フレンドフーズは京都・下鴨(しもがも)にある1977年開業のスーパーです。店舗面積は約200平方メートル、スタッフ90人(うち正社員33人)。郊外の大型スーパーに比べ、こぢんまりとした印象です。
しかし、足を踏み入れた瞬間、商品の量と種類の多彩さに圧倒されます。木おけで造られたしょうゆ、非加糖のフルーツジュース、栄養素を残す精米したおかきなど年間約3万品目が並び、「ほんまもんが手に入る」と他府県の客も引きつけています。
藤田さんは「たとえば、鮮魚なら社員が福井県の小浜港へ出向き、競りから参加しています。淡路島の福良港からも直送があり、プロの料理人の方々も買いに来てくださいます」と胸を張ります。
フレンドフーズは1979年、藤田亮一さんが創業しました。大分県でゴムの卸問屋を営んでいた亮一さんは1960年、妻の実家があった京都に移住。現在地の下鴨に喫茶店「ブラジル」を開店します。三角窓を採り入れたモダンなデザインが目を引き、映画撮影や自動車のCMに使われました。
亮一さんは77年、流行の兆しを見せていたミニスーパーマーケットのフランチャイズに加盟して転業しますが、決まった商品しか販売できない不自由さに嫌気がさしてフランチャイズを脱退。個人経営のフレンドフーズを開きました。
2代目で父の勝さんは生産者とともに自ら野菜を栽培するなど、一般的なスーパーと一線を画す品ぞろえに力を注ぎ、「流通の革命児」と呼ばれたそうです。
しかし、藤田さんは父と「仲が悪かった」と言います。
「父は仕事に没頭するタイプでした。私は学生時代、遊びに夢中で家に帰る日が少なく、会話はほぼなかった。店は正月を除いて年中無休だったので家族で旅行した記憶もほぼないです。フレンドフーズを継ぐ気はみじんもありませんでした」
藤田さんは2005年に同志社大学を卒業後、ベネッセコーポレーションを経て、学校関係の写真や映像制作・販売、ウェブサイト構築やシステム開発などを手がけるベンチャーを友人と起業します。16年には代表取締役に就任し、教育畑のIT企業として飛躍を続けます。
積みあがった負債にがく然
「フレンドフーズの役員になってくれないか」と頼まれたのは、そんな時期でした。勝さんが肝硬変を患い「陣頭指揮が執れなくなっている」というのです。
「父が亡くなる約半年前でした。親族や社員はもちろん、得意先、生産者さん、さらには他のスーパーの方からも『フレンドフーズをなくさないで』と頼まれたのです。泣き声で電話をかけてくる人までいました」
藤田さんは「それほど大切なフレンドフーズとはどんなものか、自分の目で確かめよう」としぶしぶ承知し、役員として経営に加わります。
「初めて財務諸表を見てがく然としました。過去何年も赤字が続き、給与や賞与を払うために借り入れる自転車操業。銀行や専門家による経営再建計画も動いている状況でした」
勝さんは圧倒的な知識を備えた牽引型のリーダーシップで慕われた一方、資金繰りには手が回らず、負債は約3億円に積みあがっていました。
災いは重なります。勝さんが病に倒れたことで「支払いが滞っている」と根も葉もないうわさを流され、「商品を卸してもらえない」、「現金でないと買い取れない」など仕入れが難しくなってきたのです。
「デマの出所を見つけて話し合うなど苦労しました。父は得意先や生産者さんを大切にし、支払いを滞らせたことは一度もなかった。それが再建にとって救いでした」
スーパーとIT企業を同時経営
勝さんは18年に他界。当時の財務状況は誰が見ても「相続放棄した方がいい」と思うほどの惨状でした。それでも、藤田さんは「教育関係のIT企業も継続する」という条件でフレンドフーズ3代目になりました。
「父の元に集まった社員は、それぞれが尊敬できる食のプロフェッショナル。素材の目利き、調理技術などに経験と高い知見があり、素晴らしい商品を提供する生産者さんやメーカーを、本気で支えようとしていました。半面、バックオフィス業務が弱かったので『商品力が強いのだから、私が弱点を補えば伸びる』と踏んだんです」
IT企業とスーパーを同時に経営する生活が始まりました。
「両社とも私のメインです。平日はIT企業にいてフレンドフーズはリモート勤務。出勤は主に土日祝です。私は目利きができず包丁も握れない。スタッフは食のプロ集団だから任せる方が確実です。その代わり、私が中心となって弱みを克服する体制を取りました」
平日は社外にいる藤田さんはビジネスチャットツールを導入。スタッフはツールを通じて藤田さんとコミュニケーションを取り、他部署にも共有します。
たとえば精肉部門の社員が「関西にはほとんど流通がない米沢牛を仕入れたい。交渉のため山形まで出張していいか」とチャットします。藤田さんは即「OK!」と返信。圧倒的な速度で物事が動き、なおかつ記録が残る利点があるのです。
勝さんが常に会社にいた時代は、指示ができてもいなくなったら情報が必要箇所に行きわたりにくいという弱点がありました。
ブランドブックで理念を共有
藤田さんは販管費の見直しとコストカットにも着手。その中には2店舗目の閉店も含まれ、希望退職者以外のスタッフ全員を現在の店に集結させました。
1店舗あたりの人数が増えたため、藤田さんは社内統制を図ろうと、外部のプロフェッショナルや社歴が長いスタッフと「BRAND BOOK」(ブランドブック)を制作しました。
そこには、フレンドフーズの新たな基本理念や歴史に加え、「植物油は低温圧搾法で搾油していること」といった仕入れや調理の基準などを記載。それぞれの項目の隣にメモ欄があり、スタッフが自分の考えを書き込めるようにしています。
「社員がメモを書き込んだら回収して内容を見直し、冊子のバージョンアップを繰り返すことで、みんなが理念に触れる機会が増え、判断に悩んだときに立ち戻れます。先代のころは古株社員への口頭伝承のみ。メモくらいはあったとしても記憶は薄まります。そうならないよう冊子に明文化しました」
遠方の客も引き寄せたSNS活用
藤田さんは、約1万4千フォロワーのインスタグラムをはじめとするSNSも駆使して、仕入れた食材の産地情報などを伝え、コメントにも積極的に返信します。
「いい商品のPOPを出しても、店内でたまたま見た人にしか届きません。先代時代から、外への情報発信が必要という考えはありましたが『やり方がわからない』と実施していなかったんです。それを聞いた瞬間、『今からすぐやる!』と動きました。大事にしているのはクオリティーやトーンマナーよりも情報の鮮度とコミュニケーション量の増加。スタッフや自分自身が撮影してアップするようにしています」
時には「SNSのフォロワーと飲みに行く」ほど仲が深まることも。この作戦が奏功し、北海道や九州からの来店客も生まれました。
最近はより多様な視点で商品を発信したいと、常連客や取引先の推す商品を集めた棚まで設置しています。「いい商品を選んで発信すると、お客さんも熱量が高い人が集まるんです」
SNSを重視する一方、新聞の折り込み広告などには予算を割きません。
「スーパーのチラシは、特売情報を伝えるために配られる場合が多いですが、うちは基本的にセールをしません。たとえば『今日は卵が安いです』と伝えるのは、卵の価値を下げることになると考えています。ですから安売りはしないし、チラシを発行する理由がないんです」
老舗佃煮店ののれんを継承
藤田さんの経営信条は生産者やメーカーとの連携です。「仕入れるときは値切りません。いい商品を継続して作っていただくには、その人たちの生活も守らないと」
20年10月、その信念が表れる出来事がありました。1884(明治17)年創業の京都・錦市場の老舗総菜店「井上佃煮店」を、フレンドフーズへ呼び寄せたのです。
井上佃煮店は市場の変化など様々な理由で、19年12月に廃業したのですが、藤田さんがのれん代を支払うかたちで法人として残したのです。店主だった梅村猛さんと娘の美都(みさと)さんはフレンドフーズに入社し、同店の商品を作り続けています。
井上佃煮店は元々取引関係にあり、総菜は藤田さんの大好物でした。「旬の素材を使ったおいしいお総菜を、『閉店して残念』という気持ちで終わらせたくなかった。うちのキッチンで復刻販売できるようにしたのです」
同店の看板商品「万願寺とうがらし」、「いかみょうが酢」などがフレンドフーズに並ぶと、涙ぐむ客もいたそうです。中でも「ちりめん山椒」は「ご当地スーパーグランプリ2022」(一般社団法人全国ご当地スーパー協会主催)の「ご当地スーパーみやげ」部門でグランプリを受賞しました。
コロナ禍の20年には、井上佃煮店のみならず、苦しむ京都の飲食店の商品を店内で扱ったり、得意先が作るオリジナル弁当を販売したりしました。
「コロナでお店が潰れたら、その店のおいしいものが二度と食べられなくなる。そんな悲しいことはありません。街の人が幸せでなければ、スーパーはやっていけないですから」
新時代の「ほんまもん」を求めて
藤田さんは経営を継いでわずか1年で黒字転換を果たし、先代時代の年間売り上げ8億円を11億円に伸ばしました。
SNS発信で他府県からのニーズが高まったことを受け、手薄だったECショップに取り組み始めたところです。「ECショップは生産者さん、メーカーの気持ちをネットを通じて伝えることが第一義。今後は少しずつ育て、緩やかに売り上げにつながればと考えています」
ECショップも、藤田さんが大切にしてきたSNS発信と生産者・メーカーとの連携という軸にひもづくものです。スーパーマーケット界の習わしに倣うのではなく、異業種で得た知見を採り入れる。藤田さんは新しい時代の「ほんまもん」を求め続けます。