廃業準備から一転、継いだ娘 元祖鯱もなか本店4代目の心を動かしたもの
名古屋市中区の「元祖鯱(しゃち)もなか本店」は、1907(明治40)年創業の和洋菓子店です。廃業に向けて事業を縮小していましたが、当時の社長の娘である古田花恵さん(39)が、コロナ禍のできごとを通じて継ぐことを決意。夫の憲司さん(37)とともに改革に乗り出し、巧みな情報発信で売上を急回復させています。
名古屋市中区の「元祖鯱(しゃち)もなか本店」は、1907(明治40)年創業の和洋菓子店です。廃業に向けて事業を縮小していましたが、当時の社長の娘である古田花恵さん(39)が、コロナ禍のできごとを通じて継ぐことを決意。夫の憲司さん(37)とともに改革に乗り出し、巧みな情報発信で売上を急回復させています。
目次
元祖鯱もなか本店は、花恵さんの曽祖父・関山乙松(おとまつ)さんが、現在地の約1キロ北の伏見地区で和菓子店として創業しました。1921(大正10)年に、のちの看板商品となる「鯱もなか」を考案。戦争で店舗が全焼し、現在の大須地区で再出発しました。
花恵さんの父で3代目の関山寛さん(72)が洋菓子も始め、和洋菓子店になりました。現在は大須の本店で製造・販売を行い、JR名古屋駅や名古屋城の売店、百貨店などに商品を卸しています。
本店の裏の製造工場では、いつも両親と数人のパートさんが一生懸命働いている――。花恵さんはそんな風景を見て育ったといいます。夏休みなど長期の休みには手伝いもしました。ただ、父・寛さんから「店を継いでほしい」と言われたことは1度もなかったそうです。
「友達と遊びたいのに、お盆で忙しい時期だからと、よく手伝いに駆り出されました。でも、父は兄と私に『継がなくていいからな。お父さんの代で畳むから』と言っていました。いつも忙しそうだし、私自身、積極的に継ぎたいとは思っていませんでした」
兄は一般企業に就職し、花恵さんは名古屋芸術大学でデザインを学んだ後、アパレルの道へ進みました。
「おしゃれや細かい作業、何かを作ることが好きでした。大学時代は大須の服屋さんでアルバイトもしました。アパレル企業で働いた後、ネイリストもしましたが、『一生この道でやっていきたい』と強く思うことはなかったです」
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やがて、大学時代に出会った夫・憲司さんと結婚します。憲司さんは商社で働いた後、不動産事業で起業しました。花恵さんは専業主婦として、子育ての傍ら、憲司さんの仕事を手伝うようになります。大学で身につけたデザイン力を生かし、インテリアなどを担当しました。
その頃、父・寛さんは事業の縮小を進めていました。取引先を少しずつ減らし、新商品開発にも力を入れなくなったそうです。
「父が店を畳んだ後に、ずっと忙しかった両親にとって自由に過ごせる時間があるといいな、と思っていました」
2020年春、縮小しつつも続いていた家業を新型コロナ禍が襲いました。元祖鯱もなか本店の売上の7割は、駅売店や百貨店への卸が占めています。人の往来が減り、手土産需要が落ち込んだことで、売上は3分の1にまで下がりました。
それまで家業にほとんど関わらず、店に出たこともなかった花恵さんは、たまたま立ち寄った本店裏の工場で、賞味期限の迫った商品の山を目の当たりにしました。
「全部捨てるくらいなら、安くていいので食べてもらえないだろうか。そう考えて、当時フェイスブックでよく見かけた『WakeAi(ワケアイ)』というサイトに出品してみることにしたんです」
WakeAiは、コロナ禍でピンチに陥った事業者の商品を安く買えるサービスで、「社会貢献型通販モール」をうたっています。
それまで関わりの薄かった家業を助けたいと思ったのはなぜでしょうか。実はコロナ禍が訪れる直前、手が足りないからと催事への出店を任されたことがありました。花恵さんがポスターを作ったところ、両親は「こんなのが作れるなんて!」と驚いていたといいます。
「大学で学んだデザインが生きたこと、それを両親に喜んでもらえたことがうれしかったんです。その経験が、在庫の山に困惑する両親を何とか助けたいという気持ちにつながったように思います」
WakeAiの販売ページには、コロナ禍で行き場のない在庫が山積みになっていること、店の経営がとても苦しいことを書き添えました。販売が進むにつれ、購入者からのコメントが届き始めます。ただ「おいしかった」という感想だけではありません。「100年以上続く老舗の味を守ってほしい」という声が思いのほか多く、花恵さんは驚いたといいます。
「実は、私はそれまでお店に出たこともなかったんです。お客様と話すのも照れくさくて、ご意見を直接聞くこともありませんでした。お客様が当店にどんな思いを寄せて下さっているのか、コメントで初めて知ったんです」
せっかくの老舗が消えてしまうのはもったいない、子どもの頃に食べた思い出の味です――。そんなメッセージに触れるうち、花恵さんの中で何かが変わっていきました。
「老舗の価値をお客様が教えてくれたんです。SNSなどを見て、久しぶりに買いに来たという方が、昔の思い出を話してくれたこともありました」
花恵さん自身、自分にとって思い出深いまんじゅうのお店が廃業して、悲しんだ経験があるそうです。お客様にとって、うちの店がそういう存在なら、頑張って続けるべきなんじゃないか――。次第にそう思うようになりました。
2021年1月、花恵さんは従業員として店に入りました。この時点で、4代目として店を継ぐ覚悟を決めていました。不動産業を続ける憲司さんにも手伝ってもらいながら、少しずつ改革に乗り出します。
事業を縮小していた会社には、改善点が山積みでした。花恵さんが最優先に据えたのが、情報発信とネット通販でした。公式サイトは何年も前に作ったまま。ネット通販も使い勝手が悪く、SNS運用は何もしていませんでした。
最初に公式サイトを整えました。それまでのデザインは安っぽい印象だったため、老舗にふさわしい雰囲気づくりを心がけたといいます。ネット通販の決済方法を増やすなど改善を重ねるうち、「買いやすくなった」という声も届きました。
次に取り組んだのがSNSでの情報発信です。ツイッター、インスタグラム、LINEに公式アカウントを開設。現在、主力であるツイッターは憲司さん、インスタグラムとLINEは外注のデザイナーさんが運用しています。
決算などの繁忙期が落ち着いた2021年8月、花恵さんは4代目の社長に就任します。父の寛さんは製造現場でサポートしてくれることになりました。
情報発信やネット通販で改善は、徐々に数字に表れ始めました。それまで1日に数十人だった公式サイトへの訪問者数も、倍近い日が増えてきたのです。
そして花恵さんは2021年9月、売上急回復のきっかけとなる、1枚のプレスリリースを書きます。
A4判1枚に、これまでの経緯と思いを詰め込みました。100年以上続く老舗であること、コロナ禍で店を閉じようとしていたこと、廃業させていいのか迷いが生じたこと、経営者の娘で専業主婦だった花恵さんが継いだこと、ネット通販の改革で購入者が増えていること――。
プレスリリースは名古屋市内の記者クラブに投げ込んだり、報道機関にメールしたりしました。「こういうプレスリリースを送りました。ぜひ取材して下さい」という電話での売り込みもしました。
すると、取材依頼が次々に届いたのです。不慣れだった取材を、花恵さんは1つずつ丁寧にこなしていきました。これが次の動きを呼び込むことになります。
テレビ番組や新聞・ネット記事で鯱もなかが紹介されると、公式サイトの訪問者数やSNSのフォロワー数が急激に増え始めました。同時にネット通販の注文数も伸び始めたのです。
「SNS経由で公式サイトにたどり着き、買い物をして下さる流れは以前からありましたが、その川幅が一気に増した感じです」
公式サイトの1日の訪問者数は、安定して100~200人を数え、ネットで話題になると1万を超える日も出てきました。
店が急に忙しくなったため、憲司さんも関わり方を変えました。それまで本業にしていた不動産業は、ある程度スタッフに任せ、店の業務を中心に動くことにしたのです。今では専務として、ツイッター運用のほか営業、経理、人事、配達など、1人で何役もこなしています。
SNS運用の中で、特に成果が出ているのがツイッターです。担当する憲司さんは、何を心がけてつぶやいているのでしょうか。
ツイッターでバズった一例が、本店内にイートインスペースを作る企画です。クラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」で資金を募りましたが、目標額の300万円にはなかなか届きませんでした。
募集終了の3日前、協力を呼びかける憲司さんのツイートをある人が引用し、「SHACHI(名古屋のご当地アイドルであるTEAM SHACHIのこと)の出番だとおもうんだ」とつぶやいてくれました。これにTEAM SHACHIのファンたちが呼応し、最終的に目標額を上回る360万円が集まりました。
さらにTEAM SHACHI側の目にもとまり、コラボ商品まで生まれました。仮に最初からコラボ商品があって、それを紹介するだけでは、ここまで盛り上がらなかっただろうと憲司さんは考えます。
「間をつなげてくれる方がいて、一緒に盛り上がれたり、思わぬ方向に展開したり。ツイッターの魅力は、そういう楽しさと自由さにあると感じます」
憲司さんは「中の人」として、「楽しみながらも丁寧に」を大切にしているといいます。鯱もなかを話題にしてくれたツイートには積極的にコメントしたり、リツイートしたり。発信する内容も、商品紹介ばかりではなく、失敗談など人間らしさの出るものを入れているそうです。
「とにかく楽しむことと、結果につなげることです。その喜びがないと、続かないですから」
花恵さんが社長に就いて、もうすぐ1年。コロナ禍前に比べ、一時は7割減となった売上も、ほぼ同水準まで盛り返してきました。
花恵さんは「怒濤(どとう)の日々でした」と振り返ります。定休日を新設しましたが、店は閉まっていても、仕事は山積みだそう。それでも喜びを感じる瞬間が多いといいます。
記事を読んで「子どもの頃の思い出の味だ」と久しぶりに買いに来てくれた人がいました。「この鯱の形がかっこいい。食べてみたい」と両親を連れて店を訪れた小学生もいました。店舗での対面でのふれあいに、花恵さんはネットとは別の良さを感じるといいます。2022年秋にはイートインスペースを開設予定です。
「販売量の7割を占める卸し先は大切にしつつ、観光で大須に来た方がひと息つける場所、地元のみなさんが気軽に立ち寄れる場所も必要だと感じています。訪れた方が共通の話題で盛り上がり、つながれるような場所になればいいなと」
花恵さんによると、できたてのもなかには、また違ったおいしさがあるといいます。自分が子どもの頃からなじんだ味を、みなさんにも体験していただきたい――。イートインスペースには、花恵さんのそんな思いも込められています。
2022年5月、ツイッターで「#和菓子離れ」がトレンド入りしました。元祖鯱もなか本店の公式アカウントも反応し、「和菓子離れが話題になっているので当事者として少しだけ」と切り出すと、廃業予定だったことや、ここ2年の歩みやできごとについてつぶやきました。
和菓子離れについて「たしかにそうなのかもしれません」としつつ、「届けることに死に物狂いで取り組んだ結果、和菓子屋の当店は今でも存続できています」「101歳の鯱もなかがまだまだ長生きできるように、これからも毎日元気に営業していこうと思います!」と一連のツイートにまとめました。最初のツイートは2.5万件の「いいね」を集めました。
コロナ禍という危機をきっかけに店に入り、社長を継いだ花恵さん。今では和菓子屋という仕事への印象も変わったといいます。
「和菓子屋って、ただお菓子を箱に詰めて売るだけの仕事じゃないんです。自宅用と贈答用、買う人にはそれぞれ思いがあって、自宅で待っている家族や贈答品として受け取った人にも喜んでもらえる。そこに関わることのできる和菓子屋の仕事ができて、今は幸せです」
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