東京・表参道にある江戸前寿司の名店、きどぐちの板前はなじみ客の問いかけに満面の笑みを浮かべました。とろけるようなその玉(ぎょく)に使ったのはいつもの卵でしたが、溶く道具が違いました。
「『ときここち Pro』を完成させたわたしはその足できどぐちを訪れました。中小企業振興公社がつないでくれたのです。試した板前さんは目を丸くされていました。しかしそれも当然でしょう。10個の卵を30秒で溶くことができて、泡が立たないのですから」(利根さん)
食の世界で卵液づくりは厄介なものでした。大量の卵を一度に溶こうと思えば既存のホイッパーでは力不足であり、溶き終えれば泡の問題に悩まされます。泡立て器というくらいですから、溶き終わったボウルのなかは泡だらけ。そのまま調理すると味も食感も落ち、見栄えも損なわれます。料理人によっては冷蔵庫で一晩寝かすこともあるそうです。
きどぐちのほか3軒の飲食店で製品テストを行いましたが、軽量化を求める声が一部あったものの、肝心の性能については満点の評価をもらいました。細部にわたって見直すことで20%の減量に成功すると、23年2月に東京で開催された国際ホテル・レストランショーでデビューしました。
「わたしたちのブースには二重三重の人垣ができました。終わってみれば誰もが知るような料亭やホテルの名刺が107枚。まずは使ってもらわないことには話が始まりません。レンタル・キャンペーンを行ったところ、9軒が応募、そして今日(取材当日の3月13日)、めでたく一軒の本契約が決まりました」
大手にも負けない生産体制
トネ製作所は利根さんの父、郁三さんが1961年に創業しました。「500円札と歯磨き粉を握りしめて」埼玉から上京した郁三さんは荒川区のプレス屋に転がり込みました。
右肩上がりの時代、自動車産業とのパイプをつくったトネ製作所は野球チームを二つ持つほどの従業員を抱えました。
利根さんが80年に家業入りしてほどなく、郁三さんは最新鋭のマシンの購入を決めます。「得意先からこれからは少量多品種の時代だよといわれたそうです。どうやって費用を捻出したのか。いまとなってはわかりませんが、必死にかき集めたんだと思いますよ」(利根さん)
その担当に指名されたのが利根さんでした。地元の信用金庫に勤める涼子さんを射止め、長男の祐樹さんを授かって間もなくのこと。利根さんは奮い立ちました。
大手にも負けない生産体制を整えたトネ製作所は順調に業績を伸ばしていきます。おもなメニューはパチンコ・パチスロやATMの部品、新幹線の扉をつる金具。2007年の売り上げは過去最高の11億円を超えました。
売り上げの8割を失うピンチ
好事魔多しとはこのこと。翌08年、経済小説を地で行く不運に見舞われます。産地移転のあおりを受けて売り上げの8割を占めるクライアントから契約を打ち切られたのです。02年に事業を承継した利根さんはさらなる事業拡大を目指し、川口市に第二工場を構えたばかりでした。
「そのクライアントの仕事はほとんどを外注に頼っていたから、いきなり深刻な事態に陥ったわけではありません。川口の工場は貸し工場だったので撤退すればいいだけでしたし、借金も十分返済可能な額でした。とはいえ、これまでどおりというわけにはいきません。人員整理にも手をつけざるを得ませんでした」(利根さん)
涼子さんはいいます。
「父ちゃんは布団に入れば1分で寝ちゃう人です。けれどこのときは違いました。朝まで一睡もできなかったこともあったようです。そのうちに過敏性腸症候群を患いました」
「我が家の夕食はみんなで、というのが決まりでしたが、父は食事を終えると工場へとんぼ返り。そして日付が変わるころに帰ってくる。わたしが物心ついた時分からずっとそんな感じでしたから、後を継いで楽にしてやりたいと思っていました。地元の高専を出て、家業入りしました」(祐樹さん)
祐樹さんの発言を受けて涼子さんが胸を張りました。
「(次男の)直樹も(製造)現場で腕をふるっています。うちの息子たちには反抗期がなかったんですよ」
手仕事が大手メーカーから評価
「あらたな取引先を求めて足を棒にする日々が始まりました。まずは企業名鑑をめくってめぼしい企業に片っ端からはがきを出しました。いまとなっては何百枚書いたのかわかりません」(利根さん)
しかし、営業はがきも営業まわりも芳しい結果は得られませんでした。もがくこと7年。けして諦めなかった利根さんは15年に非鉄金属メーカー大手からレーザー発信機筐体の受注にこぎつけます。
「営業まわりと同時進行で経営者のセミナーにも顔を出すようになりました。ためになりそうなセミナーなら労を惜しまず参加しましたね。そのセミナーで隣に座った方が(前述の)メーカーの幹部だったのです」
勝因は熟練の職人仕事が息づいていることにありました。
「弊社は積極的なマシンの導入によって時代の追い風に乗ることができましたが、右肩上がりのその時代から古き良きものづくりを大切にしてきました。たとえばバフがけ(研磨作業)やバリとり(残留物の除去作業)は、いまも手仕事。どんなにマシンが進化しても最後は職人の経験と勘がものをいう世界だからです」
くだんの幹部は、そんな生産背景を高く評価したのです。
トネ製作所には工場板金1級、数値制御式タレットパンチプレス1級、機械検査3級の有資格者が延べ6人います。従業員数16人という規模の工場としてはぜいたくな布陣です。これもまた、職人の腕をさびつかせたくないという思いから。資格取得にかかる費用は会社が助成しています。
職人仕事が生んだ「ときここち」
再建の道筋をつけた利根さんはオリジナル開発に乗り出します。
「社業について問われれば、我々がつくるものは人の目に触れないところにあると答えてきましたが、正直、歯がゆかった。孫に『おじいちゃんはこれをつくっているんだぞ』とみせられるようなものがほしかった」
次の一手を打つべく相談したのは涼子さんでした。涼子さんは少し得意げに、当時を振り返ってくれました。
「わたしは手当たり次第、勉強しました。後にわたしたちを取り上げてくれる(人気経済番組の)『ワールドビジネスサテライト』を熱心に見たのもこのころ。そうしてニッチな商品は面白いということがわかってきた。ひらめいたのが卵を溶く道具でした。わたしは白身のダマが苦手。卵焼きに白い部分があると避けて食べるくらいでしたが、はしで溶くには限界がありました」
利根さんは工場に転がっていたステンレスの端材を持ち帰ります。ダマを断つには鋭利な刃で切るように混ぜればいいんじゃないかと考えたのです。涼子さんがその端材で卵を溶いてみたところ、白身は難なく混ざりました。
仮説が正しかったことを確認すると、さっそく試作にとりかかります。ヘッドに3本のステンレスを配し、ハンドルにくぼみをつけました。ヒントはアイスクリームについてくるスプーン。ヘッドは確実に卵をとらえ、素早く白身を切りました。
完成のイメージが湧いた利根さんは次なる試作に挑みます。ハンドルを長くとり、ひねりを入れました。ちょうど手になじむ形状で、テーブルに置いたときもヘッドがテーブルに触れることはありません。ヘッドは曲線のステンレスで構成されました。ゆで卵を図案化したものです。
ステンレスの寸法も試しました。ミリ単位で検証した結果、0.7ミリ幅、2.0ミリ厚が切れ味と耐久性を担保しました。
見逃せないのが柔らかなアールを描くハンドルの端面です。バフがけのたまものであり、職人仕事をおざなりにしなかったトネ製作所だったからできた仕上がりです。
「わたしは5年使っていますが、一向くたびれる気配はありません。唯一の欠点は2本目を買ってもらえないということですね」
涼子さんの口上は、寅さんのようになめらかです。
百貨店販売でできた人だかり
「ときここち」は19年、池袋の東武百貨店でデビューを果たします。セミナーで知り合った東武百貨店の関係者が口を利いてくれて、「夏の職人展」というフェアへの出展が決まりました。
「話がまとまったのが18年12月。フェアはその半年後に行われるという。当時手元にある『ときここち』はプロトタイプの一本だけでした。わたしはゴールデンウィークもすっ飛ばしてつくりました。その数、300本。パッケージも手づくりでした」(利根さん)
開店初日、百貨店が宣伝してくれたこともあって「ときここち」のブースはみるみるうちに黒山の人だかりができました。在庫が乏しくなってきた利根さんは会期中も毎日のように夜なべしました。4290円とけして安くはない価格設定ながら、最終的には315本がさばけました。
「いまも忘れません。一人目のお客さまは開店と同時にまっすぐにこちらを目指して来られて、『これがほしかったのよ』とおっしゃいました。また別のお客さまはお買い上げいただいた翌日にもお越しになりました。手を振りながら。何事かと思ったら『あまりにも使い勝手が良かったからもうひとつちょうだい。娘にあげるから』って」
涼子さんは感無量といった様子で目頭を押さえました。
確かな手応えをつかんだ利根さんは積極的に催事出展を開始、おしどり夫婦の効果もあったのか、今度はテレビ局の目にとまり、立て続けに放映されました。コロナ禍のおうちごはんやTKG(卵かけごはん)のブームも追い風になりました。
23年1月には累計販売本数1万5千本を達成。十分な知名度を得た「ときここち」はみずからが有能な営業マンとなり、ラ・クッチーナ・フェリーチェ、ギフト&ファンといった専門店との取引も始まりました。
息子たちも生産をバックアップ
「ときここち」は試作から製作までほぼ利根さんひとりが手がけてきました。従業員は本業で手いっぱいだからです。「自社の設備でまかなえたので開発費も生産ラインの構築費も発生していません」とこともなげにいいますが、社長業のかたわら現場に入り続けた精神力には脱帽するしかありません。
「すべてを自分でやれば不具合も都度潰していける。その作業は楽しかった。バフがけもはじめのころに比べれば半分の時間で済むようになったんですよ。父ちゃん、職人としても腕をあげたぞと自慢したら家族はあきれていました」
注文が殺到したころは連日深夜まで働きましたが、それでも納期は3カ月。そんな苦しい日々もようやく終わりを迎えそうです。息子たちが23年4月から「ときここち」の生産に携わるようになったからです。「見かねた二人が助っ人を買って出てくれたんです」といって、涼子さんは鼻をかみました。
「売り上げとしては微々たるものですが、『ときここち』はわたしの心の支えになり、家族の支えになりました」(利根さん)
これからの目標は会社の支えになること。
「国勢調査によれば日本の世帯総数はおよそ5570万。一世帯1本と考えれば、伸び代しかない。ホームページにも書きましたが、一生に何度も使わないたこ焼き器を買う人が大勢いるんです。『ときここち』はちっとも高い買い物ではありません」