「日本ツクリダス」の本社から南東へ約9キロ、大阪府河内長野市に、今も角野さんの父親(74)が営む町工場があります。主に生産設備機械の治具や機械部品を製造しています。
角野さんが子どものころの印象は、父や工員が「無表情で黙々と機械に向き合っていた」というものでした。幼いころからおしゃべりだったという角野さんは「自分が将来就く仕事ではないな」と感じ、父と家業について話題にすることはありませんでした。
大学卒業後は2社で働きました。そのうちの一つの販売会社では「1年後に正社員になれる」と言われ、まず契約社員として入社したにもかかわらず、3年働いても約束は果たされなかったといいます。そんな不満を父に明かしたところ、「それならうちに来い」と誘われ、25歳の時に家業に入ることになりました。
町工場で働き始めると「意外とストレスがなく、ものづくりも楽しい」と感じました。機械の操作に慣れ、製造フローも一通り覚えると、誰に頼まれるでもなく次第に工場の「改善」に取り組みます。
最初に取り組んだのは取引先の拡大です。父の町工場は長年の大口顧客1社からの受注に依存していました。万が一、その1社からの発注がなくなれば一気に経営は傾きます。危機感を抱いた角野さんは、前職で経験したインターネット集客を始めました。
当時、町工場でウェブサイトを持っているところはほとんど無く、徐々に受注が増加。しかし、一部のベテラン工員からは反発されました。祖父の代からの工員にとって、昔からの大口顧客が最優先で、他社は後回しだったのです。工場自体のキャパシティー不足もあり、問い合わせがあっても断らざるを得ないこともありました。
「『町工場あるある』なんですが、『これまでそんなんやってこなかった』が理由になるくらい、変化しようとしないんですね。新しいことをやろうという発想さえ乏しい。毎日同じことを繰り返すことは、単純に楽なんです」
それでも角野さんが入社してからの数年で、年4千万円だった売上高は8700万円に増え、1社だけだった顧客数も100社ほどに増えました。4人だった工員も8人に増やし、外部の協力工場への生産委託も始めました。
家業から独立した理由
30歳になったころ、角野さんは受注増に伴って検査や出荷などに人とコストをかける必要が生じ、社内でものづくりが十分にできなくなってきたことに課題感を持っていました。受注数や売上高を増やしたのに、昔からの顧客を大切にしたい父やベテラン工員からの「歓迎されていない」雰囲気にも違和感を覚えていました。
それでも3代続く町工場を自分の代で終わらせず、もっと成長させるにはどうすればいいのか――。そんな悩みを資金繰りについて相談した金融業界の関係者に明かしたところ、「実家の町工場の何を守りたいの?」と問われました。
角野さんは即答できません。するとこの関係者は、自身もかつて何代も続く老舗店舗の後継ぎで、家業を廃業したことを明かしたうえで、こう続けました。「僕は守りたいものが明確じゃなかったから終わらせた。看板を残したいだけやったら、看板は外して持っていけばいい」
角野さんは気持ちが楽になった気がしました。そして2009年、父の会社に所属しながら個人事業主として「日本ツクリダス」を創業。13年に法人化し、角野さんが増やしてきた顧客からの依頼を外部の協力工場に生産委託する、販売商社として独立しました。父親からは「好きにやればいい」と言われ、反対されませんでした。
発注急増で痛感した課題
最初は販売商社だった日本ツクリダスですが、特急対応の依頼が増え、自分たちでも金属加工をすることになりました。当時は自前の設備は無く、材料だけを持って他の町工場に行き、そこの機械を借りて生産。工員は有料の求人媒体を使うなどして募集しました。
金属メーカーなどからの依頼は全て内容が異なり、しかも小ロット。たいていは1案件につき図面が1枚だけで、同社では毎月の図面が数百枚から多い時で1千枚分の注文を受けています。うち7割を協力工場に委託し、残り3割を自分たちで担う形です。そのため、受発注から納期までの工程が非常に複雑で進捗管理が重要です。
メーカーからの追加発注や図面の変更なども日常茶飯事。イレギュラーな事態にすぐ対応し、臨機応変に生産工程を整え直すには、効率的な生産管理が必要になります。
一般的に、町工場の多くは1人の経営者や工員が「頭の中で管理」しているだけで、属人的にこなしているのが実態です。それでは数多くの案件に対応できません。角野さんの父やベテラン工員が、顧客数の増加に抵抗感を持っていたのも、きちんと生産管理ができなくなるからという理由もありました。
ある時、父親の工場で火災が発生し、図面が焼けてしまったことがありました。その時は、角野さんがエクセルを導入して図面の内容を転記し、Dropboxに保存していたため、難を逃れました。
角野さんは日本ツクリダスでも成長に伴って生産管理システムを導入することに決めました。
人件費が月40万円減
ただ、市販の生産管理システムは導入費用が500万円ほどと高価で、しかも日本ツクリダスのような規模の町工場には高機能過ぎるものもたくさんありました。
角野さんは協力工場や町工場の経営者仲間からも「納期の管理が大変」、「図面がどこにあるか把握しきれない」といった悩みを多く聞いていました。「それならほかの会社でも使えるシステムをつくろう」と考えました。
そうして外部のシステム開発会社と開発し、2014年に完成したのが、町工場向けの生産管理システム「エムネットくらうど」です。パソコンだけでなく、スマートフォンやタブレットでもアクセスできるクラウド型で、価格は初期費用と初年度の利用料を含めて計約90万円です。一般的な生産管理システムの実勢価格は500万円、しかも保守費用を含まない価格なので、エムネットくらうどは導入しやすい価格と言えそうです。
開発過程では、町工場の現場目線とシステム開発者の目線とをすり合わせて要件を固めるのに苦労しました。通常の生産管理システムでは標準機能でも、工程・納期管理に重点を置いたエムネットくらうどには盛り込まないことにしたため、開発者と一つひとつの機能を議論し、構築していきました。
特徴の一つが「バーコード管理」です。それまで紙で管理していた町工場でもすぐに使いこなせるよう、バーコードを発行して既存の紙の書類に貼り付け、それを読み込むことで日報の登録や受注案件の情報の詳細確認ができるようにしました。
もう一つの大きな特徴が、機能を絞ったシンプルな設計と画面によって、生産工程の進捗状況が誰でもどこからでも見られることです。工程の「見える化」に力点を置くことで、計画の精度が上がったり効率化が進んだりするうえに、イレギュラーな事態に担当者が不在でも、すぐに把握できて対応できます。発注元のメーカーからの問い合わせに、現場まで行かなくてもパソコンのモニターを見て迅速に答えられるので、信用度のアップにもつながります。
日本ツクリダスではかつて生産管理や問い合わせ対応などのために事務職員が1日あたり2.5人必要でした。エムネットくらうどの導入で情報共有がしやすくなり、1日あたり1人で済むようになりました。人件費では1月40万円の削減効果がありました。
徹底的に作業効率を上げたことで、15年ごろには完全週休2日制を実現。さらに効率を上げるため、ビジネスチャット「Chatwork」やタスク管理ツールの「Trello(トレロ)」、会計管理の「Money Forward クラウド」といった市販のクラウドサービスも導入しました。
営業スタイルを背広から作業着に
一方で、エムネットくらうどの他社向け販売は苦戦しました。14年秋に製造業向けのITソリューションの展示会に出展したところ、来場者からは好反応でしたが、その後いつまでたっても問い合わせが入りません。
「製造業はメールやファクスで見積もり依頼が届き、送り返せば受注が決まるようなビジネス。当時の僕らはそんな受け身体質が染みついていたんです。でもシステム販売はそれとは違うことに気づいてからは、積極的に提案しに行って、デモをして検討してもらうやり方にシフトしました」
そして販売開始から2年後、初めての契約に至りました。その顧客とのやり取りを通じてシステムをさらに磨き込み、営業スタイルも進化させました。システムの機能だけを説明するのではなく、お客さんの悩みを解決する寄り添い型の営業です。
背広姿で営業していたのもやめて町工場の作業着で訪問し、同じ目線で話すスタンスにしたのです。商談でも「買ってください」、「導入しましょう」などとせかすのではなく「必要と感じたらまたお声がけください」と言い残して帰るようにしました。
30~40代の後継ぎが導入
18年に東京であった展示会では、ブースに「町工場専用」というコピーを大きく掲げました。「当初は顧客層を絞ることになるので、怖かったんです。でもいざ展示会が始まるとたくさんの町工場の方々に関心を持ってもらいました。マーケティングの意味でも、自分たちの商品・サービスを誰に届けたいかを意識することがいかに大切か、いい学びになりましたね」
エムネットくらうどはその後、契約が相次ぎ、23年7月時点で東北から九州までの約153社が導入。日本ツクリダスの売り上げ全体の3割を占める事業に成長しました。
導入企業の80%は従業員10~30人の町工場。しかも30~40代の後継ぎの経営者がいて、先代以来の属人的なやり方を改善して生産管理を「見える化」しなければいけないことに気づいた会社が多いそうです。
日本ツクリダスは他にもネット集客のノウハウに加え、ホームページや企業ロゴの制作などを中小企業向けに受託する事業も展開しています。こちらは売り上げ全体の7%を占めるまでに成長しています。従業員数もパートを含めて27人(23年7月現在)に増えました。
「僕たち自体がサンプルになって、『アナログで暗い』イメージの町工場のデジタル化やブランディング推進をお手伝いし、町工場を変えていきたいと考えています」
※後編では、経営状態の「見える化」、SNSと自社の音声番組などの情報発信によるブランディングで売り上げを3倍に伸ばした背景や、角野さんが「アトをついでないアトツギ」と名乗る理由に迫ります。