にんべんは、創業者の初代・髙津伊兵衛が20歳のときに日本橋の一画に戸板を並べてかつお節や塩干の商いを始めたのが始まりです。その後、かつお節問屋を開業し、1720年、現在の本社がある日本橋室町にかつお節の小売店を出したそうです。
「家の中では、大みそかと三が日、七草がゆ、鏡開き、旧正月などは江戸時代から決まった伝統食を続けていました。先代の父に言われ、元旦は当時子どもだった私が家族分のかつお節を削ってお雑煮のだしをひいていました。従業員や生産者の方々がよく自宅にいらしていたので、家業が何をしているのか、触れる機会は多かったです。小学校のとき、先生に『将来何になりたいの?』と聞かれ『家を継ぐように祖母に言われています』と答えていたらしいです」
「そのときは明確にやりたいものもなく、とりあえず大学に進んでその後家業を継ごうと決めました。後から思うと、継がないなら家を出ていけといわれたのはなかなか衝撃でした(笑)」
大量の返品に生じた疑問
大学卒業後は、にんべんと取引が多かった高島屋百貨店に就職し、横浜店に配属されました。先代も若いころに取引先の伊勢丹百貨店で働いていたそうです。
最初の2年間は食器売り場に配属されましたが、催事があるとにんべんの売り場を手伝いました。その後、食料品担当に移り、ギフト用の輸入紅茶やジャムなどのセットパッケージを担当しました。
高島屋で3年間勤めた後、96年ににんべんに入社。まずはいち社員として静岡県焼津市の大井川事業所で、主力商品のフレッシュパック、つゆの素の製造現場を1年間経験しました。
「最初は本物を見る目を養うために工場に配属され、かつお節の選別をしていました。1本1本品質を見て等級分けをする仕事です。大学生のときから、夏休みは1週間生産地に泊まり込みで工場を手伝っていたので、仕事内容は知っていました。その後、営業や総務にも配属され、得意先との関係や社内組織を一通り学びました」
髙津さんが子どものころに訪れた工場には、ギフト用のパッケージが天井につくぐらい積まれていたそうです。中には大量の返品もあり、子供心に「こんなに返品があっていいのかな?」と思ったそうです。
実際、髙津さんが百貨店に勤めていた時代には、お歳暮、お中元などのギフト需要は減り、百貨店の売り上げはどんどん下がったのと同時に、スーパーで販売している家庭用商品の販売構成比が上がりました。
「煎り酒」のリニューアルに着手
その後は、東京の本社で百貨店やスーパーの営業を担当。現場では「にんべんさんのおだし、おいしいね」と言われ、にんべんブランドが人格を持つように接する顧客が多いことに気づきました。
本社勤務時には、商品製造の計画を立てたり、原価計算をしたりする生産管理業務にも付きました。そこでは既存商品のリニューアルや新商品開発などを手がけていきます。
最初に行ったのが「煎り酒」のリニューアルでした。
「煎り酒は元々あった商品ですが、使い方がわからないという意見が多くありました。ところが業務用で出している類似商品は、しゃぶしゃぶ店でつけダレとして使われていてとてもおいしかった。それならもっとちゃんと売りたいと考え、ドレッシングのように色々な料理にかけて使える江戸の味、ということで『江戸レッシング煎り酒』にリニューアルしました」
伝統の味である商品自体は変えず、パッケージや見せ方を変えることで新しく生まれ変わらせました。一時は江戸東京博物館の売店でも販売していたそうです。
社長就任と日本橋の再開発
にんべん創業300周年の1999年、髙津さんは先代から「10年後の創業310周年で社長を譲る」と言われました。まだ28歳でしたが、ベテラン社員や得意先は幼いころから高津さんのことを知っており、先代が早いタイミングで後任について明言したこともあり、一緒に承継へと進みました。
「社長就任前の6年間は副社長でしたが、この期間もほぼ任せて頂いていました。ただ、代表者になると様々な決済の最終判断をしなければならないというプレッシャーがありました。判子を押すのってお金が出ていくことばかりなんですよ(笑)」
副社長の時期に高津さんが担当した大きなプロジェクトが日本橋の大型商業ビル・コレド室町への参画でした。これは、元々にんべんの本社があった一画に巨大な商業施設を作る計画です。
コレド室町に参加すると、所有する土地の面積に応じて一定の専有面積が使えます。それまでの本社ビルよりも容積率が600~700%アップするというメリットがあり、先代が参加を決断しました。
先代からはプロジェクトを託され、大きなプレッシャーの中で取り組むことになります。プロジェクトでは一時的に本社を移転した上で、自己資金で更地にする必要があります。それだけで3億円以上、トータルで10億円の予算が必要だったそうです。
ビッグプロジェクトを手がける中で09年、にんべんは創業310年を迎え、高津さんは13代目の社長に就任しました。
「だし場」が想定外の人気に
10年に一部開業予定だったコレド室町で、にんべんは「一汁一飯」がコンセプトの本店を出店することが決まっていました。同社が権利を持つ場所は14年開業のコレド室町2だったため、先にできるコレド室町1に日本橋本店を用意したのです。
この場所に併設したのが、にんべんが取り扱うかつお節のだしが飲める「日本橋だし場」でした。
ただ、コンセプトの決定には曲折があったといいます。
「ただ商品を売るだけでなく、かつお節を体験してもらい、日々使う機会を増やしてもらいたいと思っていました。ただ、何を出すかがなかなか決まらず、おだしにフレーバーを混ぜてもみましたが、おいしくなくて…。いっそ『だし』をそのまま提供しようという話になりました」
そうしてオープンしたのが「日本橋だし場」でした。
「開業前は1日に数十杯ぐらい出たらいい、と言っていたのですが、オープンしてみたら1日に千杯も出るぐらいに注目を集めました。想定外だったのでおだしを提供するカップのロゴシールを社員総出で毎日千カップ以上貼るような状態でした」
元々は仮店舗の予定だった「日本橋だし場」は、コレド室町のシンボルのような存在になり、今も多くの客を集めています。高津さんは「結果的に日本橋の再開発がだしの価値の再発見につながりました」。
それまでの本社1階にあった店舗の売り上げはギフト中心で年間1億円ぐらいだったのですが、コレド室町全体が開業し、売り上げは3億6千万円まで伸び、事業としてもプラスになりました。
14年、元々本社があった場所にコレド室町2が完成すると、かつお節が味わえる和食店「日本橋だし場 はなれ」を開業。レストラン事業を手掛ける会社と組み、コンセプトづくりから、メニュー、内装まで一緒に作りあげました。
19年にはエキュート品川に、弁当専門店「日本橋だし場 OBENTO」をオープンし、総菜事業にも進出しています。飲食も総菜もかつお節のだし本来のうまみを生かしたメニューを用意し、ビジネスを拡大しています。
十三代髙津伊兵衛を襲名
20年、髙津さんは伝統に倣い、歴代当主の名前である十三代髙津伊兵衛を襲名しました。家庭裁判所に申請し、戸籍名も変更しました。
「ある日本橋の老舗の先輩経営者から『せっかく襲名できる立場だから、襲名したらどうですか?』とお手紙をいただきまして、襲名することを決めました」
創業300年超の老舗にとって、家業を継ぐことは変化を重ねることでもあります。高津さんが幼かったころに感じたように、ギフト市場は縮小の一途。その代わりに総菜を中心とした中食事業に力を入れています。
「百貨店でも、贈答用の乾物の取り扱いなどがどんどん少なくなった一方、デパ地下の総菜や和洋菓子の売り上げは伸びています。スーパーの総菜も合わせると中食市場は10兆円を超えていて、今後も堅調に推移していくと見られます。そこに注力していきたいです」
14年にスタートした飲食事業はコロナ禍で休業も余儀なくされました。今はゆっくりとではありますが、客足が戻り始めているところといいます。
発売開始から60年が経過した主力商品の「つゆの素」もリニューアルを繰り返し、今は発売当初より塩分濃度を下げているそうです。また、03年に発売した、だし素材を1.5倍使った「つゆの素ゴールド」もこの10年、2ケタ成長で人気を集めています。
髙津さんは、だしとスパイスをかけ合わせ、アクアパッツァやバジルチキンといった洋風料理にも使える新しい調味料も開発しました。定番商品を時代に合わせて変化させ、さらに四半期ごとに新しい商品を生み出していきます。
継ぎたいと思える会社に
にんべんは300年前、初代がかつお節を取り扱ったことに端を発し、かつお節を元に作られたつゆの素やフレッシュパックなどに支えられてきました。そして13代目となった高津さんは、飲食・総菜事業、さらに業務用や海外向けの商品開発に注力し、これからのにんべんを支える事業を作ろうと考えています。
老舗ののれんを守ることも大切ですが、それ以上にスクラップ&ビルドを繰り返し、時代に合わせて変化してきたからこそ、次世代につながっていきます。高津さん自身も、息子と今後の会社のことについて話を始めているそうです。
「今の私のモチベーションは、次の人が継ぎたいと思える素敵な会社にすることです。我々の世代は経験を積んで判断してきましたが、今の時代は新しいことが早すぎて、経験がない状態でも判断しなければいけない局面が非常に多いと感じています。昔の経験だけでは難しい。正解がない時代に最適解を求めていくためには、若い人の新しさとともにやっていくのがいいと思っています」