大手企業が多数参入するビジネススーツ業界にあって、オーダースーツSADAはフルオーダースーツに特化し、急成長を見せています。店内では経験豊富なスタッフが顧客の体に合わせて採寸し、そのデータは、宮城県や中国・河北省にある工場に送られます。
CAD(自動設計システム)によって型紙を作製し、CAM(自動裁断システム)で生地を裁断します。その後は、熟練の職人の手で一つひとつ縫製するといいます。オーダースーツの要となる採寸と縫製は専門の職人が担い、自動化できる型紙作製と生地裁断は機械化でコストを削減。この分業で、初回1万9800円という低価格での提供につなげています。
4代目の佐田さんは05年に一度社長となり、黒字転換を果たすなどの成果を残しながら、多額の負債のため一度会社を去ります。しかし、11年の東日本大震災で会社が危機に陥り、再び社長に復帰。卸から小売りへのシフトで、18億円台だった売り上げを数年で30億円台まで押し上げました。
スーツのカジュアル化が進むなか、佐田さんは「スーツは本来、向き合う相手に敬意と感謝を伝えるためのアイテムです。その思いを表現するには、フルオーダースーツでないと不十分と思っています」という信念で事業を拡大しています。
オーダースーツSADAは1923年、佐田さんの曽祖父である定三さんが東京・日本橋に創業した服飾雑貨店からスタートします。2代目となる祖父の茂司さんは戦後、東京の焼け野原から店を再起させ、60年にスーツの工場生産をスタート。埼玉県と宮城県に工場を新設し、CADを導入して生産力を向上させていきました。
86年に佐田さんの父・久仁雄氏さんが3代目を引き継ぐと、大手百貨店のOEM(相手先ブランドによる生産)や、全国展開のスーパーマーケットなどとの取引を開始。90年には中国に工場を設立し、事業をさらに拡大していきました。
佐田さんは祖父、父ともに婿養子だった佐田家で、3人兄弟の長男として生を受けました。父の働く姿は幼いころから佐田さんのあこがれで、新しい工場の竣工式にも連れていってもらいました。
テキパキと従業員に指示を出し、厳しい表情で帳簿を見つめる父の横顔に、「僕が大きくなったら、この会社を継ぐんだ」と、心に思い描いたといいます。
ただ、父からは「経営は一子相伝。後継者は誰か一人だけ選ぶ」と告げられ、佐田さんを後継ぎに指名すると決まっていたわけではなかったそうです。「幼少期から、父に選ばれるために、学校の成績やスポーツでも活躍しなければいけないという思いで頑張りました」
佐田さんは2浪の末、父と同じ一橋大学に進学。体育会スキー部に所属し、スキージャンプとクロスカントリースキーを組み合わせたノルディック複合の選手として活躍しました。99年の大学卒業後は「(家業と同じ)繊維関係でなじみがあるだろう」という理由から、東レに入社します。
父から「戻ってきてほしい」と告げられたのは、その4年後の2003年でした。
父へのあこがれが「完全に崩壊」
オーダースーツSADAはそのころ、メインの取引先であったそごうが00年に倒産したあおりを受けていました。年商22億円ながら有利子負債が25億円あり、年間1億円の利子を返し続けるのに精いっぱいで、元本返済に手が回らない状況でした。佐田さんは東レを退社した後に家業の苦境を知ります。
「頭に血が上りましたよね。あこがれだった父の姿は完全に崩壊。全然ダメな経営者じゃないかって」
経営資料をあたればあたるほど、火の車であることがわかるだけ。佐田さんは「泥舟に乗せられた気持ちだった」と、当時を振り返ります。
「実質、倒産状況ですよ。私が東レ社員のままなら、倒産したとしても両親の生活の面倒はなんとか見られたかもしれません。でも、家業に入ったとき、すべての借り入れの連帯保証人になっていました。退社して私も家業の一員になってしまったら、共倒れするしかないんです」
まさにつかみかかるほど、父と激しい親子げんかを繰り広げました。
「当時すでに鬼籍に入っていた祖父の姿が目の裏に思い浮かびました。最終的に倒産だったとしても、できる限りのことをやってみて、天国にいるおじいちゃんに報いることをしたいと」
そう心に決めると、不思議なもので、それまで激しくやり合っていた父と冷静に話をすることができるようになりました。
「御用聞き営業」にメス
佐田さんは2005年、4代目社長に就任。改革は社長就任と前後して加速させました。
「父は中国に設立した工場を起死回生の切り札にしたいと語っていました。機械化によってコストダウンしたメイドインチャイナのフルオーダースーツを作り、どこにもまねできない価格のオーダースーツを販売したいと」
それは父の悲願でした。ところが社員にはその経営方針が浸透していないことに気がついたのです。バブル期、フルオーダースーツはリピーターをつかめば成り立つビジネスモデルでしたが、その間に若手ビジネスパーソンは既製服業界に抑えられていたのです。
「すでに既製品のスーツでは中国製が出回っており、若いビジネスパーソンをターゲットと考えたら、手ごろな価格で購入できるフルオーダースーツもきっと喜ばれます。ところが昔からの取引先であるテーラーさんから中国製では売れないと聞かされて、営業に回る社員たちが口々に反発したのです」
「御用聞き営業」にメスを入れようとすると、主力幹部から「あの人にはついていけない」と、辞表が出される事態に発展。営業社員からは「若社長に腹を立ててやめるって言っています。頭を下げてください」とお願いされたといいます。
しかし、父に相談するときっぱりと言われました。「社員は社長のひるんだ顔を絶対に見逃さない。お前も経営者なのだから、ひるむな」
佐田さんは助言通りに黙って辞表を受け取りました。「この騒動で一時はお客さんが離れましたが、後継ぎである私が出向いて話をすると事情を理解してくれて、すぐに戻ってきてくれました」
価格是正で黒字転換を実現
実は、ビジネススーツにも繁忙期と閑散期があります。7月後半から9月前半と、1月、2月は閑散期で、工場の稼働率が下がり原価は上がります。一方で稼働率が上がる繁忙期は原価が下がります。
本来、この原価の変動に沿って利益を出すための方策を立てなくてはいけません。しかし、営業に回る社員は受注する着数を増やすため、年間を通じて、利益が出ない閑散期料金のまま売っていたのです。その結果、「3分の2くらいが赤字の仕事でした」(佐田さん)。
佐田さんは、利益につながらない販売価格を適正に戻すことに力を入れました。それでも、顧客にとってはスーツの値上げとなるため、社員から猛反発を受けます。
「社員の立場ではできない交渉でも、私には4代目という最強の肩書があります。自らお客様のもとに出向いて、会社の状況や適正価格にしたいことを切々と訴えると、みなさん身を乗り出して話を聞いて納得してくれました」
運営に課題があった中国工場も改めてテコ入れしました。宮城県の工場の優秀な工場長に頭を下げて中国工場に駐在してもらい、生産や経営システムを徹底的に改善させたのです。
利益を優先する改革が奏功し、佐田さんの入社前まで営業赤字が続いていた会社は、入社2年目で1億円、3年目で1億7千万円の営業黒字へと転換しました。4代目の地道な努力は、顧客への説得力とともに、社員の深い理解にもつながっていきました。
債権放棄を招いて会社を去る
それでも、経営には根深い問題がありました。金利の支払いに追われて、負債の元本は減らず、中小企業再生支援協議会(現・中小企業活性化協議会)や金融機関に相談するも、海外での仕入れの未払いなど、就任前から積み重なっていた様々な簿外債務が発覚したのです。
「金融機関からは『親子そろって腹を切る覚悟はありますか』と言われました。私は一円も借りていないと父に言い訳したのですが、『代表取締役はお前だろう』と言われて納得し、責任を取ることになりました」
黒字化を果たすも家業を立て直すことはできず、07年、金融機関などに85%の債権を放棄してもらうと同時に、会社を再生ファンドに譲渡。父は自己破産の手続きを行いました。
佐田さんは従業員の雇用が守られ、取引先であるテーラーの連鎖倒産を防ぐということを一筋の希望と捉え、引き継ぎの末、会社を離れました。08年7月、まだ33歳の若さでした。
しかし、創業家の手を離れたオーダースーツSADAは、11年3月の東日本大震災の影響で再びピンチに陥りました。家業を去った後コンサルティング会社などで働いていた佐田さんに、再び社長として白羽の矢が立ったのです。
※後編は、佐田さんが社長に復帰後、フルオーダースーツの小売り展開にかじを切って出店攻勢を重ね、自らフルオーダースーツで富士山に登るといったユニークなプロモーションなどで、再建の道筋をつけるまでの軌跡に迫ります。