目次

  1. 6人全員、一緒の表情。一体なぜ?
  2. 娘が無表情のぬいぐるみを好んだ理由
  3. 日本美術とアート思考の共通点

こんにちは。美術教師の末永幸歩です。

物事を新たな角度でみつめ直す「アート思考のレッスン」へようこそ。

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今回は、国宝『源氏物語絵巻』を見ながら、アート思考を深めていきましょう。

『源氏物語絵巻』第38帖「鈴虫」(東京藝術大学日本画研究室現状模写)(12世紀、五島美術館蔵)

「源氏物語絵巻」は、平安時代の作家・紫式部による「源氏物語」というお話をもとにした絵巻物です。

源氏物語は、光源氏を主人公に、貴族社会における栄光と衰退、恋愛などがエキサイティングに綴(つづ)られた長編物語です。

その物語も初出から約150年後に、絵師により絵画化されたものが、国宝に指定されている「源氏物語絵巻」です。

 

上の画像は「源氏物語絵巻」の一部。2000年から発行された2000円札の裏面の図柄にも用いられていましたので「この絵は見たことがある」と思った人も多いはずです。

さてここで、この絵を今一度見てみましょう。ここではとくに「人物の表情」に注目して見てみてください。

『源氏物語絵巻』第38帖「鈴虫」(東京藝術大学日本画研究室現状模写)(12世紀、五島美術館蔵)

いかがでしょうか。

この絵には6人の男性たちが描かれていますが、顔に注目してみるとどの人物もほとんど同じように、目や眉毛は直線的に描かれています。

また、2人の男性の口元もとは小さな点で表現されているだけ。「すべて同一人物なのでは?」と思うほど目鼻立ちが似通っています。

これでは、彼らが喜んでいるのか悲しんでいるのか、はたまた別の感情なのか、描かれた表情から読み取ることはできそうもありません。

波乱万丈な光源氏を巡る物語を描くのであれば、もう少し人物の描写に工夫の余地があったのではないかと思えてきます。

 

これは、この絵だけに見られることではありません。「源氏物語絵巻」における他の絵においても、また、同時代に描かれた他の絵巻物や絵画においても、登場する貴族たちは、男性も女性も似通った顔つきと乏しい表情で描かれることが多々あったのです。

これは一体なぜなのでしょうか。

このことについて考えていたとき、日常の中でのある出来事が結びつきました。

我が家には古いクマのぬいぐるみがあります。もとは私が大切にしていたものですが、今は娘が可愛がっています。

そのぬいぐるみの顔は、至ってシンプルです。黒一色の丸い目が2つと、同じく黒くて丸い鼻があり、口は鼻から伸びた2本の直線で構成されているだけ。ほとんど無表情といっていいような表現です。

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しかし、娘はよくそのクマと一緒に遊んでいます。ときにはクマを見つめて笑いかけたり、クマが椅子から落ちてしまったときには「えーん」と一緒に泣き声を上げたりすることもあります。

ぬいぐるみの表面には現れていない表情が、娘には見えているのではないかと思えるときがあります。

 

一方、自宅には知人からいただいた、新しいクマのぬいぐるみもあります。

このぬいぐるみは先程のものとは正反対のつくりをしています。

プラスチックのパーツでできた目は生き生きとして見えますし、口は半円状にニッコリと表現されています。さらにこのクマはスイッチを入れると手足を動かし、笑い声も出します。

いただいた当初は娘も興味津々で、つられて笑ったり、何度もスイッチを押してその動きを楽しんだりしていました。

しかし、しばらく経つと飽きてしまったようで、最近ではスイッチを押そうともしなくなってしまったのです。

 

娘にとってこの2つのクマのぬいぐるみの違いは何なのだろうかと考えました。

新しいクマのぬいぐるみは、顔の表情も体の動きも豊かですが、裏を返せばそこに表現された以外のイメージを持ちにくいのではないかと思いました。

他方、古いクマのぬいぐるみは、一見無表情ではありますが、それ故、その時どきに、娘の心の中で生き生きとした多彩な表情を創りだすことができるのではないかと思ったのです。

日常の中で感じた些細な気づきではありますが、これと似たようなことが、冒頭の「源氏物語絵巻」における「無表情で似通った顔つき」にも言えるのではないかと考えました。

登場人物の表情を表現豊かに描き込めば描き込むだけ、作者である絵師の意図が明確になる分、見る人の解釈の幅は狭まっていきます。

一方で、表情が描きこまれていないからこそ、それを見る人が想像を膨らませて多彩な表情や感情を創りだすことができるともいえるのではないでしょうか。

 

全54帖からなる「源氏物語」には、「雲隠(くもがくれ)」と題された巻があります。その前後には8年の時間の経過が示されており、その間に主人公の光源氏が亡くなっていることが暗示されています。

しかし、実はその巻には「雲隠」というタイトルだけしかなく、本文は一切ありません。

その理由は紛失によるものかなど諸説ありますが、仮にここまでの考え方を当てはめるのであれば、作者の紫式部は「雲隠」の本文を書かないことで、読者の想像を促そうとしたのかもしれません。

鑑賞者が十人十色のものの見方をして、それぞれに自分なりの答えを持つことを許容する日本美術の精神性は、アート思考につながっています。

 

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2022年2月20日に公開した記事を転載しました)