小さな酒店が地ビールの「聖地」に 3代目がコロナ禍で生んだ新商品
京都市上京区の山岡酒店は一見八百屋風の店構えに、国内外の地ビール約300種類を取りそろえています。3代目の山岡茂和さん(48)はメーカーを訪ね歩いたり、オリジナルビールを企画したりしてファンを広げ、府外からも客が訪れる地ビールの「聖地」になりました。コロナ禍で売り先が無くなったビールを生かした新商品も企画し、苦境をたくましく乗り切ろうとしています。
京都市上京区の山岡酒店は一見八百屋風の店構えに、国内外の地ビール約300種類を取りそろえています。3代目の山岡茂和さん(48)はメーカーを訪ね歩いたり、オリジナルビールを企画したりしてファンを広げ、府外からも客が訪れる地ビールの「聖地」になりました。コロナ禍で売り先が無くなったビールを生かした新商品も企画し、苦境をたくましく乗り切ろうとしています。
目次
入り口に京都産の野菜が並ぶ酒店の中に入ると、日本各地の地ビールが並ぶ冷蔵庫が目にとまります。京都の西陣麦酒や三重県の伊勢角屋麦酒など280~320種類の銘柄を取りそろえています。
京都・西陣に位置する山岡酒店は1930年ごろ、山岡さんの祖父が創業しました。山岡さんも店舗兼住宅に住んでいたため、10歳ごろから配達や集金を手伝いました。年の暮れは大忙し。大学受験の時期も容赦無く駆り出されたそうです。
かつて店の一角は立ち飲みスペースで、まちの人に欠かせない存在でした。山岡さんにとって家業を継ぐことは日常の延長線上にあったそうです。
「大学に通いながら店も手伝っていたので、いつ継いだという明確なものはありません。2000年に大学を卒業したら、そのまま家で仕事をするようになりました」
しかしそのころ、家業を取り巻く環境は大きく変わっていました。
京都でも95年ごろから大型酒販店が進出。03年には酒類販売が原則自由化され、競争がさらに激化しました。
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西陣織の工場の海外移転が進み、バブル崩壊でお酒の消費も減りました。「駅近の飲食店以外は酒のメニューをやめたり、閉めたりする店も多かったです」
山岡さんはじわじわと危機を感じていました。
「米の販売自由化が先に始まっており、酒屋も閉店が相次ぐことは分かっていました。米屋さんは自分の店で精米して店のブランドを構築できますが、酒屋では難しい。とんがった品ぞろえにしないとあかんなと」
山岡さんは酒の展示会に足を運び、お酒の知識を深めました。日本酒に特化して成功している専門店でアルバイトし、どのように店をもり立てているかを学びました。
「20年くらいかけて専門店として道を切り開いた店もあります。どんな風にお客さんに支持されてきたのかを教えていただきました」
当時の山岡酒店の品ぞろえは、大手ビールメーカーや日本酒メーカーの主力商品、地元の酒蔵の日本酒に洋酒が数種類といった感じでした。
「新しく扱う商品を探すにあたり、全ジャンルのお酒に一通り手を出し、全国的な商品ではない個性のある銘柄を探しました」
そんな中、地ビールに目を付けたのはどうしてだったのでしょうか。
山岡さんと地ビールとの出会いは、大学在学中の98年にさかのぼります。地域おこしに関わる恩師に誘われ、岐阜県の地ビールメーカーに足を運びました。
「私も大学時代から地域おこしの団体と縁があり、その時の学びを店の商売に取り入れられないか意識していました。そのとき一緒に地ビール会社に行った友人から数年後、『今度飲み会するから、地ビールを仕入れてくれへんかな』と言われ、うちでも並べてみようと思ったのです」
地ビールの購買層は若い世代が多く、力をいれたいと考えた山岡さん。勉強のために夜行バスに乗り、全国の地ビールイベントに足を運びました。「当時は景気の悪さから試飲会も縮小傾向。『来年はないかも』と思い、遠くてもあちこちに行きました」
醸造所は全国に点在し、試飲の機会も限られます。インターネットで調べ、賞味期限、瓶のサイズ、仕入れ方法などからふるいにかけました。そのリストを中心にイベントで試飲し、徐々に取り扱い点数を増やしました。
地ビールの種類が増えるにつれて売り上げが伸びる一方、大手ビールの商品は売れ残って扱う種類も減りました。10年ごろ、ついに100種類もの地ビールを扱うようになりました。
売り上げは常に安定していたわけではなく、悩む日々も多かったといいます。そこで山岡さんが03年から始めたのが「地ビールの会」(現在は休止)です。会費制で、5〜10種類ほどの地ビールを味比べしてもらうイベントで、地ビールの魅力を多くの人に知ってもらうきっかけになりました。
「1本だけなら買って口に合わなければ次につながりません。でも、5種類試飲できれば、1種類は合うものがあります。最初は月1ペースでしたが、2回、4回と増え、小さなカウンターに20人以上集まったときもありました」
妻の揚子さんとの出会いも、地ビール好きの揚子さんが店を訪れたことがきっかけでした。出会ってからは、2人でビールのイベントにたくさん足を運びました。
揚子さんは「そのころは飲み手が地ビールブームを支えている面がありました。イベントも全員ボランティアで、全国どこでも同じメンバーがビールを注いでいる。飲み手も売り手もワンチームで、気概を持って支えていました」と言います。
仕事を終えて夜行バスに乗ってイベントに参加。またバスで京都に戻り、月曜から仕事ということもしばしばでした。山岡さんはその縁で知り合ったメンバーと一緒に、10年から京都でも「地ビール祭」を企画。全国から醸造所を招き、ビールやフードを楽しむイベントとなりました。
地ビールブームも相まって、15年には800メートルの商店街が人で埋め尽くされるまでに拡大しました。ビールは1日で約4万杯が売れ、その様子は新聞や「琥珀の夢で酔いましょう」という漫画でも取り上げられました(※現在は新型コロナの影響などで休止中)。
山岡さんは家業に入った直後から、地元産の有機野菜や米を扱っています。
「農家さんが直接売りにきてくれる『振り売り』が減ってきたこともあり、扱ってみようと思いました。お客さんの幅も広がるし、八百屋だと思って利用していただいている方もいます」
農家との縁ができた山岡酒店は自らオリジナルビールの製品化にも関わり、08年には「ライ麦ビール」を発売しました。ライ麦を作る農家と知り合い、新潟県の醸造所に依頼して製品化しました。
「ライ麦は京都の気候に合わず、農家も元々は有機農業をするための畑の肥やしとして育てていました。これで面白いビールを作れるんじゃないかと思ったのです」
ライ麦を使ったビールは好評だったそうです。6年間続けましたが、農家の負担が大きくライ麦の栽培をやめたため、現在は販売を中止しています。
20年には創業90周年を記念し、オリジナルビールを作る予定でした。しかし、新型コロナウイルスの影響で醸造所も山岡酒店も苦境に立たされ、実現できませんでした。
「緊急事態宣言中、飲食店に卸していた分の売り上げが9割5分も止まり、行き場のないビールを何百リットルも抱える状況でした」
それでも、醸造家の思いが詰まったビールを廃棄したくないと、余ったビールを用いて生まれたのが「ほどなく」というジンです。岩手県の醸造所の協力で、短期間で蒸留することができるジンを選んで製造しました。店が 「ほどなく」 95年を迎え、「ほどなく」以前のように乾杯できることを願って名付けています。
「うちでは野菜を扱っていますし、ジンなどのお酒にはあまり使われたことがないゴボウを、香りの元となるエッセンス(ボタニカル)として選びました」
コロナ禍で家飲み需要が増えたため、それまで200種類だった地ビールをさらに100種類増やし、店頭販売を強化しました。
「飲食店が主な販売先だった醸造所からも問い合わせもありました。醸造所の方も不安な日々を送っていると聞き、うちで1本でも多く売れたらと思い、仕入れの種類を増やしました」(揚子さん)
店頭販売は好調でしたが、揚子さんが激務で身体を崩してしまいました。山岡さんは夫婦2人で経営するうえで、年を重ねても長く続けることが重要と考えています。
「お酒は液体で重量物ですが、1リットルあたりの単価が安いほどたくさん運ばなくてはいけません。発泡酒や第3のビールが広まり、単価がますます安くなっています。地ビールや珍しい日本酒を扱って単価を上げ、身体の負担もなるべく最小限にして売り上げを維持することを目指しています」
山岡酒店がある上京区と隣の北区では、最盛期は300軒ほどあった酒屋が10分の1ほどになり、残ったお店も多くは後継ぎがいないといいます。
揚子さんは「お酒はスーパーやコンビニで気軽に手に入るけど、作り手に代わってビールの味や香りを伝えられる人はいません。うちは醸造所や蔵元とのつながりがあるからこそ、自信を持って説明できます。来店回数が増えてくればお客様の好みもわかるので、おすすめもできます」と強調します。
大手が「クラフトビール」を売り出すなど、ビール市場は盛り上がっていますが、山岡さん夫婦は「ブームは明日にでも終わるんじゃないか」と気を引き締めます。山岡酒店は希少な地ビールをたくさん扱う商売に力を入れることで、「ここに置いているものは間違いない」という顧客に支持されています。
山岡酒店の客は地ビールが並ぶ冷蔵庫の前で笑顔を浮かべ、時間をかけて商品を選んでいます。商品名だけでなく、スタイル、香りや味の特徴などを詳しく紹介したSNSの入荷情報を見て、飛んでくる人もいます。楽しそうに迷う顧客の姿が、夫婦の活力になっています。
「時代の波があるので、どんなに準備してもうまくいかない方がやっぱり多いんです。だから、一生懸命になり過ぎないことも大切です。この先、どれだけ長く自分の体と心を保ちながら商売するかが大切だと思っています。あとは『これは面白いで』って言えるような商売を続けていきたいです」
山岡さんがピンチを何度も切り抜けられたのは、家業を長く続けるために思考を巡らし、顧客にとって面白いことを考え、努力し続けたからこそです。次はどんなチャレンジをするのか、楽しみでなりません。
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