創業70年を超え、関西を中心に菓子専門店とスーパーを多店舗展開。グループ全体の年商は140億円で、従業員数は850人(パートを含む)です。「呼吸チョコ」をはじめPB商品は200種類を超えます。
山田さんは幼少期から、父・邦男さんが管轄していたスーパーに出入りしていました。「当時はマルシゲや親の力を借りるのではなく、自分の力で生きていきたいと思っていました」
大学卒業後に入行したメガバンクで融資担当を務めました。「銀行の同期とは今もつながりがあります。実務的な作業を面倒に感じず多角的に分析する目線や、銀行内部の仕組みや考え方を得られたのが大きかったです」
「普段は寡黙な父が改まった場で切り出してきた話。お菓子や流通業界の今後を考えて、銀行の同期にも相談しながら悩み続けました」
山田さんは1カ月後、当時社長だった2代目の弘さんと面談。2012年5月、マルシゲに入社しました。創業者一族として入るため「社員からどう見られるかはかなり意識した」と振り返ります。
「普通の中途入社という生半可な気持ちでは迷惑がかかる。今まで以上にがむしゃらに仕事をしようと覚悟を決めました」
「現場」を学んで感じた課題
最初は大阪の地下街・なんばウォークの「マルシゲ」のスタッフからスタートしました。それまで接客経験がほぼなく、おつりを渡し忘れ、改めてお客さんの最寄り駅まで返しにいって謝罪したこともありました。「穏やかなご婦人だったこともあり、誠意が伝わったのでしょうか。逆に、その後も店舗に足を運んでくれたことは良い思い出です」
その後も各店舗で経験を積むうち、山田さんは店の売り場の空間づくりの重要さに気づきます。
出店場所は商店街と地下街が中心で、衝動買いをする客が多い傾向にあります。
いかに「おいしそう」と直感的に思わせるか。山田さんは商品の配置場所やディスプレーに気を配り、お客さんの入店後の行動にも注目します。
「どういう順番で視線が動き、なぜその商品を手に取ったのか、何となく入店した人が何を決め手にお菓子を買ったのかに、考えを巡らせるようになりました」
「正解は見つからなかった」と振り返りながらも、山田さんは店頭の什器に置くお菓子をあえて1~3種に絞り、目立たせるといったディスプレー作りを心がけます。ポップも文字ばかりにせず、特徴を三つまでに絞ってシンプルにしました。
商品カテゴリーの少なさにも課題を感じ、「焼き菓子や、現状の価格帯より少し高いお菓子などのレパートリーを増やそうと思いました」。
「呼吸チョコ」が大ヒット
山田さんは約3年間、店舗で経験を積んだ後、本社の外販事業部の立ち上げに関わり、土産屋や免税店などへの外販を担いました。
旅行客の人気を集めたのが、同社の看板商品「呼吸チョコ」です。1992年にティラミスチョコレートとして発売。デンマーク産のマスカルポーネチーズと米国産のアーモンドを原料に、職人が手作りしており、なめらかな触感と控えめの甘さが評判でした。
呼吸チョコという名前には、「家族や恋人、友達など『呼吸』の合う大切な方々と召し上がって頂き、『意気』投合していただきたい」という二つの意味が込められています。
山田さんの異動直前、関西空港で呼吸チョコの販売が始まり、外国人観光客の「爆買い」で飛ぶように売れました。「あまりの売れっぷりにさばききれなくなり、前職で営業経験があった私に白羽の矢が立ちました」
アーモンドバーで新規顧客を開拓
呼吸チョコは全国の空港や新幹線の駅に広がりましたが、山田さんは先行きに不安を覚えました。
「チョコの売り上げが落ちる夏でも売れる商品が欲しい、という思いがありました。呼吸チョコの一本足打法という状態にも危機感を抱き、もう一つ柱となる商品を開発しようと思いました」
同社は、せんべいやおかきを透明のパックに詰めて売るPB商品が多く、中身もまる見えで袋も大きいため、職場に持って行きづらいという欠点がありました。
そこで「東京・丸の内に勤める20~30代女性が、関西出張に行く先輩や上司に頼んで買って来てもらうお土産」をコンセプトに、山田さんが起案し、19年に発売を始めたのが、アーモンドバー「TEMAHIMAN」です。アーモンド、パンプキンシード、ココナツ、クランベリーを薄く糖蜜でかため、呼吸チョコとは異なる味わいや食感を作りました。
開発を始めてから約8カ月で発売に至りました。「デザインやコンセプトを含めて、本当にいいと感じた商品じゃないと消費者が手に取らない傾向になっています。これまでと違うアプローチで、コアなファンをつかむ必要がありました」
「TEMAHIMAN」の開発を機に、デザイナーやイラストレーターをはじめ、これまでのPB商品には関わってこなかった社内メンバーも参加しはじめました。開発にあたり意見が食い違う場面も多々あったため、うまく意見が着地できるよう、山田さんが折衝役として気を配ったといいます。
社内の反対を乗り越えて開発
「TEMAHIMAN」の開発には、社内からの反対もあったといいます。山田さんはパッケージにもこだわったため、デザイナーやイラストレーターを起用する必要がありました。
これまでとケタ違いの予算が必要で、2代目の弘さんからは「なんでこんなにかかるんや」と驚かれたといいます。山田さんは、弘さんに自身のビジョンや新商品がいずれマルシゲの未来につながることを伝えました。
「従来のやり方でも存続できるかもしれませんが、今のお客様に加え、新規のお客様を増やし続けなければ後退と変わりません。一日も早く新たな柱を作りたいという思いがありました」
山田さんは弘さんを祖父のように慕っており、「いつかは通じるはず」と何度もぶつかっていきました。「そのかわり、仕事は少しも手を抜かないことも心がけました。純粋に会社のことを思っている、という姿勢は仕事への取り組み方で伝わると信じていたからです」
そして弘さんの開発許可を取り付けて誕生した「TEMAHIMAN」は、コロナ禍の直撃を受けながらも、直近では売り上げが急伸しているそうです。
突然舞い込んだ代替わり
山田さんは23年8月、4代目社長に就任しました。代替わりの話は、弘さんから同年5月末に突然、持ち込まれました。
弘さんも、弘さんの息子の幸治さんもまだまだ現役でした。山田さんは事業承継はもう少し先と思っていただけに驚きましたが、「店舗にいたころから、従業員に楽しい雰囲気で働いてほしいと考えていました。人事や人材育成にはまだまだ取り組めていませんが、柔らかい雰囲気を心がけたいと思います」と決意を語ります。
弘さんらがカリスマのような存在だったこともあり、経営はトップダウン型の側面があったといいます。しかし、山田さんは「それでは自分から行動を起こさない人が増えてしまう」と心配しています。
リラックスできる職場環境を作ろうと、今後はオフィスのレイアウトを変え、観葉植物やフリースペースを設置していくそうです。
山田さんは新しい客層の開拓も進めるため、商店街だけでなく、主要駅に隣接した商業施設などへの出店を目指しています。
「高齢の方には今も『お菓子といえばマルシゲ』というイメージを持っていただいていますが、20代となるとガクッと下がると痛感しています。SNSの発信強化に加え、スーパー部門でも地域の認知度向上を目指しています」
制服の変更を改装の一歩に
最近は原材料高騰という荒波の中、マルシゲも商品を値上げせざるを得ませんでした。それでも山田さんは、ブランドが確立され、味や素材への信頼性が高いお菓子なら、ファンは離れないと見ています。
確固たるブランド力をつけるため、来店客の「優越感」をくすぐるような、おしゃれで今より少し高級志向の店舗を作ることも構想しています。70周年を節目に企業ロゴを一新、素材にこだわったお菓子シリーズ「MARUSHIGE SERIES」を開発するなどの取り組みもはじめました。
「店の外観や内観を変え、それに合わせて、何か付加価値がある菓子を作れば、『ちょっといいところで買い物をする』という気分を味わってもらえ、マルシゲのブランディングにつながる気がしています」
今後、店舗改装を進めるための第一歩として、店の制服を変更しました。これまで「白シャツあるいは白ポロシャツ着用と黒いエプロン」以外は規定がありませんでしたが、「企業ロゴをワンポイントでデザインしたTシャツ」、「ブラウンのエプロン」を支給し、企業PRと統一感を出しています。
「愛」を深める商品・出店戦略
山田さんは歴代社長が育てた従来の商品と客層も大事にしつつ、「もっと愛してもらいたい」と考えています。
「マルシゲといえば、お菓子を近所に配ったり、子どものおやつ用に出したりするために訪れるお客さまが多い。昔ながらの商品を愛するお客さまは、これからも大切な存在で、そういったお菓子も増やしていきたい」
23年4月には、大型商業施設「ららぽーと門真」内に出した店舗は、既存店と比べてレイアウトや品ぞろえを一新しました。この店を筆頭に、立地によって売り場のレイアウトや取扱商品を変えることも計画しています。
商店街では品ぞろえを広げつつ昔ながらのPB商品を主に扱い、若者が立ち寄る地下街では、新ブランドの商品を増やすといった戦略を考えています。「TEMAHIMAN」の第2弾も2024年2月発売予定で、観光客へのアプローチを強めるそうです。
「先代たちの苦労話や思いも耳にする機会も増えてきました。『絶対に存続させ、より大きく成長しなければいけない』という思いが年々強くなっています。まだまだ、始まったばかりです」