目次

  1. 「信用こそ最大の財産」
  2. 「やってみろし」の精神で
  3. 若手社員の努力で生まれたヒット
  4. 涙ながらの訴えで生まれた新商品
  5. 甲府の優勝がブランド強化に 
  6. 存続危機のクラブを支えた理由
  7. 若くして社長になれて良かった

 はくばくは1941年、長澤さんの祖父重太郎さんが「峡南精米」として創業しました。当初は米を軸に事業を考えていたそうですが、米が統制物質になったことや、創業者が出兵した影響もあり、実際に事業を始めたのは終戦後だったそうです。

 食糧難が続く時代でも、比較的流通が安定していた大麦の販売事業に転換。大麦を半分に切り、黒条線(水分や養分の通り道)を取り除く技術を開発したことで、大麦を米と交ぜて炊いても違和感なく食べられるようにして、大きく売り上げを伸ばしました。

 現在の従業員数は420人で、年商は約187億円(2022年度)、300以上の商品アイテムを抱えます。

創業当時のはくばく(同社提供)

 長澤さんは創業者の重太郎さんと「中学生のころまで同じ家で過ごした」といい、家業は身近な存在でした。祖父が残した「信用こそが最大の財産」という言葉が、自身が社長になって改めて身に染みたといいます。

 「『会社を継いでほしい』と、一度も言われたことはなかった」と長澤さんは振り返ります。それでも長男という境遇や、周囲の雰囲気を感じ取ったこと、何より祖父の姿にあこがれたこともあり、小学校低学年のころには「経営者になりたい」という思いが芽生えたそうです。

 その後も「小さいころから人前に立ち、リーダーシップをとる方だった」といいます。東京大学でラグビーに没頭する4年間を過ごした後、住友商事に入社。コーヒー豆の輸入事業を担当しました。大企業の社員としての多忙な日々は今も糧になっているそうです。

はくばくが独自技術で生み出した「白米好きのためのもち麦」

 1992年にはくばくに入社した長澤さんは、長野県のそば工場の立ち上げに携わった後、95年に経営企画室に異動します。しかし、この時に初めて会社のバランスシートに目にして、「赤字が膨れ上がり、債務超過に近い状況」を思い知らされます。

 「真面目に事業に取り組む父の責任感が裏目に出て、社長の指示通りに社員が動く“ワンマン企業”になってしまっていたんです。トップに正しい情報が上がってこないので、社員がいくら頑張っても収益が上がらない。それぞれの評価につながる商品を好き勝手に作るので、不良在庫ばかりが増えていくような状態でした。倒産してもおかしくない状況に、僕もビックリしちゃって…」

釜無川沿いにあるはくばくの本社工場からは富士山が見えます(同社提供)

 長澤さんは「当時は殺伐とした雰囲気だった」という社内を改革しようと、在庫に合わせて商品を生産する仕組みや、コストダウンを評価する人事制度を導入。会社の収益が見える体制を整え、経営の改善を図りました。

 「生産過多の影響で『安売りのはくばく』と言われていた当時、更なるコストの削減を提示した僕の改革案は、役員の間でも反対意見がありました。でも、仕事を真面目にやっているのに、結果として社員が不幸になってしまう状況は、何としても変える必要があると思ったんです」

はくばくの製造現場(同社提供)

 長澤さんは「やってみろし」(甲州弁で「やってみたら?」の意味)の精神を提唱。社員の主体性を育み、挑戦ややる気を後押しする企業風土を整え、ヒット商品を生み出す土壌を作り出していきました。

 長澤さんは2003年、36歳で3代目社長に就任しました。

 はくばくに転機が訪れたのは、2000年代初頭の「雑穀ブーム」でした。

 「あるスーパーの方に『ミックス雑穀の商品が欲しい』と言われ、健康のために雑穀を食べている方々がいることを知ったんです。『白米とは違う雑穀ならではのおいしさもあるんじゃないか』と思い、さまざまな穀物を実際に炊いて、一番おいしく感じられる雑穀の組み合わせを研究してもらいました」

 商品開発に力を注いだのは若手女性社員2人だったといいます。同社は元々、大麦の販売に力を入れていました。「白米に混ぜて健康な食生活を送りたい方々のために、おいしい、スタンダードになる雑穀を作ろう」という思いで開発されたのが、06年に発売した「十六穀ごはん」でした。

ロングセラーとなった「十六穀ごはん」(はくばく提供)

 もちあわ、もちきび、うるちひえなどの16穀物が含まれた商品は、ミックス雑穀を食べるという新たな食文化を作り出し、発売開始から17年経った今も、会社全体の売り上げの約16%(雑穀商品)を占める定番商品として、多くの人に親しまれています。

 「会社に求められるニーズを冷静に分析できたことがヒットにつながった」と語る長澤さん。「この成功体験が出発点になっている」と言いながら、「商品開発に力を注いだ女性社員の努力が報われたことが、何よりもうれしかった」と付け加えました。

 「それまでは、社長である父が細部までこだわり抜いた商品を社員が形にするという関係でしたが、社員の挑戦を見守り自主性を育むことの大切さに気付かされた」と振り返ります。「十六穀ごはん」のヒットは挑戦を後押しする社風を根付かせる上で、欠かせないものだったそうです。

 「十六穀ごはん」を発売した06年には、会社のコーポレートデザインを変更し、「The Kokumotsu Company」というコンセプトも定めました。「はくばくはどんな会社か?」を、2年ほどかけて議論した末に完成に至ったというロゴには、「健康的な穀物を世界に広めていく」という思いが込められています。

 「やってみろし」の精神が根付いた会社はその後も、もち性の大麦を使った「もち麦」や「ベビーそうめん」などを発売。

 特にベビーそうめんは「乳児に安心できる食品を食べさせたい」という女性社員の涙ながらの訴えで商品化に至ったといいます。2.5センチの長さにカットした食塩不使用のそうめんは「あまり売れないかも」という不安をよそに、多くの支持を集めました。

はくばくの「ベビーそうめん」(同社提供)

 こうしたヒット商品がはくばくを押し上げ、長澤さんが社長就任後の19年間で売り上げは1.5倍に増えました。

 はくばくは、地元山梨県のJリーグクラブ・ヴァンフォーレ甲府のメインスポンサーを20年以上務めています。22年のサッカー天皇杯では初優勝を果たし、長澤さんは「長年見守ってきたクラブの選手がカップを掲げる姿を、静かに喜びをかみ締めながら、しみじみとした思いで見ていた」といいます。

22年のサッカー天皇杯を制したヴァンフォーレ甲府。長年にわたり胸スポンサーを務めたはくばくの思いが結実した瞬間でした(22年10月、朝日新聞社撮影)

 クラブの躍進は、はくばくにとっても大きな追い風になりました。

 「これまでは、はくばくの社名を意識せずに、商品を買ってくれていたお客様が、改めて私たちの社名を知っていただけたという声を多く耳にしました。結果として会社のブランド強化につながったという点は、私たちにとっても一番大きかったと思います」。

 そして、23年シーズン開幕に先立ち、J1王者の横浜F・マリノスと対戦した2月の富士フイルムスーパーカップ(東京・国立競技場)では、イベントに出演したダンスグループのJO1や、人気アニメ「ラブライブ!」とのコラボレーションも実現しました。

 「これまで私たちの商品になじみが薄かった若い世代の皆さんにも、はくばくの名前を知っていただき、親しみを持ってもらえました」

 はくばくとヴァンフォーレ甲府との縁は、クラブが経営難で存続危機にあった00年オフにさかのぼります。

 「クラブの社長を任された海野一幸さん(23年1月まで一般社団法人ヴァンフォーレスポーツクラブ代表理事)から連絡があり、それまで親しくしていたご縁もあったので、できる限り支援しようと思っていました」

 それでも葛藤はありました。「『つぶれる』と言われていたクラブへの投資は、無駄なものになってしまうかもしれない。正直、そんな考えも頭をよぎりました」

 クラブへの投資には社内でも否定的な意見があったそうです。しかし、長澤さんはプロ野球などで実績のある経営コンサルタントを入れるなど「つぶさないための協力をする」ことで周囲を説得しました。

ヴァンフォーレ甲府へのサポートを続けた長澤さん。地方企業がこれだけ長期にわたってサッカークラブの胸スポンサーを務めるのは異例です(はくばく提供)

 はくばくの工場が火災で全焼した01年には、ヴァンフォーレ甲府の他のスポンサーが商品を買い支えるなど、クラブとの良好な縁を深めていきました。甲府は05年に初のJ1昇格をつかみ、今も多くの地元サポーターに愛される存在になっています。

 「20年間のスポーツ支援を通じて得られたものは、社会性の高いはくばくの企業姿勢や、きちんとやってくれる会社という県民からの信頼です。形のないものですが、もしかしたらそれでしか得られないものかもしれない。もちろん、長年にわたってスポーツを応援出来たのは、会社の収益があったからこそ。一生懸命頑張ってくれた社員の皆さんには心から感謝したいです」

 36歳で家業を率いることになった長澤さんは「若かったからできたこともたくさんある。若くして社長になれて100%良かったと思っています」と振り返ります。

 22年5月には、長男を会社に迎え入れるなど、次世代への継承についても徐々に考える状況になりつつあるそうです。

 「血縁関係があったとしても、それぞれのキャラクターに違いはあるので、方程式のようなものはないと思います。僕に会社を譲ってからは、父は経営に口を出してこなかったので本当にありがたかったかな。なかなかできないことではあるし、本当は寂しかったんじゃないかなと思うけど…」

 これから事業を継承する後継ぎ経営者には二つのことを伝えたいと思っています。

長澤さんは次代への承継も見据えています

 一つは、時代の移り変わりによって商品の販路は大きく変化することです。

 「僕もお米屋さんから量販店へと販路が変化していく社会状況を目の当たりにしてきました。販路の選択によって時にあつれきが出ることもあるので、会社をつぶさないためのかじ取りや対処法を、しっかりと考えなければなりません」

 二つ目は、大きなマーケットではなく一定のニーズがあるサブカテゴリーで存在感を示すことを視野に入れてほしいということです。

 「例えば、はくばくは大麦で作られた無糖のシリアルを発売しています。甘いシリアルの並ぶ棚の中で、一定のニーズは満たすことができます。企業の強みをきちんと考えながらのかじ取りが、後継者の皆さんには求められるのではないかと思っています」