目次

  1. 家業を「ダサい」と感じた幼少期
  2. 一度は美容師の道へ
  3. 「うちの家業ってかっこいいのでは」
  4. 脱下請けを目指した自社ブランド
  5. 「いいものを作れば売れる」が通用しない
  6. 流れを変えた新コンセプト
  7. 「自分ががんばらなくても」と迷いも
  8. コロナ禍で自社ブランドが支えに
  9. SNS発信で変わった世界

 城下町として栄え、歴史的な町並みが残る岡山県津山市。笏本縫製は1968年に、同市で笏本さんの祖母にあたる玉枝さんが近所に住む女性ふたりと、自宅の一室で始めた縫製会社です。以前、働いていた縫製工場などから、ワイシャツのボタン付けや、ボタンの穴開けなどを請け負っていました。

創業当初の縫製工場の様子

 4世代という大所帯で暮らしていた笏本さん。物心ついたころには、母・たか子さんも、縫製の仕事をしていました。笏本さんは、3つずつ離れたふたりの妹とともに、ミシンの音で起き、ミシンの音を聞きながら眠る日々を過ごしていました。

 小学4年のときに両親の離婚を経験。曽祖父や祖父はとっくに他界していたため、家の中で男性は笏本さんだけになってしまいました。祖母や母は仕事ばかり。「妹を守らないと」と強く思ったといいます。この頃には、自宅から近くの工場に仕事場を移していました。

 当時の笏本縫製は孫請けの仕事が多く、数をこなさないと生活もままなりません。たか子さんや玉枝さんも子どもや孫を育てるため、子育てよりも仕事を優先せざるを得ない日々でした。

 「母親たちはものすごく苦労して何とか生きている状況に見えました。父親はいないし、母親は仕事ざんまいで構ってくれなくて、ご飯は子どもたちだけで食べる。そこまでして仕事をしているのに、いっこうにお金はもうかっていない様子でした」。そう子ども心に感じるほど、暮らしは裕福ではありませんでした。

 「こんな生活をしているのは、激安商品を誰かに言われて作らされている、ダサい会社だからだ」とも思っていたそうです。

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