目次

  1. 実家の隣が自動車学校
  2. 「敷かれたレールに乗りたくない」「では何をしたいのか」
  3. アナログな自動車学校の予約システムを改善
  4. 「野球は未経験」の野球部部長
  5. 教習以外の事業の柱を作る 
  6. 自分のために働くことで会社や地域をよくしていく

 1973年創業の宮崎梅田学園は、梅田さんの祖父と父が「これからは自動車の時代」と、パチンコ店経営で得た資金を元手に創業しました。モータリゼーションの波に乗り、宮崎県内で事業を拡大。宮崎で「“梅田”へ行く」と言うと、大阪の梅田ではなく「免許取得のために宮崎梅田学園へ通学する」ことを指すほどメジャーな存在になりました。2024年12月末時点で7校の自動車学校と1軒のホテルを運営し、社員数は180人、年商は約13億円です。

1970年代の宮崎梅田学園。後列左が祖父、後列右から3番目が父(宮崎梅田学園提供)

 梅田さんにとって、子どものころから家業は身近な存在でした。

 「実家の隣が自動車学校で、父は教習指導を、母は経理を担当していました。父の同僚たちが、仕事の合間に私や2歳下の妹と遊んでくれたのを覚えています」

 梅田さんの祖父や父たちは、昭和の好景気のさなかに宮崎県内でホテルや温泉施設の運営など、経営を多角化していきました。梅田さんは中学高校と地元のカトリック系男子校で学び、東京の私立大学に進学しました。ところが、入学から3日で大学へ行かなくなってしまいました。

 「内部進学生が大半を占める大学の雰囲気になじめませんでした。ちょうど自分が太宰治や坂口安吾の文学作品にはまった時期とも重なり、自宅で本を読みふける日々が続きました」

 「このままではいけない」と、梅田さんは再度大学受験の勉強に励み、早稲田大学への入学を果たすとインドア生活が一変しました。飲食店のアルバイトや学生生活に熱中するあまり、4年次に留年を選択。「宮崎に戻り自動車学校を継ぐ」という父が敷いたレールに反発しつつも、やりたいことが定まらないまま取得単位を残したといいます。

 「家業を継ぎたくないけれど就職活動もしない、という私にしびれを切らした父が上京してきました。『いったい何がしたいのか』と聞く父に、『東京にいたい』と答えるしかありませんでした」

 そこで父から提案されたのが、東京の自動車学校への就職でした。梅田さんは25歳で、父が懇意にしている東京の大手ドライビングスクールに就職しました。

 「教習指導員の仕事は、実際にやってみると非常に楽しいものでした。単なる食わず嫌いだったのかと感じましたね。一方実家では、バブル崩壊後に温泉施設を閉鎖して多額の負債を抱えていたのが、自動車学校に経営資源を集中させて、ようやく事業が持ち直してきたところでした」

 帰省するたびにベテラン社員から、「社長(父)は頑張っていますよ。そろそろ戻ってきたらどうですか」と声をかけられていた梅田さん。「父の後を継ぐ」と覚悟を決め、2003年に28歳で家業へ入社しました。

 梅田さんは業務課長として、東京のドライビングスクールでのキャリアを生かして教習指導を担当しました。

 「うち(宮崎梅田学園)の教習スタイルが、東京のドライビングスクールとあまりにも違うので驚きました。違いは大きく2つです。ひとつは接遇。東京のドライビングスクールでは、指導員が生徒と一定の距離を保ちつつ敬語で接するのに対して、うちは距離が近すぎるというか、指導員と生徒が友達のような感じでした」

宮崎梅田学園の教習コース(宮崎梅田学園提供)

 もうひとつは、教習時の指導員の割り振りと配車システムでした。

 「うちが採用していたのは、一人の生徒を一人の指導員が卒業まで指導する『担当制』でした。東京のドライビングスクールでは毎回指導員が変わる『随時制』だったので、違いに驚きましたね。もちろんそれぞれにメリットとデメリットがありました」

 担当制の場合、教習ごとに指導員の割り振りや配車をする必要がありません。ただし宮崎梅田学園では、繁忙期には一人の指導員が何十人もの生徒を担当するために、指導員が休日を取れない状況が慢性化していました。

 「さらにうちは、教習の予約システムがアナログでした。生徒が入校すると、教習数と同じ枚数のチケットのようなシールを渡します。毎月自動車学校の一角に、全指導員の名前が書かれた予約カレンダーが貼り出され、生徒は自分の担当指導員の予約カレンダーの、教習を受けたい時間帯にシールを貼って予約する仕組みでした」

 生徒どうしの予約が重複した場合は、会社ではなく指導員が自身の裁量でやりくりして、生徒の教習予約を管理していたといいます。会社にとっては予約管理をする必要がない反面、指導員の負荷状況や生徒の教習の進捗が把握しにくくなっていました。

 「指導員や生徒の状況がブラックボックスとなり、『私の担当指導員は〇〇さんの予約ばかり優先して、私はいつまで経っても教習が受けられない』といったクレームが、問題が大きくなってから会社に寄せられるケースが多発していました。そのたびに社長である父自身が、火消しにまわる状態でした」

 当時は5校の自動車学校を運営していた宮崎梅田学園。梅田さんは父を説得し、本部で一括管理できる予約システムの導入を実施するとともに、指導員の割り振りを担当制から随時制に変更しました。2010年のことです。

 「数千万円規模の投資だったうえに、慣れ親しんだアナログシステムからの変更に対して、父やベテラン指導員たちからは難色を示されました。でも導入してみると、指導員は管理の負担が減っただけでなく、休日を取得しやすくなりました。会社にとっても、指導員の負荷状況が一目で把握でき、トラブルを未然に防げるようになりました。何よりも、生徒の満足度向上につながったのです」

 話は前後します。2003年に入社した梅田さんが仕事に慣れてきたころ、宮崎梅田学園では硬式野球部を設立することになりました。2006年のことです。

宮崎梅田学園の硬式野球部(宮崎梅田学園提供)

 「とある社会人硬式野球チームが宮崎でキャンプを実施したご縁で、『宮崎にも硬式のクラブチームがあるといいね』という話が持ち上がり、元高校球児の父に声がかかりました。うちには野球好きの社員による草野球チームはありましたが、軟式でした。当時の宮崎県内には硬式野球のクラブチームや野球連盟がなかったのです。父から『うちのチームを硬式にして、野球連盟をつくろうと思うんだけど』と告げられた時には冗談かと思いました」

 父は本気でした。さらに、野球はほぼ未経験の梅田さんを、選手たちを束ねる部長に任命したのです。

 「大企業ならともかく、うちのような中小企業が硬式のクラブチームを持つことに対するイメージがわきませんでした。父はいわゆる“ヤカンたぎり”(熱しやすく冷めやすい)なうえに、義理人情を重んじる性格です。どうせすぐ飽きるだろうと思いながら、軽い気持ちで部長を引き受けました」

 ところが初試合後に、梅田さんにもやる気スイッチが入りました。

 「宮崎で春季合宿をしていた東京大学の硬式野球部と練習試合をしました。今考えると失礼な話なのですが、『東大相手なら楽勝だろう』と思っていたところ、結果は0対26で惨敗でした」

 衝撃を受けた父と梅田さんは、「チームを強くしたい」「やるしかない」と決意。宮崎県内の野球関係者に声をかけ、野球部員を次々とスカウトしていきました。通常は教習指導員や送迎バスの運転などをしながら好きな野球も続けられるという、宮崎梅田学園の “二刀流”が徐々に評判を呼ぶと、会社経営にも思わぬ効果が表れたといいます。

 「社員の採用に困らなくなりました。プロ野球入りを目指したり、社会人野球を希望したりする選手たちが、毎年20~30人ほどうちのセレクションに参加してくれるようになったのです。もちろん女性社員や野球部以外での採用も、中途入社制度などを活用しながら続けています」

「2019年と2022年、九州代表で都市対抗野球大会に出場。後列左から2番目が梅田さん(宮崎梅田学園提供)

 宮崎梅田学園は、2012年に常務となった梅田さんと父が、宮崎県内の自動車学校のM&Aを進めて7校を運営するまでに成長。2018年に副社長に就任した梅田さんは、長年の経営課題に向き合っていました。

 「課題は2つありました。ひとつは『閑散期の社員の配置』です。自動車学校は繁忙期と閑散期の差が大きく、うちの場合2~3月と8~9月の繁忙期で年間売り上げの7割を占めるんですね。閑散期になると、野球部員は終日練習に励んだり、他の社員は営業や広報、資格取得の勉強などをしたりしていました」

経営課題に向き合う梅田さん

 繁忙期と閑散期の差が大きいのは、自動車学校業界全体の構造的な課題です。一方で、もうひとつの課題は宮崎梅田学園特有のものでした。

 「おいしい米の調達です。というのもうちは、合宿免許生と野球部員の朝食と夕食を、自社が運営するホテルで毎日提供しているからです」

 宮崎梅田学園の合宿免許生は、年間約1500人が2週間ほど滞在します。加えて20数人の野球部員用の朝食と夕食を毎日提供するとなると、年間約10トンの米を調達する必要がありました。

 さらに少子高齢化が進み、自動車免許取得者数自体が先細りする未来も見えていました。不況になると資格を求めて生徒が増えるという事情もあり、比較的不況に強い業界とはいえ、教習以外の事業の柱を育てたいと危機感を募らせていたのです。そんななか、梅田さんは宮崎県内の異業種交流会で、「うちの父が、高千穂で米をつくっている」という人と知り合い、「これだ!」と直感しました。

 「祖父と父がもともと高千穂の近く(日之影町)の出身で、私もその地域になじみがありました。神話の里で知られる高千穂郷では、雲海による適度な水分と寒暖差で、とても味のよい農作物が育つんですね。さらに知り合いのお父さんが米づくりを行っていたのは、『日本の棚田百選』にも選定された地区の棚田でした。うちの自動車学校の閑散期に棚田の農作業を行うことで、米が調達できるだけでなく、棚田の美しい景観を守るお手伝いができるのではと考えました」

高千穂郷の棚田(宮崎梅田学園提供)

 梅田さんは父や社員に相談し、地域の生産者から4反(約4千平米)の棚田を譲り受けます。梅田さんをはじめ、農業に関心を持ってくれた社員4人を農業兼務担当に任命し、高千穂での米づくりが始まりました。

 さらに米だけでなく、地域の人たちから「これも手伝ってくれないか」と相談を受け、釜炒り茶などの農産物も手がけるようになりました。棚田はオーナー制度(年会費5万円で、田植えと稲刈り体験ができ、棚田米50kgが得られる)を設けたことでファンが増え、メディアにも取り上げられるようになりました。現在では年間約7トンの米を生産し、ECサイトやイベントで一般客向けにも販売しています。

 硬式野球部は、PRと人材育成のため。農業参入は、閑散期を乗り越えるためのリスクヘッジ。事業の多角化によって、梅田さんは安定した経営を目指します。

宮崎梅田学園が栽培を手がける茶畑。右手に見えるのが雲海(宮崎梅田学園提供)

 対外的には順調そうな農業ですが、梅田さんにとっては大きな誤算もありました。

 「農業担当の4人の社員全員から、『農業がこんなに大変だとは思わなかった』と配置転換を要望され、そのうち1人は退職してしまいました。確かに、いくら農業に関心があるといっても、もともと彼らは自動車学校で働くつもりでうちに入社してくれた人たちです。申し訳ないことをしました」

 現在は、新たに農業担当を募り、梅田さん自身が段取りをしながら農作業に向き合う日々が続いています。宮崎梅田学園の本部から高千穂まで車で片道2時間以上かかる道のりを、ほぼ毎週農業のために通っています。

農作業を行う梅田さん(宮崎梅田学園提供)

 「特に草刈りが大変ですね。美しい景観を守り、農作物を育てて収入を得るのは並大抵のことではないと実感しました。農業を新たな事業の柱に育てることで、繁忙期は教習に専念して、閑散期に農業に取り組むのが理想の姿ですが、実現にはまだまだ時間と創意工夫が必要です」

 農業と自動車学校経営、そして地域との関わりについて、梅田さんは母校である早稲田大学の大学院で研究を進め、博士号の取得を目指しています。

 「現在73歳の父とは、『2025年に博士号を取得できたら、社長に就任する』と話しています。大学4年のころ、就職活動をしない私をたずねてきた父から『何がしたいのか』と聞かれて以来、自分が後継ぎとして、何のために働くのかを考え続けてきました」

 後継ぎの仕事は誰のためなのか。梅田さんは迷うことなく「自分のため」と答えます。

 「まず自分でやってみて、自分が楽しく働いてこそ、会社や地域をよくしていけると考えています。自動車学校を始めた父も同じだったはず。父は尊敬する存在であり、ライバルでもありますね」

宮崎梅田学園の梅田裕樹さん