「財務表をみてがく然としました。うちは赤字を垂れ流す状態だったのです。累積赤字は3千万円にのぼりました。原因ははっきりしていました。安すぎたのです。値上げはしないという昔ながらの美徳が仇になった格好でした」
飛田さんは家業入りしてそうそう、単価の見直しに踏み切ります。「もともと安かった上に希少な素材だからできたことですね」と謙遜する飛田さんですが、値上げにあたり、取引先を納得させるだけの努力も重ねてきました。
その工程は脂入れ、乾燥、削り、グレージング(艶出し)、染色、仕上げからなりますが、たとえば文字どおり脂を入れて潤いを与える脂入れは一枚一枚手作業ですし(一般にはドラムと呼ばれる洗濯機のようなマシンで大量に行う)、余分な皮を取り除く削りも、繊維を寝かせるグレージングも、職人芸なしには成立しません。
「当時の仕上がりは素人目にみても出来不出来の差が大きかった。少なくない割合で(表面が)曇るんです。年かさの職人に理由を尋ねれば『革はそういうものだから』というすげない返事でした」
納得がいかない飛田さんは大胆に脂を減らしてみます。余分な脂が悪さをしていると考えたのです。
「グレージングで焦げつき、60枚がパアになりました。職人には『跡取りだからって調子に乗ってんじゃねぇぞ』とすごまれました。謝ってその場は収めましたが、翌日またトライ。試行錯誤を繰り返して季節や革の状態によって異なる適量を導き出し、数値管理する態勢を整えました」
経営の安定が新たな一歩に
意見しようと思えばものづくりを知らなければ始まりません。飛田さんは20代のほとんどを現場で過ごし、すべての工程を体にたたき込んでいきます。一つひとつ課題を克服していった飛田さんが、18年の本社移転を機に採り入れたのはエアコン完備の乾燥室でした。
「梅雨時期はどうしても乾燥が甘くなります。空調を徹底してコントロールすることでこの不具合が解消されました」
値上げももっともな生産背景を構築したレーデルオガワの経営は安定、工場新設の融資も難なく下り、あらたな一歩を踏み出す原資になりました。
「(創業の地である千葉の)流山は人口増が進み、肩身がせまくなりつつありました。建物の老朽化もあって、工業地帯のこの地への移転を決めました。そうして21年に立ち上げたのが『ユニコーン』です」
創業者悲願のオリジナルブランド
「ユニコーン」はコードバンのレザーグッズブランドです。メイン商材のウォレットは2万3100円から8万5800円まで。製造はレーデルオガワとゆかりのある工房が手がけています。繊細なステッチピッチやスムーズな開閉動作からは、熟練の職人仕事がうかがえます。
一般的なレザーグッズに比べれば高価ですが、コードバンを使っていることを考えればむしろ安いくらいです。
「馬の家畜頭数は牛の20分の1とも30分の1ともいわれています。1頭からとれるコードバンは40デシ(デシ=10平方センチメートル)といったところ。数字を並べただけでもいかに希少であるかがおわかりいただけると思います。最終末端価格は世界的に有名な米国のホーウィン社がデシ1400円で、レーデルオガワが900円。牛革なら100円前後であります」
他ブランドではけしてお目にかかれないのがグラデーションを描くコレクションです。
「きれいにグラデーションが入った状態で裁断しようと思えば、コードバン一枚から財布がひとつしかとれません。単色以外の表現方法はないものか、という取引先の注文に応えるべく考案した技法ですが、あまりに高くなってしまい、いまのところ卸には結びついていません」
ブランド名は“UNIQUE ONE”のお尻の“E”をとってユニコーンと読ませました。グラデーションのテクニックを“ユニーク・ワン”なものづくりを目指すオリジナルの目玉に据えたのはもっともなことでした。その技法は百貨店業界のあいだでも高く評価されています。
「オリジナルは(創業者の)三郎の悲願でした。三郎は一枚いくらの工賃仕事から始まっています。利益をとろうと思えば行き着く先はBtoCですからね」
百恵さん結婚式の引き出物に
レーデルオガワは京都の和菓子屋に生まれた小川三郎さんが1973年に創業した会社です。
長じて興味をもったのが軍靴。革に魅せられた三郎さんは京都帝国大学(現京都大学)の農学部皮革製造学科に潜り込みます。教授の手となり足となった三郎さんは助手の座を射止めます。
そこで出会ったのが視察に訪れた陸軍将校が履いていたコードバンのブーツ。ぬめるような光沢に心をわしづかみにされた三郎さんは同僚に宣言しました。「おれはコードバンで食べていく」と。
教授の口利きで墨田区のタンナー(製革業者)に就職した三郎さんはランドセルでおなじみの塗料染めを確立するなど、水を得た魚のごとく活躍。人気歌手だった山口百恵さんが結婚式の引き出物に用意したのはコードバンの手帳でしたが、その革を染めたのも三郎さんでした。
アニリン仕上げのコードバンが誕生したのは1990年のこと。コードバンのスタンダードな染色技法であるオイル仕上げは三郎さんにいわせれば色ブレがあり、光沢感もしっくりこなかった。アニリン染めは牛革業界で考案された染料のみで仕上げる技法であり、革が違えば染色のレシピも道具もそのまま使うわけにはいきません。三郎さんはすべてを一から構築していきました。
供給量の少ないコードバンはタンナーも数えるほどしかありません。先のホーウィン社とレーデルオガワの仕入れ先である新喜皮革が双璧で、ほかはイタリアなどに数社が存在するばかりとなっています。その染色加工に特化したフィニッシャーという業種、ならびにアニリン仕上げのコードバンという商材は世界を見渡してもほとんど唯一の存在です。
三郎さんは2012年に亡くなります。享年83歳の大往生でした。後継者問題に直面したとき(娘の雅子さんの兄が後を継ぐも急死)、名乗りを上げたのが雅子さんであり、その1年後、13年にそれまで勤めていた介護の会社を辞し、家業入りしたのが孫の飛田さんでした。
SNS経由の売り上げが15%に
オリジナル開発と前後して推し進めてきたのが情報発信です。
「業界では革のダイヤモンドなんていわれてもてはやされてきましたが、世間にはほとんどといっていいほど知られていませんでした。知名度が低いところへもってきて、技術の流出を恐れた三郎は取材を受けませんでした」
まずは知ってもらわないことには始まらないと考えた飛田さんは進んで取材に応じるように。3年ほど経ったころ、潮目が変わったのを感じます。一般客からの問い合わせが入るようになったのです。
手応えを感じた飛田さんはみずから情報を発信しようと考え、YouTubeでの配信を開始。といっても予算はありません。飛田さんはMCから撮影、編集までたったひとりで行いました。
「コードバンやアニリン仕上げ、そしてオリジナルブランドの魅力を毎週のようにアップしてきました。はじめのころは1本つくるのに1週間かかった編集作業も5〜6時間で済むようになりました」
著名な映像作家を招いてPVもつくりました。費用は商工会の先輩に教えてもらった小規模事業者持続化補助金を頼りました。
YouTubeの登録者は3500人程度(23年7月現在)とそれほど多くはありませんが、業界内でみれば優秀な数字です。経営にも貢献し、SNS経由の売り上げは全体の15%を占めるまでに。BtoBの反響もあり、熱烈なラブコールが舞い込むようになりました。まだまだ規模は小さいものの、海外からも引き合いがあるそうです。貿易実務は専門の業者に委ねています。
大手百貨店でポップアップストア
「ユニコーン」は現在、百貨店でもおなじみのブランドになりつつあります。立ち上げて1年足らずでおひざ元の柏高島屋と銀座三越でポップアップストアを開催しました。業界関係者の橋渡しもありましたが、コードバンはなんといっても革のダイヤモンド。バイヤーにとっても、のどから手が出るほど欲しい商材でした。
飛田さんは宣伝費と割り切ってコードバン・グッズのプレゼント企画をぶちあげます。この大盤振る舞いもあってSNSのみの告知にもかかわらず開店前から行列ができました。急きょ前倒しして店開きをしましたが、終わり時間になっても客の波が引くことはありませんでした。
「秋には日本橋高島屋に出店する予定です。体の許すかぎり出ていきたいんですが、年に2〜3回がいいところではないでしょうか。いかんせん工場から目が離せないので」
技術継承に向けた一手も
飛田さんの1日の大半は生産管理で終わってしまいます。
「数値管理をするようになったとはいえ、どうしたってずれが生じます。野球やゴルフを考えてもらえばわかりやすいと思うんですけれど、おんなじスイングをしていてもその日の体調や気候で微妙に変わってきますよね。俯瞰してみることのできるコーチの存在が革づくりにおいても欠かせないんです」
生産現場では技術の継承を視野に入れた次の一手も打っています。レーデルオガワに在籍する職人は5人いますが、ベテランと若手を2人ひと組にしてひとつの作業に当たらせる態勢がそれです。
「きっかけは、昨年(22年)暮れにあった工場長のバイク事故。彼が休んだ数カ月は代わりに現場に立ちました。工場長も50(歳)を超えました。あと10年もすれば次の世代にバトンタッチしなければなりません。良いタイミングでした」
逆境にもわきでるアイデア
順風満帆にみえるレーデルオガワですが、水面下では深刻な事態に直面しています。23年のコードバンの供給量が3割減となる見込みなのです。年々生産量が減少するなか、世界的な争奪戦が勃発したためです。
「肉の消費量が減れば皮も出ません。食肉文化の副産物ですから当然といえば当然であり、我々が誇りとするところですが、商売する人間にしてみれば厳しい状況です」
上半期は思わぬオファーで一息つくことができました。
「材料が足りないのは取引先も同様です。倉庫に眠っていたコードバンを染め直してほしいという依頼がありました。狭い業界ですから噂はすぐに広まり、これまでに4社の注文を受けました。減産分を補ってくれた格好ですが、本質的な解決にはいたっていません」
しかし、「やりたいことが次から次へと出てくる」と話す飛田さんに悲観したところはありません。
「まずは『ユニコーン』を一本立ちさせること。さしあたって工場に直営店をオープンしたいと思っています。製造現場が見学できるツアーも計画しています」