ラポージェは姉妹の母・白石末子さんが、大病の影響で動かしにくくなった手のリハビリのため、30代で和裁を学んで起業しました。10代から和裁を学ぶ学生が、そのまま講師から仕事を請け負う徒弟制度に違和感を覚え、独立を決意したといいます。
1990年に現在の場所に工場を建設して法人化。高い技術力で着物のナショナルチェーンなどに取引先を広げています。2024年5月時点の社員は20人、年商は9500万円です。
1980年代後半ごろ、製造業は安い労働力を求めて海外に進出。末子さんは高卒の新入社員採用を機に、一人の職人が全工程を手縫いで進めていた着物づくりの分業化を進めました。
「母は初心者も熟練者もできるように、手縫いの工程を15分割する分業制にしました。海外との競争力を高めるため、ミシンによる着物づくりにも挑みました」(小百合さん)
短大で被服を学んだ麻祐さんは「『ミシンは縫い目が汚くなる』というのが伝統的な着物づくりの定説でした。ミシンは曲線が多く立体的な洋服づくりに最適化されており、生地をずらさずに真っすぐ縫う着物づくりは難しかったのです」と説明します。
多くの着物は顧客が反物を選び、体の寸法に合わせたオーダーメイドでつくられます。反物は繊細な図柄も多く、糸1本分の縫い目のずれが品質に大きく影響することもありました。
末子さんは和裁専用ミシンの開発をメーカーに相談しますが、相手にされなかったといいます。そこで付き合いのあったファスナーメーカーのエンジニアをスカウトして自社開発に挑み、着物づくりに特化した「マークレスシーマ」という機械を生み出しました。
「通常のミシンで起きる生地のずれやパッカリング(しわ)を防ぐため、ミシンの押さえ金と送り歯を無くすことで、生地をずらさずに縫えるようにしました。従来はコテで印を付けた生地を動かしながら縫っていましたが、マークレスシーマは顧客ごとの寸法を事前に入力し、一枚一枚に対応した縫い方をプログラミングしています。生地ではなく機械を動かして縫う仕組みです」(麻祐さん)
ラポージェは分業制と機械化を強みに、正絹(しょうけん)仕立ての高級着物の生産数を、1日70枚にまで高めました。
先に家業に入ったのは、妹の麻祐さんです。ファッションが好きでアパレル会社のパタンナーになりましたが、25歳のとき、母から「戻ってきてほしい」と言われ、1999年に入社しました。
その1年半後に入社したのが、姉の小百合さんです。「着物は大好きでしたが家業は嫌いでした」。京都の呉服問屋へ就職し、結婚で故郷に戻りましたが「離婚してシングルマザーとなり、家計を担うため家業に入社しました」。
麻祐さんは反物の受け入れを、小百合さんは事務作業を担い、家業の理解を深めました。
機械の勝機はカーテンにあり
2000年代、経済の低迷やライフスタイルの変化で、着物の仕立て事業は下降傾向でした。姉妹の入社当時は3カ所あった工場も、1カ所に集約しました。
同業他社に自社開発機械の販売を試みますが、まるで売れなかったといいます。機械は1台100万円ほどかかるうえ、分業化を進めたラポージェが開発したため、一人の職人が全工程を担う他社のニーズに合わなかったのです。
販路は意外なところにありました。ミシンショーへの出展で、カーテン業界が興味を持ったのです。「柄がずれないよう、まっすぐ縫うことが求められるカーテンづくりとの親和性がありました」(麻祐さん)
カーテンにも既製品とオーダーメイドがあります。特に建物の窓の寸法に合わせた「オーダーカーテン」は、カーテンを下げた時にプリーツ(ひだ)がきれいに見えることが評価されます。従来は高圧真空釜を使った熱処理で、先にプリーツの形を付けてから縫製しており、まっすぐ縫い合わせるには熟練の技術が必要でした。
ラポージェは着物づくりの強みを生かし、縫製後に乾熱式熱処理でプリーツを付ける機能を備えた「プリーツフォーマー」という機械を開発。飛ぶように売れ、今ではオーダーカーテンづくりにおいて全国シェア8割を占めているといいます。
働き方もオーダーメイドに
姉妹は2017年、母から突然「引退したい」と告げられ、小百合さんが社長、麻祐さんが副社長に就任しました。「その少し前に父が亡くなり、母を支えていたものが無くなったからかもしれません」(小百合さん)
ラポージェは社員20人のうち19人が女性で、平均年齢は55歳。勤続年数30年超の社員も多くいます。姉妹が就任前から、家庭の事情やライフステージに合わせた柔軟な勤務体制づくりを進めていました。
姉妹は「『女性も自立した職業人であるべき』と繰り返す母の背中を見て育ちました。キャリアも家庭もあきらめないためのサポートこそが、ラポージェの存在意義と考えています」と言います。
勤務時間を調整したり、社内に託児所を設けたり。「社員→パート→社員」と立場を変化させた社員や、一時はパートの管理職もいたといいます。
現在の最年少は、新卒で入社した聴覚に障害を抱える30代の社員です。中学の時、ラポージェの職業体験への参加をきっかけに入社を希望しました。
面接を担当した麻祐さんは、こう振り返ります。
「支援学校の先生には『特別扱いはできませんが、大丈夫ですか』と伝えました。入社にあたって用意したのは、社員が彼女を呼んでいることを示すランプを準備したくらい。他の社員たちはスムーズに受け入れてくれました」
「そもそも自分たちの働き方がオーダーメイドなので、『誰かが特別扱いされている』という意識がないんですね。基本的な就業時間や規則はありますが、事情に合わせた働き方ができればいいのです」
「ゆかた作り体験」を事業の柱に
コロナ禍では好調だった機械販売が落ち込み、呉服店やデパートの休業で仕立ての注文も無くなりました。全体の売り上げは2割減ったそうです。
ラポージェは機能性の高いマスクを縫い、ユーチューブで公開すると、自治体などから注文が寄せられました。仕立て担当の社員たちも販売も手がけることで、新規事業を作るマインドが育ちます。最終的にたどり着いたのが、産業観光でした。
姉妹は承継したころから、新たな事業の柱として浴衣づくりの体験教室を考えていました。工場を見学しながらオーダーメイドの浴衣や小物をつくってもらう構想です。
コロナ禍前に金融機関に相談すると、「産業観光? 新規事業はそんなに甘いものじゃない」と、逆に着物づくりのさらなる機械化や省人化を勧められたといいます。
しかし、それは「女性が職業人として幸せに働ける場」というラポージェの存在意義に反するため、産業観光を作る決意を新たにしました。
姉妹は、中小企業を支援する氷見市ビジネスサポートセンターに相談。着物作り体験の様子が分かる動画づくりをアドバイスされ、企画しました。すると動画を見た、とやま観光推進機構からコロナ後を見据えた観光キャンペーンへの参加を持ちかけられたのです。
機構の協力を得て、2020年11月、浴衣を自分で縫って持ち帰れる6時間の「myゆかた作り体験ツアー」を始めました。
「参加費は1万5千円(当時)で、他のツアーに比べても高く、機構の方と『10人ぐらいは参加するだろうか』と話していました。ところがふたを開けると、180人も参加したのです」(麻祐さん)
工場見学が刺激した職人魂
一般参加者が工場内に足を踏み入れることに、社員からは反発の声も出たそうです。
「でも参加者を迎えると、社員たちは工程を上手に説明したり、つくり方を教えたりしました。『受け入れるからには、中途半端な仕事はできない』と、職人魂が刺激されたのかもしれません」(麻祐さん)
現在は、参加者のニーズを受け、着付けや配達がセットになったプランを備えました。ツアーにはこれまで延べ290人が参加し、参加者から仕立ての注文が来たこともあったといいます。2024年4月にはシンガポールの企業が社員旅行として訪ね、作った浴衣を着て食事会を開きました。
仕立屋の意地で生まれた新商品
姉妹は「産業観光を通じて仕立屋のことを知ってほしい」という強い思いがあります。背景には産業観光を始めたころの苦い経験がありました。
「ある取引先から、洋服の写真と生地を渡され『このイメージで和装の商品ができないか』と言われました。妹がパターンをひいて提案し、商品化されましたが、そのデザインは取引先が考えたことにされたのです。妹やラポージェの名は一切出ずデザイン料も支払われませんでした」
小百合さんは「仕立屋がないがしろにされている」と悔しくてたまりませんでした。存在感を高めようと、応援購入サービスサイト「マクアケ」に「仕立屋でも、自社商品を目にしてもらえる場があるのでしょうか」とメールを送ります。
マクアケからは「自社開発の商品はありますか」と前向きな返信がありました。再び麻祐さんが知恵を絞り、かつて母が、祖母の通院用に考案した着物を現代向けにブラッシュアップして提案しました。それが、デニム生地でスナップやファスナーが付いて着脱しやすい「denimアウターきもの」です。
2021年11月にマクアケに掲載されると、出品2日目で目標金額50万円をクリアし、1カ月で220万円を達成しました。
「マクアケには男性用も作るようにアドバイスをいただき、BtoCの販売ルートが無かった私たちの大きな力になりました。氷見市ビジネスサポートセンターが、SNS発信などの相談に乗ってくれたのもありがたかったです」(小百合さん)
続けられる経営を目指して
社長の小百合さんは今、物流2024年問題や人材確保が課題と受け止めています。「地方のものづくり企業にとって、都市部への物流で時間がかかったり、値段が上がったりするのは痛手で、人材確保は急務です」
強みの着物づくりを核に、既成概念を打ち破ってきたラポージェを担う姉妹は、こう力を込めます。
「明日ですら同じことを続けられる保証はありません。時代やマーケットの変化に合わせ、目の前の仕事の規模や形態、社員の働き方を柔軟に変化させ、『続けられる経営』を目指していきます」