61年前の1961年8月13日、「ベルリンの壁」の建設が始まりました。

ドイツが東ドイツと西ドイツとで分断され、かつての首都ベルリンも東西で二分していた冷戦まっただ中の出来事でした。

東ドイツが東西ベルリン間を閉鎖したことを伝える1961年8月13日付の朝日新聞夕刊(東京本社版)

東ドイツの共産主義政権が国境警備隊に対し、ベルリン西側の市街地の道路に石でバリケードをつくらせたことがきっかけでした。

その後、国境警備隊は街を横断するように有刺鉄線を張り、西ドイツの支配地域を取り囲む高さ3メートルの壁を建設しました。

ベルリン西部は西ドイツの支配地と東ドイツの支配地との間が壁で分断されることになりました。

 

ヒトラー政権の首都だったベルリンは第2次世界大戦後、戦勝国のアメリカとソ連、イギリス、フランスの4カ国に分割統治されました。

その結果、ドイツはアメリカやイギリスなど西側陣営の西ドイツと、ソ連側の東ドイツに国が割れました。

ベルリンは地理的には東ドイツのなかにありますが、都市の西側だけはアメリカなど西側陣営の影響力が残ったままとなり、「飛び地」として西ドイツが支配を続けていました。

 

1950年代、西ドイツは戦争の荒廃から立ち直って経済成長が続き、人びとの暮らしも豊かになりましたが、共産圏の東ドイツは経済が低迷し、東西ドイツの経済格差が際立つようになっていました。

東西ベルリン間は当時、比較的自由に往来ができ、西ベルリンにたどり着ければ、空路で西ドイツに脱出できたため、ベルリン経由で西ドイツに亡命する東ドイツの市民が続出。

100万人を超える規模に膨らんだため、追い詰められた東ドイツが亡命を阻止しようと壁の建設に着手しました。

ベルリン市内に残る壁の跡=朝日新聞社

西ベルリンをぐるりと囲む壁は全長155キロ。

東京駅-軽井沢駅(146キロ)より少し長い距離です。

ここに293カ所の見張り台が置かれ、壁を越えて越境しようとすると国境警備兵の銃撃を受け、1989年に壁が壊されるまでに132人が犠牲になりました。

「ベルリンの壁」を乗り越え亡命しようとして射殺された人びとの記念碑=1990年3月、朝日新聞社

東ヨーロッパの民主化が進んだ1980年代末、東ドイツでも反政府デモが公然と行われるようになりました。

東ドイツ政府は1989年11月、国外旅行の自由化と、国境の開放を宣言。市民らによる壁の破壊が始まりました。

東ベルリンで「ベルリンの壁」を壊す市民ら=1989年11月、朝日新聞社

そして翌1990年10月、東西ドイツは再統一されました。

ベルリンの壁崩壊から30周年の式典で、犠牲者をいたみ壁の隙間にバラの花を挿すドイツのメルケル首相(当時、奥)=2019年11月、朝日新聞社

ただ、ベルリンが壁で分断され、多くの市民が犠牲になった事実は、統一したいまも深くドイツの人たちの胸に刻まれています。

 

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年8月13日に公開した記事を転載しました)