子どものころは、現在の酒蔵から少し離れた新潟市西区にいて「親はお酒に関わった仕事をしている」程度の認識でした。高校生になって今の酒蔵の近くに住みましたが、「早く東京に出たい」という一心で、法政大学経済学部に入学しました。日本酒との出会いは、大学3年生の終わりくらいです。大学生ゆえ、酔っぱらうためのアルコール度数が高いお酒という認識でした。
笹祝酒造の当時の営業担当から「酒蔵の息子ならお酒に関わる店でバイトしたら?」と勧められ、名酒センターというお店を紹介してもらったのがきっかけです。名酒センターは、故・武者英三さんが東京・浜松町(現在は御茶ノ水)に創業した、1セット3種類の日本酒を立ち飲みで楽しめる角打ちスタイルのお店です。
普通の居酒屋と違い、ちょっとしたおつまみと3種類のお酒を楽しむ人たちばかりでした。バイトは開店前に、ぬか床をかき混ぜる、おつまみをセットするなどの仕事を行います。お客様が来店したら名酒センターのシステムを説明し、冷蔵庫から好きなお酒を3種類自由に選んでもらいます。3種類のセットは、店員にお任せのパターンが多かったです。その際、なるべく笹祝酒造のお酒を忍ばせ、感想を聞いたり、蔵の息子であることを伝えたりしていました。
働いてみて、日本酒への深い興味と関心に驚きました。自分は東京のサラリーマンにあこがれていたので、実家が酒蔵であることがうらやましいと言われる世界はセンセーショナルでした。
オーナーの好意で、閉店後は店内で自由に利き酒をさせてもらいました。大吟醸であってもお燗にしてみたり、異なる銘柄のお酒を混ぜて飲んだり。武者さんからは多くのことを教わりました。このときに味わいの基礎が築かれ、日本酒が好きになりました。
酒販店でワインを学ぶ
ーー卒業後はどのようなキャリアを歩みましたか。
知人の紹介で横浜市にある1874(明治7)年創業の酒販店「坂口屋」に入社しました。最初に担当したのはワインショップの店員です。坂口屋の社長から「日本酒はワインから学ぶことが多くある。酒蔵にいずれ戻るなら、まず他のお酒を勉強しなさい」と言われたからです。
ワインの知識はゼロからで、自費でワインスクールに通いながら、売り場の商品を少しずつ購入して飲んで勉強しました。
最初はハードルが高いと思いましたが、ラベルの意味や産地ごとのストーリーを理解すると、親しみがわくようになります。
店にはまるで図書館のようにワインが並んでいました。ワインバーも併設し、一本千円くらいのワインから3千円~1万円のミドルクラス、それ以上の価格の高級酒まで試飲できました。
手の届かない価格のワインも数多くテイスティングできたし、ワイン上級者のお客様のコメントを聞くことで、理解が飛躍的に深まりました。お客様に恵まれてワインをごちそうになったり、ご自宅に招待されてワイン会を行ったりしました。日常的にワインを楽しむ人たちの価値観にふれ、日本酒の眺め方も変わったと思います。
ーー日本酒とワインの違いをどのように感じましたか?
ワインからは高級酒の価値の作り方を勉強するところがある、と感じます。日本酒は高くなるほど味の種類が限られ、表現できる幅も狭くなります。ワインに比べて保存性が高くないからか、熟成によって酒質の価値が上がることより「でき立ての方がおいしい」という感覚が強いのはもったいないです。坂口屋に6年間勤めましたが、その後の酒造りに大きな影響を受けました。
酒造りを効率的でシンプルに
ーーいつ酒蔵に戻りましたか?
29歳だった2015年春に戻りました。当時の役職は専務で、笹祝酒造のことを勉強をしつつ、新潟県酒造組合が主宰する清酒学校に通いました。
月1~2回、醸造学、数学、理科などを学び、醸造試験場での実習もありました。酒蔵同士のネットワークも醸成され、同期は新潟県内の宝山酒造、石塚酒造、大洋酒造、長谷川酒造の造り手など。彼らはそれぞれの酒蔵の杜氏になりました。
ーー酒蔵に戻り、どのような課題を感じましたか?
3千坪という広い敷地ゆえ、昔の醸造器具が捨てられずに残るなど、整理できていないと感じました。蔵の動線もコンパクトではなく、製造量が多かった時代の酒造りが続いている印象でした。
私が帰ってからは「連続蒸米機」という機械制御の米蒸機を下取りに出し、前に使用していた和釜と甑(酒蔵の米蒸に使うセイロのようなもの)での酒造りに戻しました。
今の醸造量に合わせたダウンサイジングであり、自分たちで簡単な修理ができない設備は、故障時のリスクが大きいと考えたからです。この後に買い替え、導入した設備は構造がシンプルなものだけにしています。
蔵の2階で行っていた酒母造りなどの作業も1階に移しました。年配の杜氏は階段の上り下りが減っただけで楽になったと思います。
笹祝酒造の売り上げの約9割が地元での消費でしたが、それは武器であると同時にリスクです。地元の高齢化が進む中、これからの飲み手をどこに求めるかを考えました。
蔵に帰って2年目に計画したのが、蔵開きの開催、酒屋・飲食店・消費者と一から企画する新しい酒造り(笹祝challenge brew)、新しい日本酒の飲み方の提供という三つの企画でした。
家族で楽しめる「蔵開き」
ーー蔵開きとはどのようなイベントでしょうか。
若年層や子どもたちが酒蔵に慣れ親しむ場として考えました。それまで基本的に蔵は開放していませんでしたが、お酒を製造しバイヤーに販売する以外のキャッシュポイントが経営的に必要と感じたからです。
使用済みの大型タンクが並んだ遊休スペースを整理し、小さな小学校の体育館ぐらいのスペースに地域の人々を集め、年1回、「蔵 Be Lucky!(クラ・ビー・ラッキー)」というイベントを開きました。
笹祝の日本酒は飲み放題で、近隣の料理屋に屋台を出してもらい、地元のバンドに声をかけて音楽ライブを開催。家族みんなで遊べるよう、靴を脱いで上がれるキッズブースを設け、ノンアルコールの酒粕ジェラートを販売しました。今は毎回300人以上が集まるようになっています。
同時期に補助金を使って、事務所の向かいに日本酒の販売と試飲ができるカウンターを作り、随時、酒蔵見学と試飲、酒の購入が可能になりました。
地元を巻き込んだ新商品開発
ーー若者向けの新しい酒造りにも取り組みました。
取引先の酒屋さんから「君の時代ではどんなお酒造りをするの?」と質問されました。今までの酒造りを継承するだけではダメというメッセージだったと思います。笹祝は昔から地域で日常酒として親しまれていますが、対外的な知名度はありません。日本酒に興味をもったばかりの人もひきつけるお酒が必要だと考えました。
私が考えたのが「笹祝challenge brew」という企画です。地元の飲食店や酒屋、新潟大学の日本酒サークルや日本酒愛好家などを集め、「どんなお酒があったら面白いか」という企画会議から始まり、商品のラベルやサイズ、プロモーション方法に至るまで、毎年一つの試験醸造商品を考え具現化します。実際の醸造作業にも参加してもらいます。
酒蔵のスタッフだけでは生まれない発想、酒を企画し造る過程そのものがプロモーションになること、蔵人が毎年新しい醸造法を勉強すること。これまで6年間行ってきましたが、間違いなく今の笹祝の礎となりました。
初年度の16年のテーマは「生酛(きもと)仕込み」でした。
「新潟らしい酒」と言えば「淡麗辛口(たんれいからくち)」というスッキリした味わいが象徴の一方、味のイメージが固定化されることが弊害でした。そこで、今までの新潟の酒に真っ向から立ち向かうことをテーマに、県内ではあまり見られなかった伝統製法の生酛づくりにチャレンジしました。
3年目に誕生したのが、笹祝の代表銘柄の一つになった「SA・SA・SUNDAY(サササンデー)」です。「若い人が気軽に手に取れる日本酒」として、アルコール度数を通常よりも下げ、翌日が仕事でも楽しめる「日曜日に飲む日本酒」というシーンも掲げました。
新しい飲み方を続々と提案
ーー新しい日本酒の飲み方も提案しています。
「日本酒を再び大衆酒にするために、新しい飲み方の提案が必要だ」と考え、地元の飲食店や酒販店と共同開発で、ハイボールのように炭酸割りで飲める日本酒を作りました。酒質変化に強くボトルキープもできるため、話題を集めています。
ほかにも、スパイスを浸して楽しむ日本酒や、お祝いの席を彩るスパークリング日本酒など、お酒が飲まれるシチュエーションから逆算して商品を設計しました。これは前職で経験したワインや飲食店向けの営業から身についたと思います。
私が酒蔵に入ってから会社の環境が少なからず変わり、先代や古くからの従業員や取引先などは戸惑うこともあったと思いますが、頂いた言葉の多くはあたたかい応援でした。
飲めない人も楽しめる酒蔵に
ーーアフターコロナへの展望、今後目指す酒蔵の姿について教えて下さい。
コロナ禍の緊急事態宣言でアルコール提供の自粛が広まり、当社も前年度の6割程度の売り上げにとどまりました。酒造会社として改めて、未成年者やドライバー、健康上の問題で飲酒ができない方へのアプローチができていないと気づいたのです。
当社は、観光名所の「弥彦神社」に向かう街道沿いにあり、多くのドライバーや家族が目の前を通るにもかかわらず、取りこぼしていました。お酒が飲めない人向けに家族で遊びに行ける酒蔵を目指しました。
ーー筆者もプロデュースに加わった「麹の教室」を思いついたのはどうしてでしたか。
お酒を楽しむだけでなく、日本酒をはじめ伝統的な麹や体に良い発酵食品などに興味を持っていただく体験型施設にすることで、多くの方に楽しんでいただこうと考えました。
特に日本酒の原料である「麹」は理解しづらく、「麹室」(麹を作る部屋)は最も繊細な製造工程で品質にも大きく影響するので、見学客は案内できません。
そこで蔵の中に、誰もが学べる麹製造の実験室「麹の教室」を作り、23年3月にオープンしました。かつて住み込みで働いていた蔵人たちの生活スペースを再活用しています。
麹づくり体験や塩麹づくりのワークショップができ、家族で楽しめるようにしました。子どもに酒蔵を身近に感じてもらい、将来的な顧客を育てる狙いです。
私が経営者になった今も製造コストなどは良化したものの、日本酒出荷量の減少は止まらず、コロナ禍では売り上げを落としてしまいました。ただこの間「飲めない人も楽しめる酒蔵」という新しいテーマと武器を手に入れました。
創業当時から食文化もライフスタイルも様変わりしています。酒蔵は伝統産業でありベンチャー企業でもあると思って走り続けます。