「強みがないと淘汰される」からのおばあちゃんブランド 富岡食品の着眼点

廃業が相次ぐ豆腐業界で、2008年に富岡食品(埼玉県深谷市)の5代目社長に就任した冨岡宏臣さん(50)も債務超過に頭を悩ませていました。活路を見出したのが、加工工数が多くてほかの豆腐メーカーが敬遠しがちな、いなり寿司の皮とがんもどきです。選択と集中を進め、祖母セキさんをイメージしたオリジナルの商品を生み出した結果、10年間で50%の売上増加を達成。債務超過を解消し、さらに海外への拡販にも挑もうとしています。
廃業が相次ぐ豆腐業界で、2008年に富岡食品(埼玉県深谷市)の5代目社長に就任した冨岡宏臣さん(50)も債務超過に頭を悩ませていました。活路を見出したのが、加工工数が多くてほかの豆腐メーカーが敬遠しがちな、いなり寿司の皮とがんもどきです。選択と集中を進め、祖母セキさんをイメージしたオリジナルの商品を生み出した結果、10年間で50%の売上増加を達成。債務超過を解消し、さらに海外への拡販にも挑もうとしています。
富岡食品は1926年に町の納豆店として創業しました。戦後になると大豆の加工食品である豆腐の製造を開始し、高度経済成長期には地元のスーパーへと販路を拡大。さらに、油揚げを開発し、同業者のOEM製品も手がけるようになりました。
5代目となる冨岡宏臣さんは、会社が拡大を始める1975年に生まれました。長男の冨岡さんは、父・守さんから「家業を継いで欲しい」と言われたことはありませんでしたが、受け継いで欲しいという雰囲気を感じ、後々に家業を継ぐことを意識するようになります。大学卒業後に長野県の食品メーカーへ就職。製造と営業の仕事に携わり、社会人としての基礎を学びます。
後を継ぐことを決めたのは25歳の時でした。長野県の食品メーカーで働いていた冨岡さんに父親の守さんから『直接話をしたい』と電話が届いたのです。
「電話で詳細は話しませんでしたが、深刻な雰囲気だったことを覚えています。それから当時住んでいた長野県のアパートまで父と母が来て、父から『国指定の難病を患ったからゆくゆくは会社を継いで欲しい』と相談をされたんです。脊髄小脳変性症という徐々に身体が動かなくなる神経の病気です。真剣に会社のことを考えて、後を継ごうと覚悟を決めました」
2000年に富岡食品へ戻った冨岡さんは、製造の部署へと配属になります。食品メーカーの根本となる製品の作り方や製品のラインナップについて学び、30歳で部長職に就きました。
原価などの生産に関する数値を見るようになりましたが、33歳の時に先代の社長・守さんが亡くなります。社長を継いだ冨岡さんは、財務状況を見て、予想以上に会社の経営がギリギリだったことを理解しました。
「毎年の業績を見てみると赤字と黒字をいったりきたりしていて、債務超過もありました」。社長交代をきっかけに一部のベテランの社員も会社から離れ、信用不安を感じた仕入先や販売先との取引量も一時的に減りました。
混乱しつつも事業の立て直しを図らないといけません。この時に支えになったのが20代から30代の若手社員でした。
「先代が将来を見据えて若い社員の採用に力を入れていたんですよね。当時の正社員80人のうち20人くらいは20代から30代の社員でした。正直に会社の状況を伝えて、『それでも頑張って立て直していきたい』と告げたんです。『一緒にやっていきましょう!』と言ってもらえて。それが救いになりました」
この時に冨岡さんはチャレンジしやすく、風通しのいい組織文化を作ろうと考えました。会議の発言を否定せず肯定的な反応を示し、意見を伝え合うことのできる環境を整えていきます。会議では冨岡さんが率先し、発言に肯定的な反応を示すように心がけました。
当時の富岡食品の主力製品は豆腐と油揚げで、販売先の60%は同業者でした。メーカーから大量の発注をもらい、価格を抑えて製品を作るーーつまり、OEM商品が事業の柱です。
OEM商品のメリットは安定した発注数量をもらえるため、工場の稼働率が安定する点にあります。デメリットは価格を抑える努力を続けなければならず、自社ブランドの認知が広がらないことです。
冨岡さんが社長を継いでから少しずつ業績は回復していましたが、4年が経っても債務超過を解消する見通しはまだ見えませんでした。「自社の強みを見つけないと淘汰される」と危機感を募らせた冨岡さんは自社製品を開発する必要性を感じます。
「会社を継いでからの数年間は業界内の会社を参考にしていました。ただ、それだといけないと気づいたんです。お客様の方向を向いた唯一無二な製品を開発しなければいけないと思いました。参考にしたのがバイヤーの意見です。いなり寿司の皮やがんもどきをおいしいと言ってもらえる機会が何回もあったので、この2つがうちの強みなんだなと思って。いなり寿司の皮とがんもに特化した製品を開発しようと決めました」
富岡食品のブランド名で販売していた商品の売上比率は15%程度でした。この比率を押し上げようと考えていた冨岡さんに追い風が吹き始めます。2012年、全国展開する大手のスーパーからいなり寿司の皮の共同開発の依頼が舞い込んだのです。
「『鍋でぐつぐつ煮込んだいなり寿司の皮を食品メーカーと設備メーカーと共同で量産化したい』という依頼でした。いなり寿司の皮は、油揚げを調味料に浸して作ります。油揚げは、うすい豆腐から水分を抜いて油で揚げた製品です。豆腐よりも加工工数が多いため、豆腐メーカーからは敬遠されがちなのですが、今回の依頼はさらに製造工程が増えるものでした。設備導入による製造工法の開発も必要です。他のメーカー数社に断られたことでうちにオファーを出したと聞きました」
数行の銀行に断られながらも借入を行い、設備投資の資金を確保し、新商品の開発がスタートしました。しかし、開発は順調に進みませんでした。
新しい油揚げは、釜で煮込む工程が発生します。この際に破れることが相次ぎ、量産工法の確立に苦戦します。ただ、冨岡さんが社長に就任してから、注力してきたフラットに意見を交換し合う文化ができていたことから、部署間の対立はありませんでした。そして、2年の歳月をかけた頃に「釜炊きいなり」の開発に成功したのです。
開発した製品には「おばあちゃんのいなり」と名づけ、パッケージにもおばあちゃんのイラストを採用しました。
おばあちゃんと名づけたのは、宏臣さんの幼少期の原体験が理由です。祖母であり3代目の冨岡セキさんが家でいなり寿司を作ってくれた味を忘れられなかったことから、この名前に決めたといいます。
「小学校の時にうちに帰ると祖母があまじょっぱいいなり寿司を作ってくれていたんです。小腹が空いていた時によく食べさせてもらっていました。家に呼んだ友人と食べたりしていた思い出の味です」
スーパーでの販売価格は以前に販売していた価格の1.5倍以上です。それにもかかわらず他社のいなり寿司の皮よりも売れるヒット商品となりました。店舗で釜炊きいなりを見た別のスーパーからの問い合わせも発生し、販路も拡大しました。
さらに、この時期に富岡食品は自社のいなりを使ったいなり寿司店をオープンします。店名は「富ばあちゃんのいなり本舗」。埼玉県・深谷市のロードサイドに店舗を構え、自社のお揚げを使った15種類のいなり寿司を販売しました。いなり寿司というニッチなジャンルにも関わらず、店舗には初年度から4万人以上もの人が訪れました。
「ブランドを確立するには消費者の方にいなり寿司を身近に感じてもらう必要があると思い、自分たちの製品を発信するための店舗を作りました。この店舗でいなりを食べたバイヤーさんから連絡をもらい、新たな取引につながることもあります」
がんもどきの開発も釜炊きいなりの開発と同時に始めました。2012年には地元特産の深谷ねぎを100%使用した「深谷ねぎがんも」を生み出しました。
「大豆とねぎの相性っていいんですよ。大豆製品であるみそ汁にはねぎを入れますし、冷奴にもねぎをかけますよね。『大豆食品のがんもどきにもねぎは合うはずだ!』と思って開発を進めました。開発の期間は短かったのですが、がんもどきは食卓に馴染みがないので、地元のスーパーに採用いただくまでに5年以上かかりました」
スーパーのショーケースに並んでからの「深谷ネギがんも」はファンを生み出すことに成功します。他のメーカーのがんもどきよりも2倍近い価格ですが、バイヤーからは「値上げしてもいいから絶対に製造を続けてほしい」と言われる製品になりました。また、地元のスーパーで販売しているのを見た他社からも引き合いを受け、販売するスーパーも徐々に増えていきます。
さらに、冨岡さんはがんもどきの魅力を広く知ってもらうために新しい戦略を採ります。2024年11月、「おばあちゃんの稲荷本舗」と同じ敷地内に「富じいちゃんのがんも屋」をオープンしました。「いなりにおばあちゃんを採用したので、がんもどきはおじいちゃんにしてみました」と笑顔で続けます。
「がんもどきは食卓との距離があるので、食べ方の提案が必要だと思いました。『深谷ネギがんも』を使ったハンバーガーやホットサンドを販売しています。いなり寿司店のオープン時より苦戦していますが、徐々に上向いていくようにしたいですね」
釜炊きいなりの開発と販売とともに富岡食品は新たな創業期を迎えたと言えるほどの成長を果たしています。採算を取るのが難しいOEM商品の一部から撤退しつつも約10年で50%以上売上を伸ばし、コロナ前には債務超過を解消。経常利益は10倍以上になりました。
選択と集中に成功することができた要因として、冨岡さんが他社のやらないことと自社の強みの重なる部分に活路を見出した点にあります。「釜だきいなりは現場目線で見ると製造の課題はどうしても多くなります。でも成功すれば自社の唯一無二性につながるんですよね」
国内市場に投入する製品は完成し、富岡食品のブランドも確立しました。今後は海外への展開にも注力していきたいといいます。
「富岡食品の海外の売上比率は約3%ですが、将来的には15%にまで伸ばしていきたいです。ベジタリアンやウィーガンが一般的な海外では植物性の食品であるプラントベースフードの注目度が上がっています。がんもどきは精進料理でお肉の代わりに使われていた商品なのでプラントベースフードの元祖ですし、提案できることも多いと思います。なによりヨーロッパやアメリカでは和食ブームです。いなり寿司も受け入れられる土壌は大きいと思います」
2025年に富岡食品は創業100年を迎えます。今後も会社の歴史を紡ぐために冨岡さんが大事にしていることは社員です。地方の食品メーカーは平均年齢が40代後半におよぶことも多いですが、約200人いる富岡食品の社員の平均年齢は36歳です。
「中小規模の企業だと新入社員の採用を継続して行うのは難しいんですよね。でも、私自身、後を継いだ時には先代が採用した若手社員に支えられました。将来を担う社員を採用し、これから150年、200年と続く会社を作っていければと思います」
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