目次

  1. 従業員300人のグループを率いる
  2. パイオニアの祖父との思い出
  3. 明るく楽しかった「鉄人」
  4. 「鉄人」がきっかけで中華の道へ
  5. ゼロから始まった修業の日々
  6. 緊張感が続く現場でもまれて
  7. 初めて使った「特権」
  8. 自ら志願して中国留学へ
  9. 会社経営に感じていた課題

 「鉄人・陳建一、わずか1点差で敗れました!」

 1999年、人気テレビ番組「料理の鉄人」の特番「最強鉄人決定戦」で、「中華の鉄人」建一さんは、「フレンチの鉄人」坂井宏行さんと激戦を繰り広げました。結果は小差で坂井シェフの勝利となりました。

 勝負が終わり、お互いをたたえ合うように熱く抱擁した姿は、多くの視聴者に興奮と感動を呼びました。

 そしてその瞬間、料理人になることを決意した一人の若者がいました。彼の名は陳建太郎。建一さんの長男です。

 四川飯店は1958年、建太郎さんの祖父で四川料理のパイオニアとして知られる建民さんが創業。その後、建一さん、建太郎さんへと経営のバトンが渡されました。

 現在の四川飯店は国内12店舗、年商15億円、社員数300人を誇る一大グループで、建太郎さんは、運営会社・民権企業(東京都千代田区)の代表取締役を務めています。

赤坂四川飯店のエントランス(四川飯店提供)

 1979年生まれの建太郎さんは、祖父・建民さんとの思い出もたくさんあるといいます。

 「祖父は僕が12歳の時に他界したのですが、人をもてなすこと、食べることが大好きな人でした。友達が遊びに来た時も、『こんにちは』の代わりに『ご飯食べた?』があいさつ代わりだったくらいです」

 そんな祖父の姿を見て育った建太郎さん。ある時、驚くべき光景を目の当たりにします。

日本の中華料理のパイオニアでもある陳建民さん(四川飯店提供)

 「中国の方がよく遊びに来てたんですけど、ある日、どこで釣ったか分からないような大きなコイを持ってきて、それを油で丸ごと揚げたのです。これにはびっくりしましたね。その後みんなでおいしく食べました。そんな楽しい思い出がいっぱいあります」

 祖父も根っからの「エンターテイナー料理人」だったようです。

 建民さんの息子の建一さんが後を継いで四川飯店の代表を務めながら、93年からフジテレビ系で放送された「料理の鉄人」にレギュラー出演。黄色いユニホームの「鉄人」として一世を風靡しました。

 料理人として鍋を振るって会社を経営し、鉄人としてテレビにも出る建一さん。多忙な父は、建太郎さんにとってどのような存在だったのでしょうか。

 「父は家族のためにたくさんの時間を作ってくれました。家族旅行に出かけた思い出もたくさんありますよ。とにかく僕には甘かったんですけど(笑)。家の中でもあのままで、テレビに映っている姿と何も変わらず明るく楽しい感じでした」

 父からは「自分がやりたいことをやりなさい」と言われ、自由に育ったそうです。

 建太郎さんは両親と同じ玉川大学に入学し、フランス語を専攻します。当時はフランス料理に興味がありましたが、料理の経験はイタリアレストランでのアルバイト程度でした。

 しかし20歳のころ、「料理の鉄人」の「最強料理人決定戦」に出る父を応援するために、初めてスタジオ観戦に行き、運命が大きく動きました。

 「坂井シェフにあこがれていたので、この2人が対決するというだけでドキドキして、現場はものすごい迫力でした。でも、勝負が終わって熱くたたえ合う二人を見て、すごいなあと感動してしまって。勝敗ではなく、料理を通じてたたえ合うことがとても良いなと思ったのです。その瞬間、自分も中華料理の道に進むことを決意しました」

 四川飯店名物として知られる「麻婆豆腐」(四川飯店提供)

 建太郎さんは01年、四川飯店グループを運営する民権企業に入社します。しかし、配属されたのは父のいる「赤坂四川飯店」ではなく、「スーツァンレストラン陳 渋谷」の厨房でした。

 息子をあえて離れた店舗に配属させたのは、父の優しさと厳しさでしょうか。陳建一の息子だからといって特別扱いはされず、下積みが始まりました。

 「本当にゼロからのスタートでした。最初は料理ではなく、雑用や洗い物の担当です。当時は先輩に飲み物を出さなければならなかったのですが、20人くらいいる先輩全員の好みを覚えるのが大変でした。あと、四川料理は香辛料や調味料が多いのですが、それをどこに置くかも細かく、覚えることが多くて大変でした」

 まさに職人の縦社会。そして徐々に料理の下準備を担当するようになります。

 「例えば担々麺に入っているゴマを煎る作業も、中華鍋を持つ左手と右手を上手に使わないと均等に火が通らないんです。ゴマが焦げてしまうと失敗ですが、最初はそれが全然できなくて・・・」

 どんな華やかな料理も地味な作業の積み重ね。一つでも失敗してしまうと、その料理は台無しです。

 建太郎さんが先輩から言われた中では「お前はなぜ、そこですみませんの一言が言えないんだ」という言葉が印象に残っているといいます。

 「何かミスをしたときは、素直に謝ることがとても大事だと教わりました。料理はチームワークで作るもので、自分一人のミスが周りやお客さんにも迷惑をかけることになるからです」

 高い緊張感が続く現場で、建太郎さんはもまれました。「当時は1日をどう生き延びるか、ということだけを考えていました。毎日がサバイバルでしたね」

 それでも若さのエネルギーは偉大です。

 「でも、終わったら遊びに行っちゃうからダメなんですよね(笑)。みんなで明け方まで遊んで店に帰ってきて、余った素材でこっそり研究してみたりとか。今ではちょっと難しいですけどね。あの時間があったから仲間との絆も深まり、成長できたのかなと思います」

 偉大な父を持つことがプレッシャーにならなかったのでしょうか。

 「入社した当初からプレッシャーはありました。何もできないのに、周りは『こいつ陳建一の息子』って見るわけじゃないですか。自分一人、猛獣の檻に入れられたように感じました。俺は大丈夫か。父も祖父もとんでもない猛獣使いだったのかと」

インタビューに答える陳建太郎さん

 そこに予期しない事態が発生します。

 「入社してから2~3年の時、父が肺がんで倒れたのです。入社以来最大のプレッシャーを感じました。まだろくに料理もできない、中国語も話せない自分は、これからどうしたら良いのかと」

 幸運にも建一さんは回復し、現場に復帰します。そこで建太郎さんは父にお願いをしました。

 「中国に留学させてくださいと。ある意味、初めて〝特権〟を使いました」

 本場で修業を積み、「本物」になりたい。

 そう考えた建太郎さんは中国四川省成都にある四川大学に留学しました。大学では中国語を専攻し、夜は「卞氏菜根香」という現地のレストランで働き始めます。

 「気がつけば料理も中国語も、厨房で覚えました。留学した2年半は本当に濃厚な時間を過ごしたと思います。おかげで僕の中国語は四川なまりが付いてしまいましたが(笑)」

 日本に帰国した建太郎さんは、再び「スーツァンレストラン陳」の厨房で働き始めました。

修業時代の陳建太郎さん(右端)(四川飯店提供)

 このころは、後継ぎとして経営者の目線は持っていたのでしょうか。

 「いや、全然持っていなかったです。ずっと現場でやってきたので」

 厨房で鍋をふるう現場と会社経営とでは全く違う。建太郎さんはそう思いつつも、会社組織としての課題も感じていました。

 「うちの会社は人があって成り立っているのに、評価するという面が弱いなあ、と感じていました。年功序列というか、みんな同じように給料をもらって昇級していく仕組みですが、毎日激務の人とそうでもない人との評価が同じだったのです。これだと不公平で切磋琢磨できず成長につながらないんじゃないかと。自分が年齢を重ねるごとにそう感じることが多くなりました」

 そしてついに、四川飯店の3代目になる日が来ました。

 ※後編では、経営を継いだ建太郎さんが行った全社アンケートや経営理念の策定といった組織改革、新型コロナウイルスの影響や対応について迫りました。