目次

  1. 浅草に根を張った大衆食堂
  2. 品数を半分以下に絞る
  3. 「自称日本一」のアジフライに磨き
  4. 父から学んだ仕入れの教え
  5. おせちに挑み、店を底上げ
  6. 無理なく腕を磨ける教育
  7. ドミナント戦略で新店オープン
  8. 売り上げはコロナ前より増加

 ときわ食堂は、戦後復興を支えた人々の腹を満たしてきた大衆食堂です。愛知から上京した曽祖父の牧権(ごん)さんが、明治時代に隆盛を誇った上野の料亭・常盤花壇にルーツをもつ「ときわ食堂総本店」の第5支店として独立。1922年に墨田区業平に店を構えました(1946年、現在の地に移転)。

 2代目の初太郎さんが当時ポピュラーだったのれん分けを積極的に推進、そののれんを掲げる店は21店にのぼりました。そして3代目の成一さんが割烹で修業を積み、料理の方向性を確立します。

ときわ食堂は雷門のそばにあります

 3代にわたって足場を固めてきたときわ食堂を2012年に継ぎ、研ぎ澄ますのが牧さんです。牧さんは代替わりにあたり、改装しました。

 「サンプルを並べるショーウィンドーはやめようかと思ったこともあったけれど、残しました。オススメのメニューを書いた黒板を店内に並べるのも昔ながらです」

 肝に銘じたのはいま、そしてこれからの浅草という街に溶け込むことでした。

代替わりのタイミングで、店内を改装しました(ときわ食堂提供)

 牧さんが家業入りしたのは2005年。7年あまりの下積みのなかで育んできた思いを言語化したのが「日常をちょっと豊かにするサービス」です。

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