目次

  1. 雪華堂とは
  2. 「売り上げを伸ばすのが難しくなってきた」
  3. 後継者候補だった息子に「今さら戻ってこいとは…」
  4. 「廃業した方が楽」でも銀座鈴屋にブランド引き継ぐ

 雪華堂は、明治12年(1879年)、当時の銘菓だった金平糖を食した徳川公が「まるで雪の華のようだ」と形容し「雪華堂栄屋」との屋号を与えたことがルーツだといいます。

 先代の故・佐藤龍馬氏の自伝「雪林を歩む」によると、第二次世界大戦から復員した龍馬氏は、戦火を逃れて家族が避難していた先の練馬区の江古田で店を再開しました。

 砂糖の配給が始まったので羊羹を作ってみると「芋の味に慣らされた戦後の口に久方ぶりに練り上げた羊羹を口にした時、これが正真正銘の羊羹だと感激した」とつづっています。戦争により、皆が嗜好品が遠ざかっていたため、菓子がよく売れたと回想しています。

雪華堂の甘納豆。以降の写真は雪華堂の公式サイトから引用

 後に付加価値の高い甘納豆を手掛けるようになり、発祥である赤坂の地に再び出店できるまでに事業を伸ばしました。今の代表取締役の佐藤愛一郎さんは「のれん分けも含めると、雪華堂を名のつく店は多い時で40店舗ほどあった」と振り返ります。

 しかし、雪華堂は、廃業に向けて2023年5月30日までに全店を閉めることになりました。佐藤さんは「私の体力だけでなく、限界だなと思うことがいくつもあった」と明かし、事業を続けて周りに迷惑がかかってしまう前に廃業を決断したと言います。

 18歳から雪華堂で働き始めた佐藤さん。家族の助けも借りながら経営を続けてきましたが「売り上げを伸ばすのが難しくなってきた」と感じるようになりました。

雪華堂赤坂店(現在は閉店)

 昭和時代、赤坂店を持つ雪華堂は近くの料亭から注文がたくさん入り、夕方になると、お土産用の箱が店に積みあがっていたといいます。そのころから比べると、店の売り上げは1/3に落ち込みました。

 佐藤さんは「和菓子の需要が落ちたというよりも、コンビニなどでスイーツが手軽に手に入るようになるなど、食べ物のなかでの競合が多様になってきた」と話します。

やきたて林檎(シャキシャキ食感の林檎とサクッとしたパイ生地の焼菓子)

 雪華堂でも、時代に合わせて、フルーツ雪大福や焼いた林檎を乗せたパイ生地のお菓子、かりんと万頭など時代に合わせた和洋折衷のお菓子を試行錯誤してきました。ただし、その分、職人の教育により時間がかかるようになったといいます。

 佐藤さんには事業を任せようとしていた息子がいました。しかし、息子は独立して別の店を経営しており「今さら戻ってこいというのは難しいだろう」と考えたといいます。そのほかにも、住宅街で菓子製造工場の運営を続けることの難しさなど様々な要因がありました。

 こうしたなか、赤坂店の土地に買い手が見つかったことで「事業を精算するには、従業員に退職金をきちんと払い、借入金も返す必要がある。周りに迷惑がかからないうちに店を閉めよう」と決断しました。

 店舗は順次閉店していますが、東京都練馬区や豊島区にある平和台・千川・江古田駅前の3店舗は、創業1951年の甘納豆専門店「‎銀座鈴屋」に譲渡し、6月9日から再開する予定です。

 譲渡作業は膨大で、佐藤さんは「何もせずにそのまま廃業した方が楽だったかもしれない」と思うこともありますが「和菓子事業を広げたい」という銀座鈴屋の熱意に応えて全面協力を約束したのだといいます。

 銀座鈴屋の先代との付き合いはあったものの、いまの小木曽太郎社長との付き合いはほとんどありませんでした。それでも、話し合いを進めるなかで「競争がさらに激しくなるなかでも、この人なら事業を伸ばせる」と感じ、事業を任せる決断をしました。

三味どら焼(大納言・うぐいす・手亡の3種の粒あん)

 雪華堂が作って来た和菓子の多くは職人や設備機械も含めて銀座鈴屋が引き継ぎます。ただし、甘納豆は銀座鈴屋の商品を取り扱うことになります。

 3店舗の今後の運営について、銀座鈴屋に問い合わせたところ「雪華堂のブランドを引き継ぎ、地域の方から今まで通りのお店だと感じてもらえるよう運営していきたい」との回答が寄せられました。