目次

  1. 「自分が就く仕事ではない」
  2. 1社依存から脱したネット集客
  3. 家業から独立した理由
  4. 発注急増で痛感した課題
  5. 人件費が月40万円減
  6. 営業スタイルを背広から作業着に
  7. 30~40代の後継ぎが導入

 「日本ツクリダス」の本社から南東へ約9キロ、大阪府河内長野市に、今も角野さんの父親(74)が営む町工場があります。主に生産設備機械の治具や機械部品を製造しています。

 角野さんが子どものころの印象は、父や工員が「無表情で黙々と機械に向き合っていた」というものでした。幼いころからおしゃべりだったという角野さんは「自分が将来就く仕事ではないな」と感じ、父と家業について話題にすることはありませんでした。

 大学卒業後は2社で働きました。そのうちの一つの販売会社では「1年後に正社員になれる」と言われ、まず契約社員として入社したにもかかわらず、3年働いても約束は果たされなかったといいます。そんな不満を父に明かしたところ、「それならうちに来い」と誘われ、25歳の時に家業に入ることになりました。

 町工場で働き始めると「意外とストレスがなく、ものづくりも楽しい」と感じました。機械の操作に慣れ、製造フローも一通り覚えると、誰に頼まれるでもなく次第に工場の「改善」に取り組みます。

堺市にある日本ツクリダスの本社兼工場

 最初に取り組んだのは取引先の拡大です。父の町工場は長年の大口顧客1社からの受注に依存していました。万が一、その1社からの発注がなくなれば一気に経営は傾きます。危機感を抱いた角野さんは、前職で経験したインターネット集客を始めました。

 当時、町工場でウェブサイトを持っているところはほとんど無く、徐々に受注が増加。しかし、一部のベテラン工員からは反発されました。祖父の代からの工員にとって、昔からの大口顧客が最優先で、他社は後回しだったのです。工場自体のキャパシティー不足もあり、問い合わせがあっても断らざるを得ないこともありました。

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