「働きたい環境がなければ、作ればいい」。1日100食限定「佰食屋」が生まれるまで
会社員や職員などの「組織」から独立し、20~30代で創業した起業家は、どんな思いで、何をめざして、会社をつくったのでしょうか。次代を担う起業家たちのメッセージを伝えます。
会社員や職員などの「組織」から独立し、20~30代で創業した起業家は、どんな思いで、何をめざして、会社をつくったのでしょうか。次代を担う起業家たちのメッセージを伝えます。
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1日100食限定の国産牛ステーキ丼専門店「佰食屋」を展開する株式会社minitts(京都市)。その代表取締役社長の中村朱美さん(36)は、約9年前に勤めていた学校法人の広報職を退職して起業しました。なぜ未経験の飲食店事業を始めたのか? これから起業を考える人に伝えたいこととは? お話をうかがいました。
――佰食屋はどういったコンセプトの飲食店なのでしょうか?
佰食屋は売上を増やすことを目指すのではなく、「100食売ること」がコンセプトです。飲食店、飲食業界に働きやすさというインセンティブを導入することを目的にしています。それを叶えるためにたった一つ「100食」という数字を定めることによって、すべてのバランスがうまくいくのではないかというコンセプトで、ビジネスモデルを作りました。
私たちはこれまで「従業員を大切にする」ということをフィーチャーしていただいています。もちろん従業員は大切ですが、従業員だけではなく、私たちとしては5つの人を大切にすることをコンセプトにしています。
まず1つ目がお客様。そして2つ目が従業員。そして3つ目は法人・企業も人としてみています。あと見過ごされがちだと思うのが、取引先の業者さんたち。そして最後の5つ目は、地域や環境という、すべての人たち。
その誰もが我慢をせず、誰もが嫌な思いをすることなく、「みんなが幸せ」という五方よしの循環ができることで、持続可能な働きやすさ、おいしい、そして環境にも優しいというお店ができるんじゃないかと考えています。
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そのために私たちはその5つを守るために、何かを捨てないといけないのであれば、右肩上がりの売上、成長を捨ててもいいであろうという考え方でやっています。そんなお店です。
――2012年7月に起業されました。なぜ起業に至ったのか、その経緯を教えてください。
私はもともと京都教育大学に進学して、ずっと学校の先生になろうと思って勉強していました。その後、先生にはなりませんでしたが、専門学校の職員室で働く事務職員として、広報の仕事を5年半ほどしていました。
その仕事がすごく楽しくて、当時から自分で天職だと言うぐらい、働くのがとても好きでした。なので私自身は専門学校の広報という仕事の中で、幼い頃から夢見ていた先生になりたい、学校で働きたい、という気持ちは達成されていて、夢が叶ったという実感がありました。
ただ、長く働くにつれて、後輩や部下ができて、彼ら彼女らを早く帰すために自分が仕事を背負ったり、みんなが嫌だと思う仕事を引き受けていったりすると、どんどん自分が帰れなくなっていって、自分が望んでいた子供を産むことや、あるいは子供ができてもやりがいのある仕事を続けていくという未来が、なかなか先輩を見ていても、満足に叶えられそうにないなと、27歳くらいからモヤモヤ考えていました。
女性の割合が51~52%ほどの職場だったのですが、両立することがむずかしそうに見えてしまうということは入社当時から感じていました。
私が退職するきっかけになったのは、激務が続くことによる若干の体調不良と、そして結婚してからなかなか子供が授からないということによる不妊治療でした。不妊の原因が不明だということだったのですが、やはり激務によるストレスではないかということで、もし人生を長く見て考えたときに、仕事は楽しいけれども望んでいた子供が望めないんであれば、それは嫌だよねということで、体調不良をきっかけに退職を決意しました。
その後、有給休暇を消化しながら、本当に何もすることなく考えているときに、私の夢は一度叶ったから、転職をすると言っても、次どうしようかなと明確な目標もなく、ほかに働きたいと思えるところがありませんでした。
ただ、夫がいつか飲食店やりたいと言っていましたし、不妊治療をしている中でまだ子供も望めない状況でした。なので、子供が生まれたら飲食店は始められないから、生まれる前に、2人だけの間にリスクのあることをやってみませんかということで夫を誘いました。「自分が働きたいと思える環境がないんやったら、自分で作ったらいいんじゃない?」という感じですね。
どうしても子供が生まれてしまうと、子供が大きくなったらという言い訳を作ってしまうと考えました。
その言い訳ができないフットワークの軽い大人2人だけであれば、何かあったときにリスクをとるのは自分たちだけ。何かあったとき、私は教員免許があって、夫は車の免許があるから、すぐにタクシーの運転手とか、私は塾の講師をすれば日銭は稼げて、何とか食べていけるだろうというリスクヘッジもできると考えました。
だからこそ「ちょっといつかやってみたいな」と言っているときの心のモヤモヤは、今のうちに1年でもやってみて、もしだめだったとしても「あかんかったね」と笑って過ごした方が、いつまで経っても夢を追いかけ続けるよりも気持ちがいいんじゃないかと思って、思い切って私が勝手に会社を作りました(笑)。そのときまだ夫はサラリーマンでしたが、夫には「はよ辞めや」と言い続けてどんどん準備を進めました。
夫が会社をやめてくれたのはお店がオープンする10日前でした(笑)。そんな感じで私主導で起業を進めました。
退職したときに夢もなくなって、やる気もなくなって、何かに打ち込みたかったので、まさにそれが私のモチベーションでした。「人の夢を叶える」というモチベーションが起爆剤となって、突き進めたのかなと思います。
――退職して何もやる気が起きなかったということですが、その状態から「起業しよう」というエネルギーが生まれた思いについて改めて教えてください。
私が起業に夢中になれたきっかけは、夫が作ってくれた晩御飯のメニュー、佰食屋で出しているステーキ丼です。夫が作ってくれたステーキ丼があまりに美味しくて、それを多くの人に食べてほしいと思って、広報時代もお友達や上司を家に招いて夫に作ってもらったことがあります。
それくらいそのステーキ丼が好きで、人に食べてほしいという思いが形にできるのであれば、人々を幸せにできるよねと思っていました。だから、そのステーキ丼というメニューが私を動かしてくれたかなと思います。
私自身、広報や営業の仕事をしていましたが、広報、営業は「これを売ってきなさい」と言われたものを必ずしも売れると思っていません。一方で自分が心から大好きなものだとめちゃくちゃ売りやすいんですよね。
私にとって、本当に売りやすいものがステーキ丼でした。「こんなおいしいもの、人に食べてもらえへんなんてありえへん」ということで、根っからの広報・営業マン気質の私からすると、これを世に広めようという確信、決心をしてからはめちゃくちゃ楽しいです。絶対私はこれを売ってやるんだという感じでした。
――起業される前にお勤めだった学校法人で広報の仕事をされていたということですが、具体的にはどういった業務内容だったのでしょうか?
京都にある専門学校の総合職として入社しました。
広報の仕事は、大きく分けると私の場合は3つに分かれていて、1つ目が学校のオープンキャンパスの運営です。広報の仕事がメインで、学生さんや保護者の方に説明する仕事をしていました。もう1つが高校の中で開催される、いわゆる進路説明会のときに、専門学校の代表としてお話をしに行く。それが体育館に色々なブースが出ているイメージですね。なので、できるだけ色々な高校に出展するという感じで、東では東京の専門学校が人気なので、西日本全域に出張していました。
3つ目は、私が印刷物の担当だったので、学校のパンフレットとそれに連動したホームページの制作といった広報媒体の制作を担当していました。週に2~3日は出張に行きながら、印刷物を並行してやりつつ、週末はオープンキャンパスという感じでなかなかハードでした。
――学校の広報担当として、学校の魅力をどう伝えるか、という視点を大事にされていたと思います。そこで培った能力は起業後にはどのように役に立っていますか?
ホームページ制作やソーシャルメディアでの発信の仕方もそうですし、色々な方に説明する場面などでとても役に立っています。学校の説明では、学費や教育内容を保護者の方という緊張するような対象の人にわかりやすく説明をしないといけませんでした。なので、広報で培った能力は現在でも生きていますね。
――職員として働くことと起業して代表として働くことの違いは色々あると思いますが、特に感じている大きな違いは何でしょうか?
圧倒的に違うことは、自分でやると理不尽なことがないということですね。
組織人はやはりみなさん理不尽なことに悩まされると思うんですよ。上司から訳わからない資料を作ってと言われたり、経営者の人の顔色を伺うためだけの会議資料を作ったりとか、出張でも仕事ができるようになってくると、結構つらい出張ばっかり当てられたりとか。
ほかの人と給料は一緒なのに、「なんで私ばっかりこんなんさせられんの」みたいなモヤモヤや理不尽は、組織にいたら必ずみなさんもご経験されると思います。
もちろん組織でやっていくからには、そこをぐっとこらえて頑張っていかないといけないことは理解しつつも、でもみんなそんなに我慢しきれないから飲み会で愚痴になっちゃうと思うんですよね(笑)。
一方で自分で会社をすると、何かあったときの責任、金銭的な責任も含めて、全部自分が背負わないといけないという責任の大きさはありますが、何をやっても理不尽なことはないですよね。すべて自分が決めたこと、自分のルール、自分が失敗したら自分に返ってくるだけのことです。あのときの私、ダメだったなと思うぐらいで、誰かにむかついたりすることはない。
自分ががんばったら、その分自分に返ってくるという、すべては自分の意思によるものなので、人からの理不尽な気持ちによるイライラやモヤモヤはなくなりました。もちろん、例えば収入が続くのか、この会社を継続させていけるのかという将来に対する漠然な不安や心配がなくなることはないですが、私は理不尽よりも将来不安の方がストレスは少ないかなと思っています。
ただストレスの感じ方は人によって違うと思います。自分で自由に責任をもってやることが向いている人もいれば、自分でお金を全部責任取ることはもう怖くて眠れないという人もいると思います。私の場合、自由に自分の責任で、という方が良かったということかなと思います。
――起業をして、価値感や考え方は変わりましたか?
周りの人との接し方が変わったかなと思います。
企業の中にいたときは、どちらかというと評価をされないと、自分も昇給もしないし、やはり見てもらう必要性があったので、割と自己PRをしたり、うまく見えるように接したりというところはありました。
あとは組織の中で、他の年上の先輩とか先生が多いですから、そういう人と揉めないようにするという配慮はありました。
一方で起業すると、自分がいきなりトップになってしまう。年齢関わらず、うちの会社で働く人は全員私の部下になります。そうすると、周りのメンバーが私に気を使ってしまうと思いました。
なので、メンバーが私と話すときに緊張しないように、柔らかい雰囲気や話しかけやすい雰囲気で接しないといけないなという意識を持つようになりましたね。
みんなのモチベーションを上げるために、私はどのように接したらいいんだろうと常に考えるようになりました。
ですから昔に比べると、私自身の希望や要望は、すべて社長にはいらないかなと思っています。自分の意見は不要であるというのが、この起業した前後で一番大きく変わった考えかなと思います。
――2012年に起業されてから、いろいろとご苦労があったと思います。特に苦しかった時期をいつ頃と捉えていますか?
まさに1年前の新型コロナの感染が広がった2020年の4月ですね。
その当時は4店舗まで拡大をしていたんですが、結果として2店舗閉店することとなりました。その閉店を決めようと思った前の1週間ぐらいは眠れなかったですし、その選択肢の中には、会社を潰してしまうという選択肢もありましたし、私自身が破産してしまう、メディアの世界からもすべて消え去ってしまおうというぐらいの覚悟をその1週間では持ちました。
そのときは体重が8キロ減って、髪の毛は脱毛するというストレスが身体にも出るぐらい非常につらかったですね。
これまでも、2018年に大阪府北部地震、そして西日本豪雨、台風21号の直撃など一連の災害が続いた年も厳しい状況でした。そのときも1000万円単位の借金を背負ったという経験がありますが、そのときの災害は起こった後に希望が見えていました。復興できるという明るい光がある。だから私たちはそのときに大きなダメージを背負ったとしても、乗り越えられてきました。
ですが、去年から新型コロナはいつまで続くかわからない。いつになったら明るい未来が見えるのかもわからないという、霧の中にずっといるような状況でした。それが私たちを本当に苦しめたなと思います。
明るい未来が将来的に見えるっていう確信があるのであれば、私たちもいくらでも借金を背負って、いつまでなら、ということで予測が立てられます。でも新型コロナはそうではなくて、わからないことが多すぎて、将来的にやっていく自信がなくなっていくんですね。
それによってどれだけ試算しても、相当な補償が出たとしても、そのお金がなくなり次第またやっていけなくなることを考えると、長い持久戦に持ち込むほどの体力は中小企業・零細企業にはないです。その余力がなくなってしまってから決断するのでは、債権者と債務者のそれぞれの立場で考えたときに、仲間割れ、分断してしまって、すごく気持ちの悪い別れ方になってしまう。
だからこそ、そうなる前に、まだ余力のあるうちに決断をした方がいいのではというところまで初めて追い込まれたと思います。
――新型コロナの収束がまだ見通せない状況です。一方でそうした環境でも見つかったポジティブな要素はありましたか?
実は残した2店舗については、去年の4月でもそこまで集客は落ちませんでした。その特徴が住宅街にあったということで、もともと地元の人たちに愛されていたお店でした。なので観光客など外から来られる方に頼ってはいませんでした。
4月に2店舗を閉鎖しましたが、残された2店舗で、次の月の5月からは黒字化しました。そのときから毎月、今月に至るまでは黒字の状態で継続をしています。
ですからこの経験をもとに、何かこの有事があるとき、これからも災害があったときに、どうしても地域によって、移動ができなくなってしまったり、分断されたりする可能性は残されています。そうであれば、飲食店のように集客するタイプのお店については、地域に根付いた、地域に愛される存在感を忘れないようにしないといけないと思いましたし、逆にそれが今後の希望の光かなと思っています。
観光客に頼るお店が新型コロナで本当に深刻なダメージを受けていると思いますが、地域の人とうまくやっていたところはまだやっていけているのではないかと思います。
そうであれば、これから先の私はその広報戦略は、大々的なCMを打つとか、観光客の人に新しく使ってもらうというものではなく、いかに地元の人に顔を知ってもらうか、地元の人と仲良くやっていけるかに注力すべきだと思っています。
その点でこれから私たちも新しい事業をしようかなと思っていますが、地元の防災や防犯と飲食店は相乗効果が見込めるんじゃないかなと思っているので、そこを掛け合わせて、地元の人と共に、安心安全を守れる飲食店として存在感のある飲食店を作っていきたいということが新しい光だと思っています。
――従業員をまず大切にする、という経営方針は、起業をする段階ですでに考えていたことだったのでしょうか?
起業するときから考えていましたね。私自身が5年半ほど従業員の立場を経験していたからこそ、自分が嫌だったことは絶対したくないですし、自分はこんな会社だったらよかったのに、こんな風に言ってほしかったなということを実現できる会社にしたいという思いが根底にありました。
そもそも従業員がいないと1人では会社はできません。従業員が大事なのはどこの会社も当然なんですが、私が経営者になってから、より強く思うのは、経営者の一番の顧客は従業員であるということです。
お客様はもちろん大事です。
でも経営者はお客様に直接触れ合う機会は少ないですよね。直接触れてくれるのは従業員です。従業員が顧客を大事にするためには、経営者が従業員を大事にしなければ、その連鎖は生まれないと思っています。
なので、いつも私たちは一方通行の愛にしましょうと言っています。経営者は従業員を愛しますが、従業員は経営者の方を向いちゃダメだよと。
従業員はその愛を顧客に向けて、一方通行でいいから、経営者の顔色なんか伺わずに、ずっとその愛情をお客様に向けて、大事にしてくださいということを言っています。
――そういう考え方になったのは起業当時からでしょうか? それとも経営者として徐々に養われていったものでしょうか?
最初から考えていた部分はありましたが、最初の1~2年は私も毎日現場に出ていましたので、私自身も従業員のような働き方をしていました。
なので、最初は従業員の方々に対しては仲間というイメージの方が強かったかもしれないです。ただそこから、私も子供2人を年子で産んでいて、2年連続で産休を取りました。
そのあたりから現場を離れるようになり、私自身がお客様と接することは減りました。従業員を通してお客様に接するようになり始めてから、より従業員は経営者にとって顧客であって、大事にしないといけないということが徐々に強くなってきたと思います。
――起業して特によかったと思える瞬間はいつでしょうか?
晩御飯を食べるときに毎日思います。
夕方18時くらいに、従業員もみんな帰ったという報告を受けた状態で、子どもたち一緒に晩御飯を18時に食べ始められる瞬間、きっと従業員もみんな家族で家庭で晩御飯を食べているだろうなと思える瞬間に、本当に始めてよかったとつぶやいています。
――これから起業する人に対して伝えたいことは何でしょうか?
営業か広報の仕事をやっておいたほうがいいということはお伝えしています。
飲食店であれば、最初に飲食店で修業したり、同じ業界でやり方を学んだりしてからやろうと考える人が多いですが、それはいらないんじゃないかなと思っています。
そうではなくて、良いものを作ることができる人はたくさんいるけど、そのものを上手に売ることができる人のほうが圧倒的に少ないと思います。
良いものを作っても、その発信力がなければ、人に知られず、作るだけで終わってしまうこともあり得ると思います。
だからもし自分で起業をするのであれば、必ず伝える能力・売る能力・広める能力がないと絶対にうまくいかないと思います。
それなら営業や広報の力がある人を雇えばいいじゃないかとおっしゃる方がいるのですが、売る能力がある人はそこに収まらないと思います。何をやっても売れるので、必ずその会社を旅立たれると思います。
なのでその人がいないとものが売れないという会社は持続可能ではないので、社長が売る能力やセンスがないと持続可能ではないと私は思っています。
――起業しようかと迷っている、悩んでいる方に対して伝えたいことはありますか?
いまもし会社員で働いている方であれば、「会社員をやりながら何かやったらあかんの?」ということはお伝えしたいです。
すべてを捨てて始めるというトレードオフじゃなくていいじゃない、と思います。
もし会社員をやりながら余暇の時間を使ってまでやりたくない、ということであれば起業は向いてないです。余暇の時間をつぶしてでも、お金を払ってでもやりたいことじゃないと続かないと思います。
それを試す意味でも、会社員の仕事はちゃんとこなしながら、余暇の時間をすべて削ってでもいったん両立させてみてください。
そうすれば金銭的なデメリットはないですし、余暇の時間を使うという自分のモチベーションへの挑戦にもなると思います。
そのうちに事業がうまくいって、あまりにも忙しくなる、会社員続けられなくなったときに本格的な事業のスタートを切ったらいいのではないかと思います。
中村朱美(なかむら・あけみ)。2007年、専門学校に総合職として入社し、2012年に退社。2012年9月株式会社minitts設立、代表取締役就任。2012年11月、国産牛ステーキ丼専門店「佰食屋」を開店。著書に「売上を、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放」(ライツ社)。
(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年7月16日に公開した記事を転載しました)
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