目次

  1. 航空機開発からの転身を決断
  2. 地元の町工場で経験を積む
  3. 家業で切り開いた医療機器の研磨
  4. 「製造ハブ」の仕組みを構築
  5. 最先端分野に100社が参画
  6. 製品の幅を拡大しつつ足場固め

 「帰ってきても仕事はないぞ」

 家業入りを決めた小川さんに父で社長の弘之さんはけんもほろろな対応でした。しかしそれも仕方のないことでした。

 小川製作所は戦争から帰ってきた祖父の源次郎さんが興した厨房機器のメーカーがそのルーツです。学校給食が始まって会社は大いに潤いますが、大手メーカーの参入で事業の縮小を余儀なくされます。建物金物など厨房機器以外に手を伸ばすも世の中の流れにあらがうことはできず、リーマン・ショック以降は弘之さんひとりで細々と溶接の仕事を受けていました。

創業当時の主力製品は厨房機器でした。写真はワゴン(小川製作所提供)

 小川さんは雑誌「ニュートン」を愛読するなど、子どものころから宇宙に興味がありました。宇宙工学者として名をはせた、狼嘉彰さんが教授に就任すると知った小川さんは彼の薫陶を受けるべく慶應義塾大学に進学、サブオービタル宇宙輸送機の研究に励みます。

 くだんの輸送機は民間人の宇宙飛行体験を可能とするあらたなジャンル。その研究が評価されて05年、富士重工業(現スバル)へ就職します。配属されたのは念願の航空機開発部門でした。

 3次元CADによる設計、解析ソフトを使ったシミュレーション、試作機の製作――。まさに最先端の世界にどっぷり漬かった小川さんでしたが、いよいよ本格的な試験を開始する直前に退職届を提出します。

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