スタイルブレッドの起源は、大正時代にさかのぼります。菓子屋として創業し、まんじゅうやようかんなどを作る中、当時まだ珍しかったパンを焼き始めたそうです。1930(昭和5)年に屋号を「桐生製パン所」とし、製パンに特化。戦時中に「田中製パン所」に改名しました。戦後復興期は学校給食用のパンを作り、田中さんの父で3代目の田中実さん(84)の時代になると、市内に3店舗を構えました。
1990年に家業に入った4代目の田中さんは、職人として長年にわたりパンの味を追求しました。ある時、味を損ねずにパンを急速冷凍する技術に出会います。2006年、社名を「スタイルブレッド」に変更。ホテルやレストラン、結婚式場などに販売する事業を始めると、急成長しました。
その後も地元・桐生市でベーカリー1店舗を運営していましたが、コロナ禍で閉店。現在は小売り店舗を持たず、自社工場でのパン製造、法人向けの販売、個人向けの「Pan&」の運営に集中しています。業務用パンの導入店舗は3500店を超えました。従業員数は約270人、売上高は約23億円(2019年度)です。
「父が工場でパンを作り、母が店舗でパンやサンドイッチを売っていました。パン屋を継ぐのは当たり前だと思っていましたね。将来の職業について父から指図されることはなく、好きなことをやるよう言われていました。ただ『商業高校でそろばんくらい習っておけ』と言われたのは覚えています」
1年ほど専門学校に通ったところで「若いうちに経験できることをしたい」とアメリカ・ニュージャージー州への留学を決意します。
パンの修行というと、フランスやイタリアなどヨーロッパを思い浮かべる人が多そうです。田中さんがニュージャージーを選んだのは、日本人が経営する現地のベーカリーに手紙を送ったところ、働き手として受け入れてくれるめどが立ったからでした。
田中さんはその店で2年ほど、パンづくりの経験を積みます。帰国後は地元・桐生市の製粉会社が運営する市内のベーカリーで働きました。
1990年、22歳だった田中さんは田中製パン所に入ることになります。当時、父・実さんと叔父が店を切り盛りしていました。叔父が独立することになり、実さんから「うちで働くなら、このタイミングがいい」と声をかけられたのです。当時の従業員は10人ほどでした。
毎日、午前3時に起き、実さんとともにパンを作る日々が始まりました。田中製パン所は当時、桐生市内でベーカリー1店舗と売店2店舗を運営。学校給食向けのパンに加え、店舗向けにコッペパンや食パン、揚げパン、焼きそばパン、メロンパンといった定番のパンを作りました。
「日本一の職人に」プティパンづくりに傾倒
家業に入って半年ほど経った頃、田中さんにとって運命的な出会いが訪れます。
「桐生市内でフレンチレストランを営むシェフと知り合ったんです。職人気質の方で、フランス料理を追求する姿勢に感銘を受けました。その方から『自分の店で出すフランス料理に合った本格的なパンがほしい。作ってくれないか』と打診されたんです」
精魂込めて料理を作っているシェフでさえ、パンだけは外部の業者から購入していたのです。国内のフレンチレストランでは当時、出されるパンはバゲットが一般的でした。しかし、そのシェフが求めていたのは、本場フランスのレストランで出されるようなプティパン(フランスパンの一種で、卵より少し大きい程度の小型パン)だったのです。
しかし、田中さんはシェフが望むプティパンのイメージをつかみきれませんでした。そこでシェフと一緒にフランスへ渡り、現地のレストランで出されるパンを食べてみることにしたのです。
「フランス料理店を何軒も訪ね、出されるパンを食べていきました。どの店のパンも『感動』のひと言でした。天然酵母を使っていて、少し硬くもありながら、みずみずしさや酸味も感じる――。そんな独特の味わいだったんです。まさにこれだと実感しました」
シェフの生き様はまぶしく、期待に応えたい気持ちもありました。田中さんは「日本一のパン職人を目指そう」と決心し、プティパンづくりに傾倒していきます。
最初の課題は、当時の田中製パン所にはプティパンを焼くためのオーブンがなかったことです。実さんに相談し、オーブンやミキサーなど、プティパンづくりに必要な道具や機材を購入しました。次に、フランスで食べた味を再現するため、天然酵母や小麦の選び方、配合などを研究しました。
理想に近づけるため、ひたむきにプティパンづくりに向き合う田中さん。しかし、店舗で人気なのは、食パン、カレーパン、メロンパンといった一般的なパンでした。
「自分なりにプティパンの製法や技術を研究し、お店にも並べていましたが、もう全然売れないんですよ。売上全体の4%くらいでした。22歳で家業に入り、すぐにフランスへ行き、その後10年近く作り続けてきました。でも、次第に心と体のバランスが崩れてしまって。プティパンづくりを本当に好きでやっているのか、分からなくなってしまった時期もあったんです」
アメリカで見た急速冷凍技術の衝撃
1999年ごろ、田中さんに転機が訪れます。製パン技術者の養成などを担う社団法人日本パン技術研究所から「アメリカのパン業界が、この10年で劇的に変わった」という話を聞いたのです。
「アメリカを離れてしばらく経つけど、どんな風に変わったのか、この目で確かめたい」
そう考えた田中さんは、同研究所主催のアメリカ研修ツアーに、製粉会社の担当者らとともに参加することにしました。
そこで目にしたのが、今のスタイルブレッドの製法につながる、アルチザンブレッド(職人が作るパン)の焼成冷凍パンでした。焼きたてのパンを急速冷凍庫で一気に凍らせ、鮮度を閉じ込めたものです。
田中さんによると、パンは焼きたての瞬間から、中に含まれる水分が次第に蒸発し、乾燥していきます。この乾燥がパンが硬くなる原因です。また、パンのおいしさの元であるでんぷんも、時間とともに劣化し、ボソボソとした食感につながります。しかし、焼きたてのパンをマイナス45度の急速冷凍庫で一気に凍らせれば、パンの乾燥とでんぷんの劣化を防ぐことできるのです。
それまで冷凍パンといえば、焼く前の状態で冷凍した生地を、各レストランなどが解凍し、自前のオーブンで焼くのが一般的でした。しかしアメリカでは、こだわりの材料と製法で作ったパンを、独自の冷凍技術で一気に冷やし、品質を保ったままホテルやレストランへ納品する流れが確立されていました。ホテルやレストランは必要な量を取り出し、トースターでリベイク(再焼成)するだけで、簡単に焼きたてパンを提供できるのです。
「工場視察の前日のディナーで食べたパンが非常においしかったのを覚えています。ただ、自分の中で『しょせん冷凍なのに、なぜこんなにおいしいんだ』という疑問が拭えませんでした」
翌日、冷凍パンの製造工場を訪ねた田中さんは、工場長に様々な質問を投げかけました。工場長は「冷凍はパンの品質を維持する技術。まずいパンを冷凍するからまずい。高品質なうまいパンを冷凍すれば、味を落とさずにお客様に出せる」と答えたといいます。
「衝撃でした。私が10年間追求してきたプティパンの味と、この冷凍技術を組み合わせれば、ものすごく可能性があるのではと気づいたのです」
「いいパンがない」シェフの悩みに商機
そのころ田中さんは毎月1度、群馬県内や近隣県でフランスレストランを営むシェフたちが集うワイン会に参加していました。自分の作ったパンを食べてもらうためです。
そこでよく聞いたのが「バゲットは手に入るが、いいパンがなかなか見つからない」という悩みでした。フランスでは、庶民的なビストロではバゲットを、高級なフレンチレストランではプティパンを出すのが一般的でした。
田中さんは「国内のフレンチレストランのシェフが欲しいパンと、供給側が作るパンの間にギャップがある」と気づきます。これは全国のレストランやホテルにとって共通の課題ではないか、うちのパンを急速冷凍すれば商圏が全国に広がるかもしれない――。
こうして田中さんは冷凍パンビジネスの可能性に気づき、本格的な事業展開を考え始めます。
まもなく父・実さんから突然、給与台帳を渡され「あとはお前が好きなようにやれ」と言われました。2005年、田中製パン所を継ぐことになったのです。
「22才から父のもとで働き始めて以来、『後を継いでくれ』と言われたことは一度もありませんでした。それだけに、何の前触れもなく、急に社長交代となったのには驚きました」
営業先の反応鈍く、初月は売上2.5万円
翌2006年、冷凍パン事業を本格化させるため、社名をスタイルブレッドに変更します。約7000万円を借り入れ、冷凍設備を導入しました。
ただ、冷凍パン事業に本腰を入れることに、周囲では反対の声が多かったそうです。父・実さんがもともと後ろ向きだっただけでなく、「店をつぶす気か」と社員の半分が辞めてしまいました。
それでも田中さんの意志は揺らぎませんでした。残った若手社員の1人を製造リーダーに任命し、ドイツに研修派遣。パンづくりの技術を習得した上で、大量生産に対応できるようマニュアルを作るよう頼みました。
当初は資金繰りにも苦労しました。今までの「町のパン屋」は、パンが売れればすぐに手元に現金が入り、仕入れ資金や給与支払いに回せます。一方、業態が「冷凍パンの製造会社」に変わったことで、売掛金を回収するのに日数がかかるようになりました。常に現金が不足しがちな状態は、スタイルブレッドの設立から数年間続いたといいます。
冷凍パン事業を始めるにあたり、最大の課題は営業でした。まずは地場を固めようと、北関東を中心としたホテルやレストランにターゲットを絞りました。田中さんは今まで通り早朝に起きてベーカリーのパンを準備しました。同時に冷凍パンも用意し、昼にはネクタイを締め、車で群馬や栃木、茨城、長野などを回る日々が始まったのです。
しかし、営業先の反応は「うちは東京じゃないから、こんな冷凍パンは使えない」とつれません。初月の売上はわずか2万5000円でした。
高級レストランに絞ってDM、次々に商談
そこで田中さんは方針を転換します。地元に浸透してからではなく、最初から東京に乗り出すことにしたのです。
入念な下準備もしました。平均客単価が1万円以上のレストランをリストアップし、ダイレクトメール(DM)を作成。300~400通のDMを送ると、7割から「冷凍パンのサンプルがほしい」という返事があり、うち3割が商談につながりました。
「7~8月に東京へ遠征し、冷凍パンの商談を多くこなしました。レストランのメニュー替えがある9月を控えた時期で、一気に取引先が増え、月の売上は300万円ほどに急増しました。その後、『東京のレストランが入れているなら』と口コミで地方にも導入店舗が広がっていったのです」
冷凍パン事業は開始から1年で月商1000万円に達しました。田中さんは最前線での営業から組織のマネジメントへと仕事の比重を移します。営業マンの育成に力を入れ、製造体制の強化も進めました。
田中さんによると、従来のベーカリーとしてのパン作りは、職人の属人的な経験と勘に頼ったものでした。しかし、冷凍パンを大量生産するには、新人アルバイトでも製造に携われるような仕組みが必要です。そこで、ドイツに研修派遣した製造リーダーを中心に、作業のマニュアル化を進めました。具体的には品質マニュアル、技術工程マニュアル、衛生管理マニュアルなどを作りました。
工程の分業化も進めました。各人が特定の作業に集中することで作業効率が上がるほか、完成品の品質が人によりばらつくことも防げます。
パンの生産は『大量生産型』と『ベーカリー型』に大別できる、と田中さんは話します。一長一短あり、大量生産型は品質がそこそこになりがちで、ベーカリー型はたくさん作れません。
高品質なパンを大量生産するには、職人の技をいかにマニュアルに落とし込むかが肝心です。田中さんはかつて見たアメリカの合理的な製造現場を参考にしながら、取引先が増えても対応できるような生産体制を築いてきたのです。現在では1日約10万個の冷凍パンを製造するようになりました。
家庭で気軽に冷凍パンを食べる文化を
取引先はどんどん増え、事業規模は成長の一途をたどりました。そこへ冷や水を浴びせたのがコロナ禍です。主な納品先であるホテルやレストランが不振に陥り、一時は売上が9割減という月もありました。
窮地を救ったのが、2018年に始めた家庭用冷凍パンの通販サイト「Pan&」(パンド)です。
「Pan&」では例えば、プティパン6種24個の詰め合わせを2980円(送料無料、初回注文限定)で販売しています。食べ方は簡単で、冷凍庫から出したパンをトースターに入れ、2~3分加熱するだけ。タイマーが鳴ってもすぐ取り出さず、余熱で6~8分温めると、芯までふっくら仕上がります。
巣ごもり需要の追い風を受け、「Pan&」はコロナ禍で急成長。現在ではコロナ前の6~7倍の売上規模に育ちました。
「1つの事業に依存せず、収益源を複数持つことの大切さを感じました。これまでは外食産業が主な卸し先でしたが、スーパーやコンビニ向けの商品を開発し、新たな販路の開拓にも努めています」
コロナ前の売上比率は業務用と家庭用で9対1でした。コロナ禍に入ると、業務用の低迷と「Pan&」の急成長により3対7になったそうです。最近では業務用の需要が戻りつつあり、8対2ほどで推移しています。
ホテルやレストラン向けの冷凍パンという市場を切り開いてきた田中さん。今後の目標は、家庭で気軽に冷凍パンを食べる文化をつくることだといいます。
「焼きたてのプティパンはレストランで食べるもの、というイメージが日本ではまだ強いと思います。家庭用のパンと言えば食パンや菓子パンで、プティパンを食べる習慣は根付いていません。本格的なプティパンを家で作ろうと思っても、専用オーブンやパン作りの技術が必要でハードルは高い。そう考えると、おいしくて焼きたてのプティパンを食べるには、冷凍パンが最適です。家庭で冷凍パンを食べる文化を定着させられるよう、力を尽くします」