目次

  1. 継ぐことは考えていなかった
  2. NYでレストランマネジメントを学ぶ
  3. 「僕にやらせて」と後継に名乗り
  4. カリスマ経営に感じた課題
  5. 挑戦ができる環境を用意
  6. スタッフ発案で中華バル開店
  7. 店舗拡大で人材開発を加速
  8. スタッフの独立も支援
  9. 2代目はパッションが大事

 希須林は1980年、京都の名店で修業した小澤さんの父・弘之さんが埼玉県杉戸町で創業しました。1986年、実家のある東京・阿佐ヶ谷に移転しています。現在は東京の青山、麻布台、長野県軽井沢町などに店を構え、40人(パート・アルバイト含む)のスタッフを抱えています。

 創業当時から一般的な町中華とは異なるモダンなインテリアで、高級感のあるたたずまいだったそうです。小澤さんは子どものころを次のように振り返ります。

 「学校から帰って店に行くと、おいしい天津飯や酢豚を食べていました。お客さんがすごく幸せそうに食べて帰る姿を見て、幸せな仕事だなと感じていましたね。ただ、両親は朝から晩まで働いていて大変な仕事とも思っていたので、継ぐことは考えていませんでした」

創業当時の希須林。写真中央が創業者の小澤弘之さん(希須林提供)
創業当時の希須林。写真中央が創業者の小澤弘之さん(希須林提供)

 両親からも「好きなことをしたらいい」と言われて育った小澤さん。米国の高校と大学に進みましたが、このときは将来の目標が見つからず帰国し、日本料理店でアルバイトを始めました。

 「そこで飲食店のサービスの楽しさに気付かせてもらいました。家業を継ぐことまでは考えていませんでしたが、このまま飲食店の道に進むだろうなと思いました」

希須林名物の担々麺
希須林名物の担々麺

 小澤さんはフードビジネスを学ぼうと再び渡米。世界最高峰の飲食店が軒を連ねるニューヨークで、レストランマネジメントの専門学校に入学します。そこで学びながらレストランの調理場やホールで約1年間働きました。

 「ニューヨークには様々な人種の人が集まってエネルギーがあり、流行っているレストランもたくさんある。日本とは異なったマネジメントが学べると思いました」

 帰国後は、飲食業で働く前に異業種での経験も積もうと、デザイン会社に入社し、2年ほど働きました。「この先、飲食業を営む上でデザインなどのセンスは絶対必要だと思いました。今、店のメニューは全部自分で作っていますが、その時の経験が生きています」

小澤さんはニューヨークでの経験とデザイン会社での勤務が糧になったと語ります
小澤さんはニューヨークでの経験とデザイン会社での勤務が糧になったと語ります

 小澤さんは2008年、デザイン会社を辞めて家業の希須林に入りました。そのときは後継者としてではなく、いち従業員としてホールを担当しました。このときも後を継ぐというより、どこかのタイミングで独立することを考えていました。

 しかし、入社から1、2年したある日、先代との雑談の中で「(店の)10年先が見えなくなってきた」といわれました。

 昔の感覚の経営では、時代の変化についていていけず、ロングスパンでの方針が定められない。先が見えない中で店を経営するのは難しく後継者を探さないといけない、ということでした。

 小澤さんは父に「もしお店を辞めるなら、僕にやらせてください」と伝えます。31歳のときでした。

 「父は、僕が子どものころから何かをやりたいと言ったら絶対にノーと言わない人で、お店に関しても『やりたい気持ちがあるならやればいい』といってくれました。向こうから『継げ』といわれていたら継いでいなかった気がします」と笑って振り返ります。

希須林の天津飯は、小澤さんの思い出のメニューです(希須林提供)
希須林の天津飯は、小澤さんの思い出のメニューです(希須林提供)

 2011年、先代は代表権を持たない会長となり、小澤さんが代表取締役に就任します。 「父の代からの従業員の皆さんは優しくて、代替わりをすんなり受け入れてくれました」

 当時は、阿佐ヶ谷(現在は閉店)、青山、そして担々麺専門店の赤坂の計3店舗を経営していました。

 ただし課題もありました。店は決して赤字ではありませんでしたが、店舗の内装などにもかなりコストをかけていたこともあり、利益率が低い状態でした。どんぶり勘定の部分もあったそうです。

 また、創業者である先代のカリスマ性で店を切り盛りしてきたこともあり、現場で一人ひとりが店のことを考えて動く力がない状態だったといいます。

 「父の時代は飲食店がそれほど多くなく、トップダウンでやっていけました。しかし、今は飲食店がひしめきあっています。そんな中で戦うには、父のようなカリスマ経営ではなく、みんなでアイデアを出して行動する店にしたいと考えました。ただ、それまでは父の言うことを聞いて入ればよかったので、意識改革が難しかったです」

 そこで小澤さんは毎月、各店舗の店長や責任者が集まるミーティングを始めました。新メニューのアイデアを出し合い、お客さんからの反応などを共有して、新たな挑戦ができる場を作り出しました。

 スタッフに「失敗してもいいから挑戦してほしい」と伝え続けたことで、ゆっくりとですが、クリスマスメニューやバレンタインの特別メニューなどのアイデアも出てくるようになりました。

 少しずつ小さな成功を体験してもらい、それらを実行し続けることでスタッフの意識を変えていきました。

 「うまくいかなくても責任は僕がとればいい。最終確認はしますが、各店舗でメニューが違ってもいいと思っています。実際、担々麺でも、赤坂と青山では少し味が違います。それは、落語の演目が同じでも、噺家さんごとに表現が異なるのと同じようなものです」

従業員とのミーティングで、意思疎通を図っています
従業員とのミーティングで、意思疎通を図っています

 小澤さんが経営を引き継いでから約15年。その間に売り上げは入社時から1.3倍にアップし、利益率も改善して経営は安定しました。2009年に長野県軽井沢町、2023年には東京・麻布台の商業施設内に新店舗を開くなど、事業拡大を進めています。

2023年にオープンした「希須林 麻布台」。平日のランチには行列ができます
2023年にオープンした「希須林 麻布台」。平日のランチには行列ができます

 新しい挑戦の成功例とも言えるのが、2017年、東京・神楽坂にオープンした中華バル「jiubar」です。名前は中国語でバーを意味する「酒吧(ジュウバ)」にBarをかけ合わせたものです。

 中華料理をつまみにお酒が飲めるという新業態は、スタッフのアイデアから生まれました。これまでの希須林はすべて食堂業態で、お酒をメインに売るお店はなく、「お酒の店をやりたい」というスタッフを店長に据えてスタートしました。オープン当初はやや苦戦しましたが、現在は繁盛しているといいます。

神楽坂にオープンした「jiubar」。肉団子やゆでワンタンなどの中華料理をつまみにお酒が楽しめます
神楽坂にオープンした「jiubar」。肉団子やゆでワンタンなどの中華料理をつまみにお酒が楽しめます(希須林提供)

 いったん閉店した阿佐ヶ谷店も現在、本格再開に向けて準備中です。すでに内装まで完了。現在は週末のみ、テイクアウトの惣菜の店を営業しており、今後、コースのお店やバー営業などを計画しています。

 組織改善が進んだ希須林ですが、今は居心地がよすぎるのも課題だと、小澤さんは受け止めています。上下関係を無くし、それぞれの考えを共有するフラットな経営を目指してきましたが、それは「家族的、友達的なゆるさ」とも裏腹です。

 「厳しい上下関係は不要ですが、やはり緊張感は必要です。具体的に問題が起きているわけではありませんが、ゆるさがアルバイトにまで広がってしまったり、、叱るべき時にも叱れなくなったり、というようななあなあの関係になるのが怖いですね。今後はもう少し、ピリッと感を出さなければいけないと考えています」

 今後、成長戦略と人材開発を加速させるため、小澤さんは店舗のさらなる拡大が急務だと考えています。希須林には先代時代からのスタッフが数多くいます。そういったメンバーが、店長や料理長になるには新たな店が必要です。「希須林 赤坂」のような担々麺専門店のチェーン化や、FC(フランチャイズ)化なども視野に入れています。

黒酢酢豚も人気メニューです(希須林提供)
黒酢酢豚も人気メニューです(希須林提供)

 また、小澤さんはスタッフの挑戦心を高めるため、独立支援にも力を入れたいと考えています。

 「いつまでも雇われの立場で鍋を振り続けるのは大変です。スタッフが歳をとったときに自分のペースで働けるようなお店を持てるように独立を支援したいと思っています」

 実際、東京・六本木の中華料理店「52」(ゴニ)は、元々は希須林が開業し、賃貸契約が完了したタイミングで、シェフに売却する形で独立しました。

 「希須林で働けばいつか自分の店を持てるかもしれない」といった環境を用意することも、近年の人手不足の環境下での人材獲得につながると考えています。

 かつてレストランマネジメントを勉強したニューヨークへの進出も、小澤さんの目標です。2017年には1カ月限定で、担々麺の店を出店しました。そのときは先代にも店に立ってもらったそうです。その後の出店計画は、コロナ禍の影響でいったん休止していますが、いつか再起動したいという意気込みです。

希須林で料理の腕を磨いたスタッフの独立も支援する考えです(希須林提供)
希須林で料理の腕を磨いたスタッフの独立も支援する考えです(希須林提供)

 小澤さんが「希須林は個人店の集合体です」と話すように、各店にかなりの部分の裁量を任せています。そして各店舗がいい意味で競い合い、刺激しあう環境を作りあげています。

 そうした経営スタイルは先代とは全く異なるものです。小澤さんは今も店舗のオープンや閉店を決断するときは、先代に報告や相談をするそうですが、大きく反対されることはありません。

 「2代目はどうしても先代と比べられます。それは仕方がないので、気にしないことです。ただ、継ぐときはそれなりの覚悟がないとメンタル的に厳しくなります。創業者に負けないぐらいのパッションで動かないとダメだと思います」

 今後は、同じ形態の希須林を増やすのではなく、地方の名産品を使った店など、個性のある店を広げていきたいと意気込んでいます。