋3代目の経営改革
新潟市の人気ベーカリー「冨士屋」は、約100年の歴史の中で倒産危機に陥った時期もありました。3代目の渋谷則俊さん(50)は「老舗ののれんにあぐらをかいていた」と経営困難だった時期を振り返ります。その後、立て直しに奔走し、整理整頓の徹底や就業時間の見直しなどの組織改革を推進。腕を磨いてパン作りの世界大会で優勝し、新しいブランドの店もオープンしました。波瀾万丈の軌跡に迫ります。
新潟市の人気ベーカリー「冨士屋」は、約100年の歴史の中で倒産危機に陥った時期もありました。3代目の渋谷則俊さん(50)は「老舗ののれんにあぐらをかいていた」と経営困難だった時期を振り返ります。その後、立て直しに奔走し、整理整頓の徹底や就業時間の見直しなどの組織改革を推進。腕を磨いてパン作りの世界大会で優勝し、新しいブランドの店もオープンしました。波瀾万丈の軌跡に迫ります。
冨士屋は新潟市中心部の古町商店街に本店を置き、系列の「ぱんや徳之助」を含め3店舗を展開しています。看板の上食パンやクリームパンなど、常時80種類のアイテムをそろえ、地元の情報番組でもよく取り上げられる人気店です。
1924年、渋谷さんの祖父・徳之助さんが創業。戦後に2代目を継いだ父 ・祥二さんはフランスへ赴き、レンガ造りやシャンデリアの照明を採り入れ、当時は珍しい自分でパンをトレーに載せる「セルフサービス方式」を採用しました。そして、順調に店を増やし、地元の人気店となりました。
しかし、学生のころの渋谷さんは、自分がベーカリーで働く未来は全く見えなかったといいます。
「父は深夜2時から店が閉店するまで働き通しで『パン屋はきつい仕事』というイメージでした。親元から逃げたい一心で東京の経営専門学校に進み、アウトドア用品の会社に就職しましたが1年も続かなくて……。結局、新潟に戻ってきたんです」
お金がなかった渋谷さんは、冨士屋でアルバイトをすることに。経験が浅くて満足な仕事ができず、一緒に働くスタッフたちから馬鹿にされているように感じたといいます。
「悔しさが募る日々でした。せめて店の掃除だけは丁寧にやろうと気合をいれていたんです。すると、店長がやる気を買ってくれ、パン生地の仕込みや成形、窯入れなどを任せてくれるようになりました」
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仕事にやりがいを感じ始めた渋谷さんは、東京の日本パン技術研究所や日清製粉で勉強会に参加し、基礎を学びました。
店長を任されたのは26歳のころ。「スタッフの仕事をローテーション制にしたり、新作パンを開発したり改革を進めました。しかし、スタッフからは『やることが増えて大変になった』と不満が出ました」
当時、冨士屋では6店舗1工場を展開していました。毎月の店長会議ではスタッフのモチベーションに差があることが課題になっていましたが、改善策は見つからなかったそうです。
冨士屋では「ずさんな材料管理」も深刻な問題の一つでした。通常、小麦粉や牛乳、ナッツなどの材料は賞味期限が古いものから順に使っていきます。そのため新しい材料が届いたら、古いものを先に使えるように分かりやすく配置する必要があります。
しかし当時は材料管理がおろそかで、賞味期限切れの材料を大量に廃棄していたのです。「社長の父にも状況を報告しましたが、年齢を重ねていたからか現状維持で良いという考えでした。ベテランの職人たちはルーティン化した仕事をこなすのみでした」
売り上げは下降の一途でしたが、店長会議で出るのは「まちに人がいなくなったから」「不景気だから」という声ばかり。さらに問題だったのが、社員に支払うボーナスでした。
「赤字決算が続きながらも父はボーナスを惜しみませんでした。しかも年功序列で、ベテランの報酬は高く若手は安い。若手の方がよく働いていたので不満が爆発しました。根が深すぎ、どう解決すべきか頭を抱えましたね」
しかし、こうした状態は長く続かず、いよいよ銀行がお金を貸してくれなくなりました。渋谷さんは当時32歳。社長の父は体を壊し、母親が代理で社長業を担います。
「母は問屋への支払いは滞らせまいと、当時スタッフへの給料支払いを遅らせました。もちろんボーナスも出ません」。給与支払いは3カ月間滞り、数人のスタッフが店を去りました。
残ったスタッフと店を立て直そうと、決意を新たにする渋谷さん。イベントに出展してパンを売り始めました。「追い込まれてお尻に火がついた。職人も販売員も全員が休日返上で働きました」と振り返ります。
「冨士屋」は新潟市きっての老舗ベーカリーで、看板商品のクリームパンは根強い人気があります。新潟でイベント販売を行うなかで、常連さんはもちろん新規のお客さんとのつながりもできました。
また、県外を飛び出して東京・伊勢丹百貨店の物産展での販売にも挑戦することに。じわじわと人気が広まり、出展3年目にはクリームパンが1日70万円の売り上げを達成。バイヤーが集まり、他の百貨店の物産展にも次々と参加が決まりました。
冨士屋は経営が上向きになり、ピーク時に1億円以上あった借金を順調に返していきました。渋谷さんはいずれ店を託される日を見据え、埼玉県内を中心に展開する有名ベーカリー「デイジイ」で1年間の修業に入ることを決めます。
デイジイで学ぶ機会を得られたのは、製粉会社の新潟県の担当者に「一からパンの勉強をしたい」と相談したところ縁をつないでくれたからです。こうして渋谷さんの新たな挑戦が始まりました。
「修業は驚きの連続でした。スタッフは自分より年下ですが、動きがスピーディーで一切の無駄がなく、男女関係なく圧倒的な仕事量をこなしています。これがプロの仕事なのかと圧倒されました」
デイジイの社長はわざわざ新潟の冨士屋を訪れ、あいさつに元気がない、そうじが汚い、動きが遅いといった問題点を指摘してくれたといいます。
渋谷さんの右腕となるスタッフ数人も交代制で数カ月間デイジイで修業することで、めざす姿を共有しました。
冨士屋に戻った渋谷さんは修業で学んだことを生かし、改革を始めました。
まず変えたのは、朝礼のあいさつです。今までは重い空気が漂っていましたが、デイジイを見習い、元気の良いあいさつを徹底しました。
労働環境を改善するため、始業時間を午前3時から午前5時に遅らせ、終業時間も午後7時から午後5時に早めました。この時間内の交代制での作業となります。渋谷さんは時間を短縮できた理由について、こう語ります。
「一番効果があったのは整理整頓の徹底です。ずさんだったパンの材料や資料の管理方法を改善し、無駄に探す手間がなくなりました。あとはこまめな掃除です。汚さないように意識すると仕事が丁寧になり、効率が良くなりました」
「スタッフにはその仕事に時間をかけるべきか、常に考えるように伝えています。たとえば鉄板拭きや床掃除などの単純作業はスピーディーに、新商品開発や新しい仕事を覚えることには時間をかける。このメリハリが大事なんです」
意識したのは、スタッフ全員に自発的に動くように働きかけること。イベント出展ではスタッフ全員が新商品を考えたり、ポスターを制作したりしているそうです。
「正直、新商品を考えてもらいたいと伝えたとき、面倒そうな表情を見せるスタッフもいました。ですが、自分が考案したパンがお客さんに喜ばれる体験はうれしいものですよね。スタッフのおかげで『麻婆ドーナッツ』といった定番パンも生まれたんですよ。徐々に冨士屋のパンに愛着が生まれ、スタッフ自身が工夫するようになっていきました」
こうした改革はスタッフの士気を高めた一方、ベテラン社員数人の離職を招きました。しかし、新規メンバーの離職率は大幅に下がることに。新陳代謝が働き、渋谷さんの思いに共感するスタッフだけが残ったことは、結果的に功を奏したといえます。
渋谷さん自身もパン職人としてレベルアップし、店の認知度を高めるため、パン作りの世界大会への出場を決めました。それは師匠であるデイジイの社長に「小さなまちのパン屋で一生を終えるのか?」と問われたからでした。
「自分はどこまでいけるのかチャレンジしたかった。冨士屋の若手スタッフにパン職人の可能性を見せたいという思いもありました」
製パンの大会は1チーム2人で、制限時間内に調理パン、菓子パン、大型飾りパンなどを仕上げます。11年は国内予選で敗退しましたが、14年は国内予選決勝に進み、日本一を勝ち取りました。そして翌年の世界大会に向けて過酷な練習が始まりました。
「毎日、仕事が終わってから練習していました。チームを組んだシェフと試作を重ね、寝る間も惜しむほどでしたね。世界大会出場が決まると同時に、全国各地で製パン講座の講師も務めるようになりました。そのころにはスタッフが自発的に動くサイクルができていたので、安心して店を任せられました」
世界大会「iba cup」はドイツ・ミュンヘンで3年に1回開催される世界最大級の展示会「国際製パン・製菓機材総合見本市」(iba)内で開かれ、渋谷さんが出場した15年は12カ国が参加しました。
制限時間が限られるなか、他国チームでは5部門もある作品すべてのクオリティーを上げることは難しかったようです。一方、渋谷さんたち日本チームは、綿密に作業時間を計算して練習を重ね、すべてにおいて繊細な作品を仕上げることに成功。その完璧なパンが評価され、日本人初優勝を果たしました。
世界一に輝いたことで取材依頼が殺到し、お客さんが冨士屋に押し寄せるようになりました。そして、世界大会から数カ月後、渋谷さんは冨士屋の3代目社長に就任しました。
軌道に乗った冨士屋は17年に借金を完済し、人気店に返り咲きました。続いて渋谷さんが目指したのは、冨士屋とは全くコンセプトが異なる新ブランドの立ち上げです。
「老舗の冨士屋には昔からの常連さんがたくさんいます。しかし、名物のクリームパンや上食パンという“冨士屋らしい商品”が求められ、新しいパンに挑戦しづらいのを歯がゆく感じていました」
新しく立ち上げた店の名前は「ぱんや 徳之助」。創業者の祖父の名前を付けました。「あくまで地元のパン屋」というスタンスから、ベーカリーでもブーランジェリーでもなく「ぱんや」を冠しています。
コンセプトは「美味しいのは当たりまえ、驚きのあるユニークなパン」。新店舗の商品の試作・開発は約1年間に及びました。完成したパンの数々は、斬新なラインアップとなっています。
看板商品の「徳之助食パン」は、北海道産小麦で作った湯種を使ったモチモチの食パンです。湯種は入れすぎるとつぶれやすくなりますが、形を保てる最大限の量を添加することで、口溶け良く甘みを感じる生地に仕上げています。
特製のクリームパンは、食パンの生地を他のパンに使わないという業界の常識を破りました。湯種のむっちりした生地に、カスタードクリームがたっぷり入っています。カスタードクリームは乳脂肪分が高い牛乳にこだわることで、濃厚なコクを感じられる味わいに仕上げています。
「山椒チーズ」というパンは、京都で食べたスイーツにも山椒をかける文化に触発されて生まれました。フランスパンの生地やチーズと合わせ、山椒が香るおつまみにもぴったりなパンとなりました。
ぱんや徳之助は新潟市西区の大通り沿いですが、冨士屋は人通りが少なくなった商店街にあります。しかし渋谷さんは、どちらの店も大切に育てたいといいます。
「人通りのさびしい商店街にある冨士屋は、立地的に良いと言えないかもしれません。しかし、経営が苦しい時に支えてくれたのは、このまちに住むみなさんです。ここには人も会社もちゃんとあり、冨士屋のパンを愛してくれる人々がいます」
「パン屋として大勝ちするより、地域でナンバーワンの存在になりたい。派手に出て即消えるより、じわじわと生き残るためにも、さらにお客さんに認知してもらう努力をしていきたいです」
地域に根を張る、唯一無二のパン屋を目指して――。渋谷さんの挑戦は続いていきます。
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