火の海を見て誓った復興 青空市から立ち上がったスーパー8代目の3.11
岩手県沿岸部の山田町にあるスーパー「びはん」は、東日本大震災による津波に店がのまれながらも、数日後には青空市で事業を再開しました。当時大手スーパーから転身して間もなかった8代目の間瀬(ませ)慶蔵さん(44)は、店の立て直しや移転に奔走しながら、土産物の開発などで町の魅力発信にも取り組みました。震災10年となる2021年には父の後を継いで社長に就任。中核企業として町の復興を引っ張り続けます。
岩手県沿岸部の山田町にあるスーパー「びはん」は、東日本大震災による津波に店がのまれながらも、数日後には青空市で事業を再開しました。当時大手スーパーから転身して間もなかった8代目の間瀬(ませ)慶蔵さん(44)は、店の立て直しや移転に奔走しながら、土産物の開発などで町の魅力発信にも取り組みました。震災10年となる2021年には父の後を継いで社長に就任。中核企業として町の復興を引っ張り続けます。
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岩手県沿岸部の中央に位置し、豊かな漁場に恵まれた山田町。江戸時代末期にルーツを持つびはんは、「地域の台所」として長年親しまれてきました。「びはん」という屋号は「尾張の国から来た半蔵さん」が商売を始めたことに由来するとされています。
スーパーをはじめたのは間瀬さんの祖父の代から。震災前には従業員約100人を抱え、町中心部の二つのスーパーやガソリンスタンドを運営していました。
「町内で(うちの店を)知らないひとはまずいない。子どものころは外で遊んでいても、まわりの大人に『びはんの息子』とからかわれ、ちょっと恥ずかしい気持ちもありました」。親から店を継ぐように言われたことは一度もありませんでしたが、「いずれ自分が店を継ぐ」という意識はうっすらあったといいます。
高校卒業後は青森県の弘前大学理学部に進学。「能力がないまま実家に帰ってもだめだな」と感じ、卒業後は小売り大手のイオンに就職。スーパーのマックスバリュに配属されました。すでに実家に戻ることを決めており、入社試験のときから会社に「30歳になったらやめます」と正直に伝えていたそうです。
入社後は長野、千葉、埼玉の各県で計4店舗を経験しました。いずれも鮮魚売り場を担当し、魚のさばき方や売り場の作り方、顧客へのおすすめの仕方など多くを学びました。千葉県習志野市では新店のオープンを担当。新店の売場作りや、スタッフの教育など、ゼロから店を立ち上げる苦労を経験しました。「きつかったけどすごく勉強になりました。震災後も実家の店をたて直せたのは、このときの経験があったからです」と振り返ります。
30歳手前となった間瀬さんは実家に戻るため、間もなく辞めることを会社に告げました。すると、最後の1年は地元に近い岩手県紫波町の店舗で副店長を務めることに。鮮魚担当を離れ、副店長として店全体を見渡したとき、間瀬さんはあることに気づきました。「すぐ近くにたくさん酒蔵があるのに、なんで地場のものが売っていないんだろう」。
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さっそく、町内四つの酒蔵をまわって頼み込み、地場の日本酒をそろえたコーナーを作りました。他にも漬けものなど、これまで少ししか置いていなかった地場メーカーの商品の取り扱いを増やしていきました。他店にはない品揃えで徐々に店のファンが増え、売り上げもアップ。「地域での存在感を大きくできた」と成功体験になりました。
間瀬さんは30歳だった2008年の春から山田町に戻り、「びはん」の次長として家業に入りました。
当時社長だった父親の半蔵さん(73)は経営にあまり口は出さず、間瀬さんは自由に動くことができたといいます。地場産品を盛り上げるため、町内の農家に呼びかけて野菜の産直コーナーを立ち上げ、青豆に米粉をまぜた「すっとぎ」という郷土菓子も売り場に集めました。
家業に入って3年。県内企業と連携した商品開発やイベント企画を進めるなど手応えを感じていたところで、運命が一変したのです。
2011年3月11日午後2時46分。間瀬さんは同社のメイン店舗「びはんプラザ店」の2階事務所で、強い揺れに襲われました。1階の売り場に下りるとお客さんや従業員はみんな避難を始めており、間瀬さんも近くの高台へと走りました。
店は沿岸部から200メートルも離れていません。津波が車を流しながら押し寄せ、店を飲み込む様子を、間瀬さんは高台から見ているしかできませんでした。
「店が飲み込まれるのはショックでしたが、それどころじゃないというか、町全体が同じように津波にのまれちゃったわけですから。まずは家族が心配で、探しに行きました」。
子ども2人と妻は、避難先となっていた自衛隊の宿舎で再会できました。しかし保育所に預けていたもう一人の息子の行方がわからず、間瀬さんは再び町内を奔走します。保育所は津波をかぶっていましたが、少し離れた高台のお寺で、避難していた息子を見つけることができました。
3月11日の夜は、そのままお寺で息子と身を寄せて過ごしました。町のほうを見ると、夜空が真っ赤に染まっていました。
「火事が広がって、町が火の海のようになってしまっていたんです。なにかがバーンと爆発する音もして、そのたびお寺のガラスがふるえました。ここまで火の手が来るんじゃないかと、何度も山を下りて様子を見ながら一晩をあかしました」。
火に包まれた町を見ながら、間瀬さんは今後のことに思いを巡らせました。「不思議とマイナスの気持ちはありませんでした。自分は何をすべきかっていうのをすごく悩んで考えました。そこからもう1日たって、やっぱり自分はものを仕入れて売って、食料品を人に届けなきゃいけないと心が決まりました」。
別の避難所で両親の無事も確認できた間瀬さんは早速、従業員の軽自動車を走らせ、一部不通になった国道を迂回しながら、約100キロ離れた内陸の盛岡市に向かいました。青果市場など普段の仕入れ先をまわって「食べ物がなくて困ってるんです」と山田町の状況を説明して頼み込むと、相手も快諾。コメや野菜、果物などの食料品が、内陸から沿岸部の山田町に届けられるようになりました。3月15日には、がれきが残る店の駐車場にテントを張り、青空市の開始にこぎつけました。
「びはん、商売やってます!再開してます!」
火事や津波の被害を免れた家々を、間瀬さんは拡声機で呼びかけてまわりました。車を失って店まで来られない人のために、訪問販売も始めました。
「普段の商売ではお客さまにこちらが『ありがとうございます』って言うじゃないですか。震災後はそれががらっと変わって、お客さまに『商品を売ってくれてありがとう』って言われるようになりました。これは本当に励まされましたね。スーパーが、地域になくてはならないライフラインだと実感しました」。
町内にあった2店舗はいずれも津波にのまれたものの、建物自体は無事だったメインの「プラザ店」の復旧を急ぎました。
震災前は人口1万9270人だった山田町で、震災の死者・行方不明者は825人にものぼりました。「町のひとたちが初盆の準備に不自由な思いをしないように」と、震災から5カ月後の2011年8月7日、店の再開にこぎつけました。13年5月には2店舗目として、町北部の内陸に「豊間根店」をオープン。「山田の台所」としての機能を少しずつ取り戻していきました。
16年には、店に転機が訪れました。町の復興計画で三陸鉄道の陸中山田駅前の盛り土をしたエリアに災害公営住宅や商店が集められることになり、数百メートル離れていたびはんプラザ店も町から「このエリアに移転してくれないか」と呼びかけられたのです。
苦労して再建したプラザ店を離れることへの抵抗もあり、当初は移転を断りましたが、「町外の店が来るよりは」と、最終的に移転を決めました。16年11月、駅前に「びはんストアオール店」がオープン。車で訪れるこれまでの顧客に加え、駅前の公営住宅に暮らす人も利用するようになりました。
地域インフラとしての機能回復に加え、震災後に間瀬さんが力をいれているのが、地場産品を通じた山田町の魅力発信です。
「びはん」は明治時代からしょうゆの製造も手がけています。地元では「山田の醬油」の商品名で知られ、甘口で刺し身にあうと親しまれてきました。製造は内陸の会社に委託していたため津波の被害を受けず、震災後に山田町を訪れたボランティアの人々が購入。口コミで評判を呼び、いまも県外からネットでの注文が多くあるといいます。
この人気商品から新たな名物が作れないかと、山田の醬油と瀬戸内産レモンなどをあわせたレモンぽん酢「山田のレモポン」を開発。「山田のしょうゆラスク」といったお菓子も生まれました。2023年6月にオープンが計画されている道の駅にもびはんの店舗が入る予定で、「県外からくる人に山田の魅力を知ってもらえるよう、新商品の開発を加速させたい」と間瀬さんは意気込みます。
2020年に、父の半蔵さんから「俺は(社長)をやめる」と声がかかりました。間瀬さんは震災10年の節目まで交代を待ってもらい、21年5月に正式に社長に就任しました。
社長就任にあたってホームページで公表したあいさつで、間瀬さんはこうつづっています。
私は毎年3月11日に2011年のあの日避難した、かつてのプラザ店横の御蔵山に登り、山田町内の変わり様を見渡す事としています。しかしながら今年は例年の思いとは異なり、10年経った風景を眼下に「10年でこの風景か...。私はこの10年何やってきたんだろうか…」という感情が湧き上がって参りました。
この10年で、防災のための集団移転事業は進みました。いっぽうで高台から見下ろす町の6~7割は、土地が空いたままで歯抜けのようになっています。近年も町の人口は毎年約2%ほど減っており、今は震災前から約25%減の1万4767人に。閑散とした通りを見ていると、「10年たって、これしか街ができていないのか」とも感じてしまうといいます。
町北部の豊間根店オープンによって商圏が広がったことから、現在の売り上げは震災前の1.2倍ほどまで回復しました。ただ、人口減に歯止めはかからず、「現状維持のままでは企業として継続できない」と危機感をにじませます。
震災後に間瀬さんを支え続けてきた原動力は何でしょうか。「地元愛ですかね」。答えが即座にかえってきました。
「大学一年の夏休みで地元に帰ってきたとき、バスからちらっと見えた山田湾に衝撃を受けました。外にでるまで気づかなかったけど、こんなに景色がきれいな所に住んでいたんだって。そのとき芽生えた地元愛で、ここまで走ってこられました。山田町がいつか、みんなが知っている富士山のような存在になるよう、スーパーとして町を支えていきたいです」。
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