hibiはマッチと同様、先端の頭薬を箱で擦って火をつけ、専用マットに置くと約10分間、香りを楽しめる仕組みです。マッチと一体化したお香で、香りはレモングラス、ラベンダーなど16種類にのぼります。レギュラーサイズ(8本入り、専用マット付き)の価格は770円(税込み)です。
2015年に発売を始めると、月産90万箱の大ヒット商品になりました。画期的な仕様とデザインが評価され、2019年のグッドデザイン賞でグッドフォーカス賞に輝きました。
hibiが自社生産品の9割を占めるまでになりました。その一方、同社は16年、旧来のマッチ棒の製造を終え、機械を売却。マッチの一貫生産に終止符を打ちました。今は国内の他社工場からマッチの供給を受け、社内で印刷したパッケージに詰めて製品化しています。
「マッチ製造部門は2008年から赤字が深刻になり、古い機械の維持すら限界でした」。嵯峨山さんは頭薬をペースト状に練って混ぜるノウハウを守りつつ、hibiを生み出す工場として再起動しました。「昔ながらのマッチを作る会社には戻れない」という不退転の覚悟でした。
継ぐつもりはなかったが…
神戸マッチは1929年、嵯峨山さんの祖父・作一氏が嵯峨山燐寸製作所として創業します。その後、神戸燐寸として法人化し、最盛期は300人以上の従業員を抱えました。
嵯峨山さんは中高生時代、工場の隣にあった祖父母の家で暮らしました。「自分自身がマッチを頻繁に使っていたわけではなく、のちにこの会社に関わるとは考えもしなかったです」
中学3年生のときに作一氏が亡くなり、父の章さんが2代目になりました。
嵯峨山さんは大学卒業後、日本コダックに入社。8年半ほど働いたころ、異動を機に人生を見つめなおしました。「このままサラリーマンを続けるか、経営の道を選ぶかで悩みました。そして『父の会社を継ぐのもいいかも』という発想になりました」
「マッチでは食えんようになる」
嵯峨山さんは1999年、神戸燐寸に転職しました。「父から『後を継げ』とは言わず、入社に賛成も反対もされませんでした。ただ、得意先を回る車内で二人きりになったとき『あと10年でマッチではメシが食えんようになる。そのつもりでやれ』と言われました。新規事業の必要性を強く感じましたね」
入社時は社員数が120人にまで減り、売り上げも下落。それでも年間売り上げは不動産収益などを合わせて12億円で、マッチ製造だけで10億円ありました。嵯峨山さんは総合企画室を新設し、役員として生き残る道をさぐります。しかし、父の予想よりずっと早く危機が訪れました。
「1億円あったマッチ製造部門の利益が、2000年は6千万円に、さらに翌年は2千万円に下がり、2003年には赤字になりました」
需要が急減した二つの原因
同社のマッチは一般に販売される「有標マッチ」と、PRに使われる「広告マッチ」の2種類がありましたが、ともに需要が激減しました。その原因は主に二つあります。
一つ目は100円ライターや「点火棒」と呼ばれる自動着火装置の普及で、マッチの役割が奪われたことです。
二つ目は2003年施行の健康増進法の影響です。受動喫煙対策が努力義務となって喫煙へのネガティブな視線が強まると、マッチの広告媒体価値も落ちていきました。
「街頭で配る広告物がマッチからポケットティッシュに代わり、当社もポケットティッシュ製造に参入。最盛期は4台の製造機がフル稼働し、今も製造は続けています」
ポケットティッシュは窮地の経営を下支えしました。マッチ箱などの印刷技術を応用し、バスのラッピング事業も始めました。
総合企画室発案の事業で、会社は踏みとどまりました。それでもマッチの需要減に歯止めはかかりません。
「丸太から軸を削り出すところから一貫して内製化していましたが、まるで採算がとれない。マッチは薄利のうえ、製造工程で不良品がたくさん出る難しい製品です。伝統産業だからと続けていましたが、会社の足を引っ張る存在になり、マッチの赤字を他でどう補うかばかりを考えていました」
レトロなマッチ箱がヒントに
嵯峨山さんが試行錯誤するなか、2009年に立ち上げた「マッチデザインファクトリー」というブランドにヒントを見つけます。若者のレトロブームを受けて、過去の家庭用マッチ箱のデザインをよみがえらせる企画でした。
「懐かしい意匠も若者の目には新鮮でした。復刻すれば、雑貨として新たな価値が生まれると考えたのです」
業界団体・日本燐寸工業会が所蔵する明治・大正・昭和のラベルコレクションをスキャニングし、新たにパッケージ化。Tシャツの柄にも採り入れ、若者向けのライフスタイルショップなどに流通させました。
評判は集めたものの、結果的に収益の柱になるほどの市場は築けませんでした。「それでもデザインやコンセプト、ターゲットを変えて付加価値を乗せると、量販店では1個20円のマッチが120円でも売れました。売り場とデザインの大切さを学んだ、大きな経験でした」
マッチ以外を作る覚悟
2010年、嵯峨山さんは3代目社長になり、社名を「神戸マッチ」に改めます。
「役員として新規開拓を進めるうち、父と自然にバトンタッチした感覚です。父は『お前のやりたい会社にしていい』という感じでした。ただ、夢がかなったという気持ちには、とてもなれませんでした。勝機が見えないどころか、マッチ製造は赤字続き。同じ形ではもう続けられないところまで落ちていました」
承継直前に開発した新商品「茶殻のマッチ」も教訓になりました。製茶会社と組み、廃棄していた茶殻を頭薬に練り混ぜ、アップサイクルした商品でした。満を持して発売するも、問屋からは「今さらマッチを持ってこられても…」という反応だったといいます。
「もうマッチのニーズはないとがっかりし、それ以外の製品を作る覚悟につながりました」
「酒席の冗談」を本気で実現
代々の着火技術を生かしながら、マッチに代わる市場を切り開こうと考えた嵯峨山さん。ひらめいたのが「擦ると着火し、リラクセーション効果があるお香」という発想でした。
「元々、マッチ業界の集いで『擦ると火がつく線香があったら便利』という会話はありました。あくまで酒の席の冗談でしたが、本気で実現しようと決めました。マッチを応用して香りを楽しむ日用雑貨ができれば、オンリーワンの商品になるだろうと」
2011年から開発に取りかかり、お香が製造できる協業先を探します。仏具を扱う問屋から紹介されたのが、兵庫県淡路市の線香メーカー・大発です。地場企業とのコラボに、嵯峨山さんはワクワクしました。
嵯峨山さんによると、大発側からは当初「折れないほど硬く、それでいて燃えるお香を作れるのか」という声が出たそうです。
そもそも棒状のお香は折れやすく、硬ければいいものでもありません。旧来のマッチ棒は軸が木製で、擦った際に生まれる木特有のしなりが、着火しやすさと強度を生み出していました。そのしなりをお香でどう再現するか。木製ではないお香の軸を燃やすには、頭薬の調合も見直す必要がありました。
それでも、線香の新しいスタイルを模索していた大発とは意気投合。強度と燃焼性を両立し、着火時の炎だけでお香全体を燃やし尽くすという課題を乗り越えるのに、3年半を要しました。
軸が太いとデザイン性を損ない、細いと折れやくなります。強度や細さ、燃えやすさなどの最大公約数を見つけるためにあらゆる配合を試し、長い開発期間を要したといいます。
「お香に和紙の繊維や炭を混ぜるなどして、しなりと強度、高い燃焼性を兼ね備えました。大発の下村暢作社長もチャレンジ精神旺盛で、根気強くつきあってくれました」
こうして、マッチ型のお香「hibi」が生まれました。マッチのように擦って着火すると、軸から香りが出て約10分燃え続けます。商品名には「毎日そばに置いて、自由に香りを楽しんでほしい」との願いを込めました。
製造機の導入や販路開拓のため、県や経済産業省、JETRO、中小企業基盤整備機構などの補助事業の採択を勝ち取りました。「hibiの試作中、会社はずっと赤字でした。だからこそ退くことはできません。世界でただ一つの商品を作る企業に生まれ変わりたい一心でした」
20~30代女性の心をつかむ
嵯峨山さんは2015年2月、発売前の「hibi」を東京の大型展示会「東京インターナショナル・ギフト・ショー」に出展し、高い関心が寄せられました。
「多くのバイヤーは頭薬にお香を練り込んでいると思っていました。『軸がお香になっていて、頭薬で軸を燃やします』と伝えると驚かれ、その意外性から様々な取引が始まりました」
ブレークを決定づけたのが、2016年10月、インテリアショップやセレクトショップのオーナーが集う東京の展示会でした。「自分にお金がかけられる20~30代の女性」というターゲットに刺さったのです。
hibiは国内販売において、原則として小売店への直売を基本に据えました。海外でも、1〜2年目は小売店への直売を中心に販売ルートを拡大し、3年目以降は信頼を置けるディストリビューターに間に入ってもらいました。海外での展示会は頻繁に行い、3年目からバイヤーが「彼らは本気だ」と気がつき始め、海外への販路開拓につながったといいます。
「hibi」は今、年3億円以上を売り上げるヒットとなりました。「マッチ製造で10億円あったころの売り上げには届きません。しかし、当時のような薄利ではなく、収益を出せるようになりました」
東京に開いた初の直営店
神戸マッチは2023年9月、東京・蔵前に初の直営店「hibi 10MINUTES AROMA STORE TOKYO」を開きました。
「製造から販売まで自分たちの手で行う。それが、私の夢の一つでした。蔵前は長い歴史を誇る店や工房と新しいカルチャーが溶けあう街。明治時代から続くマッチの技術をお香にプラスした当社とぴったり重なると思いました」
直営店はインバウンド客も多く、幸先よいスタートを切っています。
直営店では、嵯峨山さんの娘がマネジャーを務めています。「娘に『継げ』とは言いません。ただ、そうなったときに迷惑をかけないよう、財務体制はしっかり整えるつもりです」
しみ込んでいたマッチ屋の魂
嵯峨山さんは、hibiがヒットした理由を「マッチ会社として原点に立ち返るイノベーションだったから」と言います。
「『火をつける技術』は捨てませんでした。それを強みに何ができるのかを考えたからではないでしょうか」
hibiは暖を取ったり調理したりする道具ではありません。しかし、香りで心を穏やかにする商品も現代の生活必需品で、マッチの進化系と言えるのではないでしょうか。
「擦って火をつける文化を絶やしてはいけないという気持ちが、無意識にあったかもしれません。でなければ、別の商品を作っていたか、廃業していました。知らず知らずのうちにマッチ屋の魂がしみ込んでいたんでしょうね」