目次

  1. 歴史深い町の青果問屋
  2. 先人の思いが原動力に
  3. IT業界で家業の可能性に気づく
  4. オリジナルブランド米の先駆けに
  5. 震災の逆境で結んだつながり
  6. 固定概念にとらわれないブランド戦略
  7. 先人たちの思いを未来へ

 福島県会津若松市。古くから東北の要衝として栄え、幕末の戊辰戦争では歴史の転換期の舞台となった町です。

 本田屋本店は、勝之助さんの曽祖父・勝伊さんが青果問屋として農作物の卸売りをしたことがはじまりです。農家が手塩にかけ育て、リヤカーに積んで運んできた野菜を仕入れて市内の旅館などに卸していました。

1940年ごろの本田屋本店。車がほとんど走っていない時代に、青果問屋以外にもガソリン屋をしていた(同社提供)

 祖父・勝忠さん、父・勝美さんの代になると同業者で合同出資し、青果市場を設立。時代は、大量生産・大量流通の流れになっていきます。

 勝之助さんは、父から「家は継がなくていい」と言われて育ってきたそうです。そのため、子どものころから家業を継ぐという意識はなく、高校進学の頃には海外に目が向いていました。

 そんな勝之助さんに転機が訪れたのは高校2年生の時。会津の人々がたどってきた歴史が人生に大きな影響を与えました。

 高校で新聞部に所属していた勝之助さんは、会津藩の歴史を取材するために青森の下北半島を訪れます。

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