栽培面積を3倍に拡大
宇和海を見下ろす山の斜面に広がるニノファームは、2.5ヘクタールの畑で温州みかんやブラッドオレンジ、ポンカンなど15品種を栽培しています。みかんの収穫量は年間70~80トン。半分をJAに納め、残りは自社サイトを通じて個人客に送っています。
愛媛のみかんは日当たりの良い山の斜面で栽培され、傾斜のおかげで水はけのよい土が糖度を上げるといいます。中でも宇和島市はみかんの多品種栽培が多いのが特徴です。
「南予地方(愛媛県南部)はのんびりした人が多いんです。大勢が短期間で一気に収穫するより、家族で半年かけて少しずつ収穫する多品種栽培が、地域の気質に合ったのでしょう」と二宮さんは言います。
みかんはほとんどの種類が授粉や袋がけといった作業の必要がなく、果物の中でも比較的手間がかからないといいます。だからといって放置しては良いみかんは取れません。
一つの畑からの収穫量を増やすには、肥料はもちろん木の樹齢や木の間隔を踏まえた植栽本数の影響が大きいといいます。さらに農薬の種類や散布方法、摘果や枝の剪定にも工夫が必要です。また、糖度を0.5度上げればみかん1個の価格も上がるといいます。
2008年に家業に入った二宮さんは、家族経営にもかかわらず2024年までに畑の規模を3倍、売り上げを約5倍にまで伸ばしました。
祖父の死をきっかけにUターン
ニノファームのルーツは祖父の代からのみかん農家です。二宮さんは最初、後を継ぐ意思がなく、地元の高校の電子科を卒業後、京都府内で働いていた姉を頼り、小さなアパレル会社で9年ほど働きました。「服が好きだったので飛び込みました」
「何でも挑戦」という社長のもと、二宮さんは企画からデザイン、縫製、販売まで何でもこなします。24歳で店長を任されるなど順風満帆でしたが、どこかで「長くやる仕事ではない」とも感じていたそうです。
祖父が亡くなったのはそのころでした。悲しみに暮れる父の背中を見て、「父が亡くなれば家も畑もなくなってしまう」という思いがわきました。
「当たり前のことなのに、それまで考えてもみませんでした。2人の姉は県外に住んでおり、長男の私が帰らないと何もかも無くなると感じました」
「いずれは宇和島に」とぼんやり思いましたが、それから2年ほどして、会社員としてのキャリアに迷いを感じました。「宇和島で商売をしたい」と、農家を継ぐことにしたのです。
家族はUターンに賛成でしたが、父からは農家を継ぐことを反対されます。自然相手の厳しさを知っているがゆえの思いやりでした。それでも話し合いを重ね、了承を得た二宮さんは2008年、28歳で故郷に戻りました。
アパレル経験を生かして販路拡大
父や農協の技術指導専門員からみかん栽培のノウハウを学びながら、二宮さんは畑の拡大に注力します。知人に頼んで周辺の耕作放棄地を借り、約5年かけて、0.8ヘクタールほどだった畑を3倍の2.5ヘクタールに広げました。
就農6カ月後に「ニノファーム」を立ち上げた二宮さんは、アパレル会社で培った企画から製造、販売まで手がける手法を、みかん農家としても生かしました。
当時、東京でデザイナーをしていた姉の協力で自社サイトを構築。個人宅へのみかんの配送を始めました。祖父や父は全量をJAに納めていたため、大きな改革です。「アパレル時代は、考えて作って売ることをずっとやっていたので、みかんも自分で作る品種も決めて売りたかった」
都会の人の目を引くカタログや箱のデザインも、姉がほとんど無償で請け負ってくれました。二宮さんは農家然としたロゴより、アパレルのようなポップさを求めたそうです。少しずつリピーターも増え、口コミで新規顧客へと広がっていきました。
「都会の人に愛媛みかんを知ってもらい、価値を感じてほしかった。京都の友人のほか、東京と静岡に住んでいた姉たちの知人も紹介してもらいました」
宇和島でも顧客に直接販売するみかん農家は増えています。それでもニノファームのように、半数を個人客向けに販売しているケースはほとんどないといいます。
農家が販売まで手がける場合、大きな壁となるのは顧客との電話やメールでのやり取り、商品の値付けや配送などの作業です。二宮さんがそれらを一人でこなせるのは、アパレル会社で培った経験のおかげです。
「ブランドのファンになってもらえるよう、受注時の対応を丁寧にしたり、毎年デザインを変えたカタログを配ったりするところが、アパレルとの共通点かなと思います」
農家仲間から教わった経営
二宮さんは、一足先に農業を始めた地元の同級生や後輩に経営を教わりました。「彼らの話は刺激的で励みになりました」
ニノファームでみかん販売だけでなく、みかんジュースを扱うようになったのも、同世代の農業仲間のアイデアです。
就農した15年ほど前は、現在ほどみかんの相場も安定していませんでした。不安定な農業にあえて飛び込んだ仲間たちは「人と同じことをやっては食べていけない」という気概に満ち、自分なりの経営方針を持っていました。
「この品種は将来性があるから植えた方が良い」、「こういう売り方でやると値段が上がる」という仲間たちのアドバイスは大きかったといいます。
NPOで「柑橘ソムリエ」を開始
後継ぎ仲間のネットワークを広げた二宮さんは就農から5年ほど経ったころ、産地全体をもり立てることを考え始めます。仕事や技術を覚えて経営も安定し、ふと周囲を見ると、農業に見切りをつける人や耕作放棄地の増加に気づいたのです。
宇和島市によると、温州みかんの栽培事業者は、2015年の1214経営体から、2020年は1006経営体に減っています。
「自分の畑ばかりではなく、宇和島全体を底上げしないと、みかん産業自体がだめになるという危機感を覚えました」
そんなある日、農家仲間や行政関係者らと話す機会があり、松山市でコーヒー店を営む人が「最近は『〇〇ソムリエ』がはやっている。愛媛は『柑橘ソムリエ』が面白いんじゃないか」と口にしたのです。
何げない一言をきっかけに、2015年1月、二宮さんらはNPO法人「柑橘ソムリエ愛媛」を設立しました。メンバーは宇和島の農家や異業種で構成する20人で、現在は二宮さんが理事長を務めます。
柑橘ソムリエ愛媛の目的は、かんきつ類を通じて愛媛の観光や文化、人材交流を広めることです。ミカンジュースが出る蛇口があるマルシェや、学校でかんきつに関するミニ講座などを開いています。
中でもユニークなのは、2020年秋から始めた「柑橘ソムリエライセンス制度」です。
かんきつのおいしさや特徴などを学んでもらうため、独自のガイドラインを作成。学科では、かんきつの分類、品種、流通、生産などの基礎知識をテキストに沿って伝えます。実技では果実やジュースを用いて、目利きや味覚、表現を実践します。
受講者は2日間の講習を受け、試験に合格すれば「柑橘ソムリエ」のライセンスが発行されます。
「ソムリエ」の活動は関東にも
取り組みを始めて5年。2024年9月までに156人の柑橘ソムリエが生まれました。20~40代が多く、職業は農家やバイヤー、加工業などかんきつ関係の従事者が6割を占めます。
例えば、スーパーのバイヤーなら「ソムリエセレクト」というポップを掲げて販売するなどして「柑橘ソムリエ」を活用しています。
2024年11月には第9期の講習会を、かんきつの産地・神奈川県平塚市で開催。これまでの開催地は宇和島をはじめ、鹿児島県や和歌山県などでしたが、今回は初の関東です。9月末に募集を始めたところ、わずか10分で25人の定員に達しました。
「前から関東圏からのライセンス希望者は多かったのですが、いよいよ認知が広まってきました」
半農半漁からの脱却
二宮さんの住む宇和島市白浜地区の農家の多くは、昔から真珠養殖、ちりめんじゃこやサザエを取るなどの半農半漁で生計を立てていました。祖父も父も半農半漁で、みかん畑が小さくてもやれていたといいます。
しかし、二宮さんは漁業には手を出しませんでした。漁業の場合、同じ地区の知り合い同士で、一つの魚の群れを取り合う可能性もあります。「知り合いともめるのは苦手。一人勝ちより、みんなで勝つのが好きなんです」
「柑橘ソムリエ愛媛」を立ち上げた目的も、みんなで勝つことでした。競争激化で足の引っ張り合いになれば、隣の畑が荒れていても無関心になる恐れもあります。それでは地域のみかん産業が衰退しかねません。
地域の産業が盛り上がれば、将来、みかん栽培に従事したいという子どもたちも増えると、二宮さんは考えています。「ニノファームの経営と同じくらい、地場産業に貢献したい気持ちが強いです」
現在はみかん相場が落ち着いたうえ、温暖化の影響からか特産のちりめんじゃこの漁獲量が減ったことで、半農半漁の多かった白浜地区もみかん栽培に集中する農家が増えているといいます。
農業体験の機会を提供
ニノファームでは10年ほど前から、みかんの収穫や商品の出荷で忙しくなる冬にアルバイト希望者を受け入れています。二宮さんは近所のゲストハウスを借り、アルバイトの宿泊先を用意しました。
大学生のほか、農業体験を希望する社会人も来ており、みかん栽培の技術や考え方を伝えています。
産地や農家とつながりたい人が地元にも遠方にも多く、二宮さんは申し出があれば基本的に受け入れています。それがきっかけで一緒にイベントをしたり、移住につながったりもしています。
県外で開く「宇和島フェア」にも参加し、ワークショップではジュースのテイスティングや生果の食べ比べなどで、多様なみかんに親しんでもらっています。
みかんで故郷を盛り上げる
地域の枠を超えて産地全体をもり立てる二宮さんの活動は、家業の経営にもプラスになっています。
例えば、以前はわずかだったジュースの出荷が、柑橘ソムリエの活動を通じて増えているそうです。こうした取り組みが実り、栽培面積も売り上げも急伸しました。
「海と山に囲まれた故郷で地場産業のみかんに携わり、帰ってきて良かったとしみじみ思います。おこがましいかもしれませんが、みかん産業を通じて地元を盛り上げていきたいです」