目次

  1. 「ノッポさん」にあこがれて
  2. 稼ぎ頭だったPOPが需要減
  3. デザイナーを工場見学に誘う
  4. デザイナー案件を事業の柱に
  5. 古き良き技術を付加価値に
  6. 仲間と立ち上げた文具ブランド
  7. 海外も視野に技術継承

 「ガソリンは薄利多売の商売でした。ジュースよりも儲からないといわれたものです。後を継いでも未来が明るくないことは肌で感じていました」

 加藤さんは家業のガソリンスタンドを支えるべく、夜間大学に入学します。そこで出会ったのが東北紙業社の2代目社長・小野幸弘さんの娘である和美さんでした。

社長の小野幸弘さん(左)と加藤さん(東北紙業社提供)
社長の小野幸弘さん(左)と加藤さん(東北紙業社提供)

 うちの工場、人手不足で困っているの。よかったら手伝ってくれない?――。和美さんの誘いに、加藤さんは二つ返事で乗りました。紙の加工場と聞いて、幼いころにあこがれたノッポさん(NHK「できるかな」のキャラクター)の姿が脳裏に浮かんだのです。1999年12月のことでした。

 「そのころ工場は、大ヒットした映画の3枚組コンプリートボックスを製作していました。それだけでも十分惹かれたけれど、そのコンプリートボックスに限らず、製作物は日本全国でみることができた。小さな町工場ながらその技術は高く評価されている。打ち抜き加工のなんたるかはわかっていませんでしたが、俄然興味が湧きました」

東北紙業社が製作に携わった紙の緩衝材「リーヴスティー」©︎SANODESIGN Sano Masashi(東北紙業社提供)
東北紙業社が製作に携わった紙の緩衝材「リーヴスティー」©︎SANODESIGN Sano Masashi(東北紙業社提供)

 ガソリンスタンドとの二足の草鞋を始めた加藤さんでしたが、半年後には東北紙業社一本に絞ります。

 「母はわたしの選択を快く認めてくれました。ガソリンスタンドは早逝した父に代わり、母が切り盛りしていました。子どもの独り立ちにめどをつけた母にとって、ガソリンスタンドは是が非でも守らなければならない存在ではありませんでした」

 実家のある小平市から通う日々は、楽しくもせわしないものでした。朝の5時半に家を出て、午前8時〜午後5時までアルバイトをし、午後6時〜午後9時まで大学で授業を受けました。学園祭の実行委員も務めていた加藤さんは「時間がいくらあっても足りなかった」と振り返ります。

 アルバイトとして1年勤めたのち、正社員に。2005年には和美さんと結婚し、会社からほど近い街に新居を構えました。

 東北紙業社は和美さんの祖父・小野善九郎さんが1932年に創業した打ち抜き加工業です。宮城県から上京し、東京・虎ノ門の写真台紙店に丁稚奉公した善九郎さんは30歳で独立。墨田区菊川に工場を構えますが、戦争で被災し、戦後、両国で再興しました。

 高度経済成長の波に乗り、1955年には凸版印刷(現TOPPANホールディングス)との取引を開始、順調に事業を拡大していきます。かつて日本のいたるところでみられた等身大のPOPの多くを東北紙業社がつくってきました。

 加藤さんが働くようになったころも現場は活気にあふれていましたが、次第に雲行きが怪しくなっていきます。稼ぎ頭だったPOPが市場から求められなくなったためでした。

 「それまで途切れることのなかった機械の音がぱたりと止みました。ひっそりと静まり返ったあのときの工場のことは、いまでもありありと思い出せます」

 「ただ手をこまねいているわけにもいきません。わたしは積極的に外に出るようになりました。家と工場を往復するだけの毎日が一変しました」

 加藤さんが目をつけたのは2代目の小野幸弘さんが種をまいたデザイナー案件でした。

 「抜き屋の二世会(後継者の集まり)に持ち込まれたオファーがきっかけだったと聞いています。紙の商社から取引先のデザイナーさんに講義を行ってくれないかと頼まれたのです」

 二世会のなかで一回り若かった小野さんは自然とデザイナーとの関係を深めていきました。

 「デザイナーさんとのやりとりははたからみても胸が踊りました。彼らは文字どおりひざを突き合わせてともにつくっていく。わたしたちを加工の専門家として認めていただいているからこそです。これほど嬉しいことはありません」

 そう振り返る加藤さんは、めぼしい展示会をしらみつぶしにまわり、出会ったデザイナーを工場見学に誘います。まずは会社の技術を知ってもらおうと考えたのです。

 「デザイナーさんにとってもその提案は渡りに船でした。見ると聞くとは大違いですからね。デザイナーさんが加工現場を訪れるのは、それまでほとんどなかったんじゃないでしょうか。元請けは印刷所や商社であり、加工業者はあくまで下請けの存在。直接やりとりする関係ではありませんでした」

 いざ商談となれば、元請けを通すことで筋を通しましたが、時代の変わり目だったのでしょう。従来の商習慣は自然と形骸化していきました。

 現在は一方通行の注文ではなく、デザイナー、印刷会社、そして加工業者がチームとなってことに当たるスタイルが主流になりつつあります。

 加藤さんがその責任者として、はじめてデザイナー案件に取り組んだのは2010年。日本を代表する企業のインハウスデザイナーからのオファーでした。

 「デザイン展に出展するオブジェで、手のかたちに抜いた無数の紙を貼り合わせて球体をつくってほしいといわれました。エンボス(浮き出し)加工の技術を応用するアイデア自体はすぐにひらめきましたが、その丸みの加減など先方が望む水準をクリアするには試行錯誤を重ねました。やはり侃々諤々のやりとりには興奮を覚えました」

 誠実に仕事をこなしているうち、横のつながりも手伝ってあらたなクライアントを順調に獲得していきます。顧客リストにはグラフィックデザイナーからインダストリアルデザイナーまで、ありとあらゆるプロフェッショナルが名を連ねます。

 いまではその取引は売り上げ構成比の半分近くを占めるまでに育ちました。従来の下請けはカレンダーや書籍の加工が増えているといいます。

 「デザイナーさんからの問い合わせは毎月十数件あり、リピーターが5割を超えます。ひとつの柱に育てることができたのは、ひとえに昔ながらのものづくりを守ってきたからです」

 同業他社は右肩上がりの時代に最先端機器へのアップデートを進めましたが、東北紙業社は「倒し」と呼ばれる打ち抜き機を守りました。

 「上下運動によるきわめて単純な構造で、抜きやエンボスはもちろん、インクをつければ印刷も可能です。やろうと思えば蕎麦だって切れるんですよ。素材の厚みにも柔軟に対応できる。生産性は悪くてもかけがえのない機械です」

古き良き「倒し」と呼ばれる打ち抜き機。二人一組で作業にあたります(東北紙業社提供)

 デザイナーも高く評価したのが、つなぎをつけない加工ができること。つなぎとは文字どおり制作物をカス(不要部)につなぎとめる継ぎ目をいいます。

 見栄えを大切にするデザイナーはつなぎ痕を嫌がりますが、つなぎがないと打ち抜いた瞬間、制作物がばらけてしまいます。この問題を解決できるのが、手作業で打ち抜く「倒し」でした。

 ただ、単純なだけに職人の経験や勘が欠かせません。たとえば紙は一枚一枚セットしますから、打ち抜き位置を正確に把握する見当のスキルが求められます。

紙象嵌の手法を用いた年賀状©︎BULLET Inc. / Aya Codama (東北紙業社提供)
紙象嵌の手法を用いた年賀状©︎BULLET Inc. / Aya Codama (東北紙業社提供)

 この「倒し」を使ってつくられるのが紙象嵌(かみぞうがん)です。象嵌とは異素材をはめ込む工芸技法で、紙のそれは題箋(だいせん)がよく知られています。表紙に書名を貼付する和綴じ本にみられる技法です。

 紙にまつわる象嵌技法を紙象嵌と名づけ、世に広めたのが東北紙業社をはじめとした打ち抜き加工業者でした。

 「紙象嵌は手作業が多い分、値段は高くなる。一つひとつ貼らないといけませんからね。(デザイナーは)決まって目を輝かせますが、たとえば光沢が欲しいなら箔(押し)でいいし、文字や絵を浮かび上がらせたいならエンボスでもいい。そこはきちんと説明するようにしています」

 古き良き技法はデザイナー案件を開拓し、そしてオリジナルブランドへと結実しました。

 2012年、加藤さんはその名も「印刷加工連」を同業他社とともに発足。メンバーそろって初となるBtoCのオリジナルブランド「印刷加工連の紙の文具」を発表します。

 「製本組合の30周年の記念本を、印刷や加工を生業とする6社でつくりました。その記念本は本の体裁を保ちながら、文具収納ボックスの役割も兼ねており、その文具も紙で制作しました。無事完成にこぎつけましたが、せっかく集まった仲間がこのまま別れるのはしのびなかった。そうして立ち上げたのが『印刷加工連の紙の文具』でした」

仲間とともに立ち上げたオリジナルブランド「印刷加工連の紙の文具」(東北紙業社提供)
仲間とともに立ち上げたオリジナルブランド「印刷加工連の紙の文具」(東北紙業社提供)

 現行ラインアップは8点(385〜1320円)。めくりやすさや書きやすさを考えてリングを斜めに配したノート、古紙を利活用したメモクリップ、あるいは罫線を箔押しした便箋……。

 斬新なアイデアが受けて、国内はもとより海外の売り場にも並びました。紙製品の品ぞろえでは知る人ぞ知る存在の文房具店パピエラボ(東京都渋谷区)は全アイテムを取りそろえています。

 「多くが後継者だったのも大きいと思いますが、勉強会を開いたり、学生と商品開発をしたり、台湾へ研修旅行に行ったり……といった具合にさまざまな活動をしてきました。売り上げとしてはまだまだですが、やりがいという面では何物にも代えがたい。コロナも落ち着いたし、また動き出そうと話しています」

 「先日はそれぞれの工場を視察してまわりました。みんな10年を経て成長していました。その成長を今後の活動に生かせればと思っています」

東北紙業社が製作を担当したメモクリップ(440円)(東北紙業社提供)
東北紙業社が製作を担当したメモクリップ(440円)(東北紙業社提供)

 後継者といえば、地元のビジネススクール「フロンティアすみだ塾」で出会った人々にも物心両面で大いに助けられたといいます。デザイナー案件の獲得に走りまわっているころに入塾したそのスクールの縁で、墨田区の町工場をめぐるツアー「スミファ」にも参加してきました。

 東北紙業社の礎は創業者の小野善九郎さんがつくりました。POPの仕事で頼りにされたのはL判(800×1100㎜)が打ち抜ける「倒し」をいちはやく導入したからです。聞くところによればその製作にも関わっていたそうです。善九郎さんは時代が変わっても「倒し」を慈しんできました。

 「『倒し』を処分しなかったのは慧眼でしたが、ものづくりの人間ですからね。新しいものにも当然興味があった。全自動の機械を導入したのは1989(平成元)年のこと。これにより申し分のない生産体制が整いました。先代は、その年に亡くなりました」

 2024年夏に最後の職人が引退して、ふたたび家族経営になりましたが、「打ち抜きの技術は残していきたい」と加藤さんはいいます。

 「業界がシュリンクする流れをとめるのは難しい。だからといってその価値が失われたわけではありません。国内に職人のなり手がいないなら、海外に伝えていくというのは一つの手だと思っています。印刷加工連の仲間と訪れた台湾は面白そうです」