イースト菌がない当時、パンは固く、酸味があるものが中心でしたが、安兵衛と息子・英三郎はこれを日本人向けに改善しようと試みます。彼らは酒饅頭を作る時に使う酒種に着目し、1874(明治7)年にふっくら・しっとりとした生地のあんぱんを作り上げました。
「1875年(明治8)年、東京向島の水戸藩下屋敷を行幸された明治天皇ご夫妻が私たちの酒種桜あんぱんを召し上がり、“引き続き納めるように”と両陛下からお言葉をいただいたことから、多くの人に知られるようになったそうです」
「当時、パンにあんを入れるという発想は、独創的でした。以降も、美味しいパンを食べていただきたいという思いは強く、これまでに、ジャムパン、うぐいすパン、むしケーキなど、これまで日本になかったパンを生み出してきました」
木村屋が株式会社になったのは、1930(昭和5)年から。戦後は爆発的な人口増加とパン食の推奨により、「作れば売れる」という時代が長く続きます。
1965(昭和40)年には埼玉県に三芳工場、1967(昭和42)年には藤沢工場、1970年(昭和45)年に柏工場を新設するなど、拡大路線をとったのです。
28歳で7代目社長「喫緊の課題が怒濤のように」
経済が右肩上がりのときはよかったのですが、風向きが変わり始めたのは、1990年後半からです。
「少子高齢化や食の多様性などでパン業界全体の売り上げに陰りが見え始め、2000年代に入ると赤字になることもありました。私が継ぐ直前は、4期連続の赤字が続き、長期負債も150億円もあったのです。売上こそ160億~170億円はありましたが、毎月の経営資金が億単位で足りないことが続いていました」
やがて、経営は待ったなしという状態になり、当時の会長・木村信義さん(故人/木村光伯さんの父)の体調も悪化の一途をたどります。そこで白羽の矢が立ったのは、当時28歳の木村光伯さんだったのです。
「新卒で入社して以来、製造や商品開発部の仕事をしており、“いつかは会社を継ぐんだろうな”という気持ちではいたのです」
しかし、実際に自分の会社になると、危機的状況であることが身に迫ってきました。
「何より、目の前の資金繰りが危ない。社員に給料を払えない可能性があったり、仕入れ先への支払いも不安になったりすることも多く、ほかにも喫緊の課題が怒濤のように襲ってきたんです。当時、私は若造ですから、渦中にいてもなすすべもない。できるところから始めようと、経営のプロのアドバイスを得て、会社を立て直し始めました」
当時の木村さんは、150年の伝統がある老舗ののれんを自分がおろすわけにはいかない、という一心でした。立て直そうにも、肝心の老舗は疲れ、痛み切っていました。
立て直し支えた先輩経営者の助言と家族の「大丈夫よ」
立て直しは並大抵のことではありません。
「まずは、経営の大先輩方にアドバイスをいただきました。日本製粉の澤田浩会長から“自分の軸を持ちなさい”と言葉をかけていただきました。アサヒビールの故中條高徳さんは“お天道様は見てござる。正々堂々、身を慎んで進みなさい”とおっしゃっていました。これら言葉は、今も私の血肉となっています」
また、家族の言葉にも励まされました。
「僕が窮地に立ったと思っていても、母はその状況を客観的に見て“まだ大丈夫よ”と言い、当時交際していた現在の妻からは“会社がダメになったら、私が食べさせるから、あなたがやりたいように経営をすればいい”と励まされました」
母は経営者の妻として、父を支え続けただけに、言葉に重みがある。また現在医師として活躍する妻も胆力がある女性です。妻は大学在学中に医師の道を志し、医学部に編入。当時、医師国家試験に挑んでいたといいます。
「自分ではギリギリだと思っていたときに、身近な人から“大丈夫。まだいける!”と声をかけてもらうと、覚悟が決まり、“まだ大丈夫なんだ”と余裕が持てるんです。とはいえ、命がけでやるしかないと、当座の運転資金の調達のために、会社が保有していた不動産資産を売却したのです」
それは、ビル、工場、社員寮だけでなく、代々住み慣れた自宅も含まれていました。
リストラは「身を切られる思い」 マニュアル化に反省
「とにかく現金が必要でした。それに、無駄を徹底的に省かねばなりません。辛かったのは、工場の閉鎖です。そこで働く従業員をリストラしなければなりませんから……これは身を切られる思いがしました」
木村さんは学生時代のアルバイトも木村屋です。パン工場の職人さんたちに、あんぱんの作り方を教わり、ベテランの売り子さんから商品知識や販売を学びました。
「もう、リストラはしたくありません。そのために、強い会社を作らなければならない。そのために取り組んだのは、経営の効率化です。生産工程の見直しをし、パン製造のマニュアル化にも着手。かつては明文化したマニュアルがなく、職人の感覚を優先し、製造していたのですが、それでは人を育てるのに時間もかかってしまう。そこで、新人でも作れるように、工程、温度、分量などを数値化し、誰でもパンが作れる体制に移行したのです」
しかし、パンは生き物なので、どうしてもマニュアル通りにはならなかったそうです。
「発酵不足、焼きムラなどから、かえってロスが発生してしまいました。私自身、ベテランの職人さんから“パンと日々、向き合いなさい”と教えていただいたのに、“何とか立て直さなくては”という気持ちから、それが抜け落ちてしまったのです。加えて、人も育ちにくくなくなり、現場の雰囲気もぎすぎすしてしまいました」
この経験から、“ものづくりは人だ”と痛感し、考え方を変えます。マニュアルと並行して、職人さんの技術や感覚を生かすような体制に整えていったのです。
経営の合理化で黒字化は達成したものの……
木村屋の事業は、百貨店などで酒種あんぱんなどを販売している「直営事業」と、袋パンや菓子パンを販売する「スーパー・コンビニ向け事業」の2本柱です。売上全体の約80%を占める流通事業についても合理化を進めます。
「スーパー・コンビニ向け事業では、前日までに受注した商品を、翌日の決められた時間までに発注先の店舗に届けます。ロスを防ぐためにも、まずは品数を絞り込むことから着手しました」
木村屋は約40年間、毎月20種類以上もの新商品を発売しており、ピーク時には2500種類以上のパンを作っていました。これを、利益率や“木村屋らしさ”を検討し、半数近くまで削減。製造ラインの効率化につなげていきました。
それと同時進行で、工場を整理し、原材料費と労務費の見直しもすすめます。また、業務管理、人事管理、収益管理などオフィス部門での経営効率化も進めて行ったのです。
「数年で黒字化させ、組織の仕組みを整えることはできました。一息ついて周囲を見ると、かつてあった活気というか、社員が同じ方向に向かうという意識が薄れてていることに気付いた。経営の合理化に伴走するうちに社員が疲弊してしまっていたんです」
「あんぱん1個の値段は地下鉄の初乗りと同じ」
このとき、木村さんの脳裏をよぎったのは、幼い頃に満ちていた会社の活気です。街に「キムラヤ」のトラックが行き交い、お店に人があふれていたあの頃、働く人の顔はいきいきとしていた。
それを取り戻したいと決意し、2013年グロービス経営大学院への入学を決意します。
「当時、36歳でした。経営者として先頭に立ち続けながら、研究とレポートに明け暮れる3年間を過ごしたのです。朝から仕事をして、夕方から学校に行き、深夜までレポートという毎日が続きました。椅子に座ると寝てしまうので、リビングのテーブルに箱を置き、その上にPCを乗せ、立って論文を書いていたのです」
妻も子供たちも、そんな木村さんを応援し、無事に卒業。経営大学院での学びで気づいたことは、社員一人ひとりがやりがいを感じられる会社を作るために、何をすればいいかということ。
「そこで原点に立ち戻りました。父がよく語っていた“うちはパン屋だ”という言葉について、考えを深めていったのです。加えて、創業期から我が家に浸透している考え方を明文化していくことに。木村屋は、パンを日本人の生活に浸透させてきました。そのために先祖たちが何をしたのか……そこをひもといていくと、さまざまな考え方が残っていることに気付いたのです」
そのひとつが、「あんぱん1個の値段は、地下鉄の初乗りと同じ」です。これは、毎日食べられるように、手が届く範囲での価格設定をという木村屋らしい考え方です。
もうひとつは明治時代に言われていた「多摩川を越えて商売をしてはならぬ」という考え方です。当時は物流が発達していません。川を超えると、目が抜けるところが増えてしまう。自分たちの目の届くところで商売をしなさいという教えです。
「パンは食べ物です。お客様の健康に深く関わっています。鮮度やおいしさへの意識も強く、“お冷や(冷めたパン)を出さないように”という言葉もあったのです」
マニュアル化できない部分が多い仕事だからこそ
その後、木村さんはじめとする経営陣は、社員に向けて意見交換会やワークショップを実施。製造や販売の現場で、“木村屋に生きている理念”を洗い出していき、社員と意識をひとつにしていきます。そして、「中・長期的な会社の在り方を考え、今なにをすべきか」という視点から、『キムラヤスタンダード』という行動指針を作成します。
「『キムラヤスタンダード』には、おいしいパンを提供し正しい利益を得るために、品質、開発・販売、行動、それぞれの考え方が書かれています。これを社員は常に携帯し常に確認するのです。マニュアル化できない部分が多い仕事だからこそ、個人の考え方と判断が大切です。ほかにも、社員のコミュニケーションの機会を意図的に増やしています。チームでのミーティング、成功事例の共有、技術や考え方のブラッシュアップを定期的に行い“仕事はチームで行っている”という感覚を共有しています」
これにより、会社への帰属意識も高まり、それが業績向上に結びついていきます。離職率も下がり、言葉で意識を共有することの大切さを感じているそうです。
「“軸を定める”ということは、想像以上に意味があります。味の“軸”については、私も父に倣い、出社したらあんぱんを食べます。パンの焼き加減、生地の舌触り、風味など味を細かくみて、ささいなことも見逃しません。大切なのは、パン1個と向き合うこと。事業計画や、経営戦略はその次の話なのかもしれません」
磨き続けた技術から生まれる新商品・新ショップ
肝心のパンを作るのは、木村屋が育ててきた職人さんたちです。彼らがその日の気温や湿度で変わる原料の状態を見極め、焼き具合など加減して、感覚で確かめながら焼いていく。それを150年以上続けながら、革新的な商品を生み出してきたから、現在があるのです。
「磨き続けている技術があり、時代の変化を読み取れるからこそ、これまでもイノベーティブな商品を生み出すことができたのだと感じています。最近のヒットは、日清食品とコラボした『完全メシ あんぱん』です。伝統のおいしさそのままに、これひとつで33種類の栄養素がバランスよく摂れるあんぱんです」
「これから重視しているのは、健康です。私たちの先々代は、“健康と味覚の楽しみに貢献する”といつも言っていました。そもそも、パン食が普及したのは、明治時代の国民病だった脚気(かっけ)の治療にパンが貢献したことがあるんです」
現在は、肥満や高血圧など生活習慣病が問題です。ひとたび発症してしまうと、食事制限が避けられない場合もあります。
「低糖質、低脂質など、おいしくて健康に貢献するパンを、常に模索しています。加えて“時短メシ”の需要も高まっていると感じます。また、食のエンターテイメント化も注目する要素です」
木村屋は2020年から、山の手線のエキナカに「パンと食材のペアリングを楽しむベーカリー」をコンセプトにした、新形態ショップ『キムラスタンド』を展開中。イエローをベースとした、どこかレトロな佇まいは、純喫茶を思わせます。遠くからも目立ち、鮮やかなサンドイッチの断面に引き寄せられる人も多いそうです。
「フルーツサンド、ハムカツサンドや卵サンドなど、手軽に食べられて満足する商品を揃えています。20~30代の方を中心に支持されています。
「おいしさは喜び」で150年
木村屋は、150年間、私たちの食卓にパンを浸透させ、健康や団らんに貢献してきました。「おいしいさは、喜びであり、命を繋ぐ糧でもあります」と語る木村さんは、老舗ののれんを土俵際で守り切り、奇跡的なV復回復を成し遂げました。
「作ったものはその日で売り切ります」という木村屋の酒種あんぱんを手に取ると、ほんのり温かい。明治、大正、昭和、平成と続いたこのぬくもりを守った木村さんは、令和に新たなパン食文化を創造したいと続けます。その背中を押しているのは、古今のパン職人たちのものづくりの魂かもしれません。