目次

  1. 江戸時代から続く「地域の台所」
  2. 「30になったらやめる」と宣言して就職
  3. 地場産品を応援
  4. 火の海を見ながら悩んだ
  5. 青空市で「びはんやってます!」
  6. 台所としての機能を回復
  7. 「山田」の名を冠した商品で魅力発信
  8. 支えになった山田湾の美しさ

 岩手県沿岸部の中央に位置し、豊かな漁場に恵まれた山田町。江戸時代末期にルーツを持つびはんは、「地域の台所」として長年親しまれてきました。「びはん」という屋号は「尾張の国から来た半蔵さん」が商売を始めたことに由来するとされています。

 スーパーをはじめたのは間瀬さんの祖父の代から。震災前には従業員約100人を抱え、町中心部の二つのスーパーやガソリンスタンドを運営していました。

  「町内で(うちの店を)知らないひとはまずいない。子どものころは外で遊んでいても、まわりの大人に『びはんの息子』とからかわれ、ちょっと恥ずかしい気持ちもありました」。親から店を継ぐように言われたことは一度もありませんでしたが、「いずれ自分が店を継ぐ」という意識はうっすらあったといいます。

貝の養殖いかだやはえ縄が並ぶ、山田町の山田湾(2005年12月、朝日新聞社撮影)

 高校卒業後は青森県の弘前大学理学部に進学。「能力がないまま実家に帰ってもだめだな」と感じ、卒業後は小売り大手のイオンに就職。スーパーのマックスバリュに配属されました。すでに実家に戻ることを決めており、入社試験のときから会社に「30歳になったらやめます」と正直に伝えていたそうです。

 入社後は長野、千葉、埼玉の各県で計4店舗を経験しました。いずれも鮮魚売り場を担当し、魚のさばき方や売り場の作り方、顧客へのおすすめの仕方など多くを学びました。千葉県習志野市では新店のオープンを担当。新店の売場作りや、スタッフの教育など、ゼロから店を立ち上げる苦労を経験しました。「きつかったけどすごく勉強になりました。震災後も実家の店をたて直せたのは、このときの経験があったからです」と振り返ります。

 30歳手前となった間瀬さんは実家に戻るため、間もなく辞めることを会社に告げました。すると、最後の1年は地元に近い岩手県紫波町の店舗で副店長を務めることに。鮮魚担当を離れ、副店長として店全体を見渡したとき、間瀬さんはあることに気づきました。「すぐ近くにたくさん酒蔵があるのに、なんで地場のものが売っていないんだろう」。

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