目次

  1. 「お父さんの代で畳むから」と言っていた父
  2. 賞味期限迫った商品の山、捨てるくらいなら
  3. 客からのコメントで知った家業の価値
  4. 改革に着手、まずは情報発信とネット通販
  5. 売上急回復を呼び込んだ1枚のプレスリリース
  6. バズを連発、ツイッター運用の勘どころは
  7. イートインスペースを「つながれる場」に
  8. 「#和菓子離れ」だとしても、この仕事は幸せ

 元祖鯱もなか本店は、花恵さんの曽祖父・関山乙松(おとまつ)さんが、現在地の約1キロ北の伏見地区で和菓子店として創業しました。1921(大正10)年に、のちの看板商品となる「鯱もなか」を考案。戦争で店舗が全焼し、現在の大須地区で再出発しました。

1907年、名古屋市の中心部・伏見地区で創業した元祖鯱もなか本店。左は創業者の関山乙松さん(同店提供)

 花恵さんの父で3代目の関山寛さん(72)が洋菓子も始め、和洋菓子店になりました。現在は大須の本店で製造・販売を行い、JR名古屋駅や名古屋城の売店、百貨店などに商品を卸しています。

 本店の裏の製造工場では、いつも両親と数人のパートさんが一生懸命働いている――。花恵さんはそんな風景を見て育ったといいます。夏休みなど長期の休みには手伝いもしました。ただ、父・寛さんから「店を継いでほしい」と言われたことは1度もなかったそうです。

 「友達と遊びたいのに、お盆で忙しい時期だからと、よく手伝いに駆り出されました。でも、父は兄と私に『継がなくていいからな。お父さんの代で畳むから』と言っていました。いつも忙しそうだし、私自身、積極的に継ぎたいとは思っていませんでした」

 兄は一般企業に就職し、花恵さんは名古屋芸術大学でデザインを学んだ後、アパレルの道へ進みました。

 「おしゃれや細かい作業、何かを作ることが好きでした。大学時代は大須の服屋さんでアルバイトもしました。アパレル企業で働いた後、ネイリストもしましたが、『一生この道でやっていきたい』と強く思うことはなかったです」

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