「家業も夢も家庭も」の最適解は 峰文社2代目が探る「ゆるい継承」
名古屋市で長く活動し、現在は三重県いなべ市に拠点を置く印刷業の峰文社(ほうぶんしゃ)。2代目にあたる合田(ごうだ)友恵さん(42)には、専業イラストレーターになる夢があり、家族との時間も大切にしたいといいます。「家業の存続、自分の夢、家族の時間」の3つを同時に成り立たせたいと考えた合田さんが選んだのは、自分にできる範囲で仕事を先代から譲り受ける「ゆるい継承」でした。
名古屋市で長く活動し、現在は三重県いなべ市に拠点を置く印刷業の峰文社(ほうぶんしゃ)。2代目にあたる合田(ごうだ)友恵さん(42)には、専業イラストレーターになる夢があり、家族との時間も大切にしたいといいます。「家業の存続、自分の夢、家族の時間」の3つを同時に成り立たせたいと考えた合田さんが選んだのは、自分にできる範囲で仕事を先代から譲り受ける「ゆるい継承」でした。
目次
印刷物の制作を請け負う峰文社は、合田さんの父・泥谷文吾(ひじやぶんご)さん(77)が1976年、「ひじや孔版印刷」として創業しました。絹や合成繊維などの網目からインクを通す孔版印刷(いわゆるガリ版)のうち、原稿にあたる版下の制作から始めました。借金をしたくなかったため、住んでいた名古屋市内の家賃月8000円の長屋を拠点に、町内会や学校、個人商店に営業して回りました。
「業界の歴史から見てガリ版はすでに末期で、しかも素人の手作業なので恐ろしく効率が悪くて。1年目は売上が80万円しかなかったそうです。それでよく生活できていたなあと感心しました。母の『お金は生きるに足りるだけあればいい』という考えは、私にも受け継がれていると思います」
数年後には和文タイプライターと卓上サイズのオフセット印刷機を導入。売上が伸びるにつれ、大きな印刷機も家に増えていきました。版のインクを紙に直接転写するのではなく、版に塗ったインクをいったんブランケット(ゴム)に転写してから紙に印刷する「オフセット印刷」が、このころ業界でも「ひじや孔版印刷」でも主流になりました。孔版印刷に比べ、安くて速いのが強みです。このため1984年、屋号を「峰文社」に改めました。
「屋根裏をネズミが駆け回るような古い木造長屋が店舗兼住居でした。手狭になったので家の脇に印刷小屋を増築したり、裏庭の物置小屋の上に物干し場を作ったり。両親はいろいろ工夫していましたが、今思うとかなり変わった家だったと思います」
1990年ごろ、両親の知人に勧められ、知人が持つ名古屋市内の3階建てビルの1階に店舗を移すことになりました。家賃は月10万円超と、長屋時代の十数倍に上がるため、両親にとって勇気の要る決断だったと合田さんは振り返ります。
しかし、この引っ越しが良い転機となりました。立派な店構えやバブル期の追い風もあり、次々に大口案件が舞い込んだのです。年賀状の注文も多い年には500件ほどあり、最盛期の1990年代半ばには年間売上が1千万円を超えたそうです。ただ、忙しくても常時雇用の従業員はなく、年賀状シーズンにアルバイトを雇う程度でした。
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「繁忙期の12月は外食が多くて。母は申し訳なさそうにしていましたが、私は『やったー』って喜んでました」
身近に紙がある環境で育ち、おのずとよく絵を描くようになった合田さん。いずれ絵を描く仕事に就きたいと、ぼんやり考えていました。1998年、愛知県立旭丘高校の美術科を卒業しました。
1999年に京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)通信教育部の情報デザインコースに入学。たまに京都や東京で授業を受けながら、自宅で課題をこなして提出する課程です。外でアルバイトしたり、峰文社の版下制作を手伝ったりしながら、イラストレーション、タイポグラフィ、アニメーション、シルクスクリーン、写真など様々な表現手法を学びました。
合田さんには、大学でデザインを学んだ6歳上の姉がいます。ただ、姉も合田さんも、家業を継ぐつもりはなかったそうです。
「内心では継いでほしかったと思いますが、両親は何も言いませんでした。もともと放任主義で、『○○しなさい』と言われた記憶がないんです。だから子どもの側から『やりたい』と言わなければ、何もやらせないという感じでした」
合田さんは2005年3月に大学を卒業。開設まもない通信教育部は、入試がない代わりに卒業が難しく、中退者も相次いだそうです。6年で卒業できた合田さんは「まあまあ早かった方」だとか。
就職活動はうまくいきませんでした。通信教育のため就活の仕方がよく分からず、相談しようにも同級生の多くはすでに社会人でした。実家に住んで両親の印刷業を手伝いつつ、たまに写真屋でアルバイトをしながら、あれこれ悩んでいたといいます。
「当時はまだ、イラストをやりたいと気づいていませんでした。美術作家を目指そうと思うものの、食べていくのは難しいと感じていました。家業をどうするか、も考えました。私はやりたいことよりも、自分に何ができるかを考えるタイプですが、どれもできない気がして」
そんな合田さんの悩みを吹き飛ばすようなできごとが起きます。2009年、両親が三重県いなべ市の山中に移住し、カフェ兼ギャラリーを始めると言い出したのです。
いずれ田舎に住むのが両親の夢でした。さほどもうからないと考え、峰文社は廃業ではなく、縮小して続けることにしました。大型の印刷機は処分し、中小型のものは持参したそうです。
名古屋時代の取引先のうち、「どうしても続けてほしい」と言われた顧客以外は全て断ってしまいました。しかし、文吾さんは営業がうまく、移住先でもすぐに新規顧客を獲得。田舎は物価が安く、年金もあるため、カフェの収入が少なくても、夫婦2人で暮らすには困らないのだそうです。
焦ったのは、実家に住んでいた合田さんです。当時29歳。いよいよ独り立ちの時です。働くなら慣れ親しんだ業界がいいと考え、2009年2月、名古屋市内の印刷会社に就職しました。
ただ、初めて正社員として働いてみて、自分に会社員は向かないと感じたといいます。いろんな場所へ行き、湧いてくるアイデアを大切にする合田さんにとって、毎日同じ時間に同じ場所に行き、机に向かっているのは苦痛でした。制作に関する判断を下すのは自分ではなく社長で、やりがいも感じづらかったそうです。1年半後の2010年8月に退職します。
翌2011年2月、今の夫である合田丞(たすく)さん(50)と結婚しました。受賞歴もある針金アーティストで、大手企業の広告の仕事も手がけています。アーティスト活動以外だけでなく、ウェブ関連の仕事もしていますが、収入にはどうしても波があります。
合田さんは「やっぱり自分も働こう。でも会社員は無理だ」と考えます。そこで、いずれ両親の峰文社を継ぐ可能性も考え、印刷関連の仕事を始めることにしたのです。
印刷工程を大きく2つに分けると、原稿にあたる版下の制作と、実際に刷る印刷があります。印刷には機材が必要なため、初期投資がかさみがちです。一方、版下の制作は、手元のパソコンでイラストレーターやフォトショップといったソフトを使えば可能です。このため、版下制作を合田さんが担い、印刷を外注しようと考えました。
こうして「ひじやともえ」名義で活動を始めました。ゼロから顧客を獲得するのは難しいため、まずは両親の峰文社から仕事をいくつか譲ってもらったそうです。
同時に「いずれイラストレーターとして専業で働きたい」という夢も膨らんでいました。版下制作をしながら、イラストの仕事の経験も積みたいと考えていたのです。
ただ、順風満帆にはいきません。結婚後、すぐに妊娠・出産したため、家事と育児に追われる毎日が続きました。そんな中、両親から引き継いだ美容院のチラシ制作は、次第に回数が減り、やがて注文が止まりました。イラストの仕事もほとんど受注できません。
子育ての合間を縫って、夫の知り合いなどから受注した名刺やチラシ、伝票の印刷などを細々と続けていました。ところが、仕事をほとんどできないことや金銭面の不安がストレスになり、2012年1月、潰瘍(かいよう)性大腸炎で入院してしまったのです。
「入院中に自分とじっくり向き合いました。意外にも、働けないことがすごく嫌だと気づいたんです。仕事が楽しいかと自分に問うと、めちゃくちゃ楽しいと思えました。イラストだけでなく、印刷物制作もすごく楽しいし、大好きだと初めて気づいたんです」
入院をきっかけに、「無理なく自分にできることをやろう」と考えを変えました。子どもについては当初、3歳まで自宅で育てる方針でしたが、保育園に預けることにしました。家事や育児を含め、何事も今まで以上に夫を頼るようにしました。すると空き時間が増え、次第に仕事も増えていったのです。
幸運にも、別の仕事で忙しくなった知人から、印刷の仕事をたくさん譲ってもらいました。紹介された案件は基本的に全て引き受け、精いっぱいこなしたそうです。完成した印刷物を見た市役所職員から、市の発行するウォーキング地図の作成依頼が来ることもありました。
ツイッターで知り合った母親たちが発行する育児系フリーペーパーにも関わったことも、長い目で見てプラスだったといいます。フリーライター、イラストレーター、デザイナーなどに交じり、合田さんもイラストや版下制作を担当。無償でしたが、仲間の紹介で仕事を受注することが何度もありました。
印刷の仕事では、店を1つ紹介されると、セット注文につながりやすいといいます。例えば飲食店ならメニュー、伝票、ポイントカードなどをまとめて受注できます。比較的まとまった金額になるので助かるそうです。
イラストについても、知人の紹介でイラストレーターのグループに参加するうち、少しずつ仕事が増えました。これまでに書籍や冊子、企業向け研修動画のイラストのほか、広告漫画も手がけました。
印刷の仕事は現在、チラシや冊子、パンフレットの制作が中心です。コロナ禍では、顧客である店舗の休業やイベント中止が相次ぎ、印刷物の注文も減って大変でした。そんな中、三重県で峰文社を営む父・文吾さんが、今もたまに印刷の仕事を受注して回してくれます。
2人の子どもが小5と年長になり、少し手が離れてきました。これまで手の回らなかった営業にも、今後は力を入れるつもりです。現代の営業ツールであるSNSでの活動を特に強化したいといいます。
「いずれ専業イラストレーターに」という夢を持っていた合田さんですが、最近少し考えが変わったそうです。印刷業とイラストを半々で掛け持ちした方が、収入面でも安定し、精神的に穏やかでいられるといいます。
「版下制作とイラストは、自分の中では正反対の作業です。版下制作は自分を無にして、版面に個性を出さないよう意識します。逆にイラストは自分の持ち味を前面に出すんです」
「ひじやともえ」名義で印刷の仕事を始めて10年余り。家族の時間を大切にしたい合田さんにとって、版下制作もイラストも、家でできる点がありがたいといいます。両親が引退した時、印刷機をどこまで引き受けるのか、峰文社の屋号を継ぐのかは、まだ決めていません。その時の自分の生活スタイルに応じて判断したいそうです。
家業を持つ後継ぎにとって、継ぐか否かは大きな二者択一です。一方、合田さんは「家業をどう生かせば、心地よく暮らせるか」を模索してきました。気負いすぎず、やれる範囲でやる。「ゆるい事業承継」の1つの形なのかもしれません。
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