小川製作所は戦争から帰ってきた祖父の源次郎さんが興した厨房機器のメーカーがそのルーツです。学校給食が始まって会社は大いに潤いますが、大手メーカーの参入で事業の縮小を余儀なくされます。建物金物など厨房機器以外に手を伸ばすも世の中の流れにあらがうことはできず、リーマン・ショック以降は弘之さんひとりで細々と溶接の仕事を受けていました。
小川さんは雑誌「ニュートン」を愛読するなど、子どものころから宇宙に興味がありました。宇宙工学者として名をはせた、狼嘉彰さんが教授に就任すると知った小川さんは彼の薫陶を受けるべく慶應義塾大学に進学、サブオービタル宇宙輸送機の研究に励みます。
くだんの輸送機は民間人の宇宙飛行体験を可能とするあらたなジャンル。その研究が評価されて05年、富士重工業(現スバル)へ就職します。配属されたのは念願の航空機開発部門でした。
3次元CADによる設計、解析ソフトを使ったシミュレーション、試作機の製作――。まさに最先端の世界にどっぷり漬かった小川さんでしたが、いよいよ本格的な試験を開始する直前に退職届を提出します。
「入社2年目で結婚し、妻のおなかには子が宿っていました。最終試験は出張先に半年缶詰にされると聞きました。この時期に妻をひとり残していいものかと煩悶しました」
実家のことも頭をよぎります。
「職住一体の環境で育ちましたから、家業は地続きの存在でした。いずれは継ぐつもりでいましたが、そのころはまずは宇宙関係でいけるところまでいきたいと考えていました。本音をいってしまえば、そのまま(航空機のエンジニアとして)骨を埋めることになっても、それはひとつの人生だろうと思っていたのです。しかし我が子の誕生を控えて、家業のもつ意味はとても大きくなりました。妻にわたしの思いを打ち明けたところ、案に相違して背中を押してくれました」
家業には可能性も感じていました。
「小川製作所には職人の父、経理の母がいて、工場もあります。町工場としての最小単位のユニットはできあがっているわけで、いくらでもやりようはあるのでは、と考えました」
地元の町工場で経験を積む
そうはいっても町工場を経営するノウハウがありません。小川さんは08年に精密部品メーカーのキャムブレーンへ転職します。
「キャムブレーンは当時切削加工の最先端といわれた5軸加工機を十数台そろえていました。グーグルで『5軸加工機』を検索して、トップに出てきたのがキャムブレーンでした。そして驚いたことに、その会社は歩いて20分のところにあったのです」
入社して2年は製造の補助、部品仕上げ、検査などに携わりました。転機はリーマン・ショック。売り上げが前年度の4分の1まで縮小、損益分岐点を大幅に下回ると、新規顧客を開拓せよとの指令が下ります。
営業技術課長の肩書を与えられた小川さんは、わずか1年で取引先を2.5倍に増やしました。
「わたしが取り組んだのはホームページによるプル型の営業やメールDMなどのプッシュ型の営業などどれもありふれたものであり、そこに工夫があったわけではありません。キャムブレーンは一介の町工場とは思えない設備をそろえ、試作開発から中ロットの量産まで一気通貫の体制を整えていました。わたしは会社の強みを棚卸ししただけ。それまでは仕事に困ることがなかったから、営業らしい営業をしたことがなかったのです。成長分野の医療、理化学、半導体、航空、エネルギーを中心に営業をかけたところ、多くの担当者に興味をもっていただけました」
工員のひとりとして働いていたころは定時上がりが常でしたが、新規開拓の仕事が始まってからは1日の睡眠時間が2〜3時間という日が続きます。しかし小川さんにとってそれは望んだこと。張りのある毎日だったといいます。
なによりも一から十まで自分で推し進めることのできる町工場にあらためてやりがいを覚えます。
「大手にいれば大きなプロジェクトに参加できます。しかし自分が関与できる部分はとても小さい。ひるがえって町工場では案件が部品のひとつにすぎなくてもすべてに責任が発生する。わたしは後者にひかれました。就職活動でも富士重工業とてんびんにかけたのは職人が1人か2人しかいない模型屋でした。大学時代の実証実験で協力してもらった無線操縦装置のメーカーです」
家業で切り開いた医療機器の研磨
12年9月、小川さんは満を持して家業に入ります。
「手始めに研磨技術の習得に励みました。かつてはひとり工場だったので仕上げの研磨も父がやっていましたが、(父は)あくまで溶接のプロ。わたしが研磨を覚えれば父と補完関係になる。これが、めっぽう楽しいんです。自分の手を介して変わっていく。たまらないものがありました」
そう語る小川さんは父との二人三脚で溶接の注文をとっていきます。徐々に知名度をあげていくなか、研磨単体の仕事が舞い込みます。オファーしてきたのは医療分野の会社。15年のことでした。
「担当の方とは異業種交流会で知り合いました。研磨をやってくれるところがなくて困っておられました。社内にも研磨部門をお持ちでしたが、それだけでは回らないということでお受けするように。手仕事の需要は減りつつありますが、それ以上に担い手が減っていたのです。おかげさまで社員を雇用する体力がつきました。いまは2人の職人が働いてくれています」
医療機器研磨の取引先は現在3社に。研磨業は理化学や食品の業界にも広がりました。あらたなジャンルは現場に任せていますが、医療機器は変わらず小川さんの専売特許です。
「製造ハブ」の仕組みを構築
研磨業に先んじて、13年には精密部品加工業にも足を踏み入れます。小川さんは同業他社と手を組んで生産体制を整えていきました。
町工場が仕事を融通し合うのはありふれた光景であり、小川製作所はもちろん、世話になったキャムブレーンも近隣の工場とは緩やかな連携関係にありました。これをあらたなビジネスモデルとして研ぎ澄ましていったのです。
小川さんは小川製作所が果たす役割を「製造ハブ」と名づけました。
製造ハブは文字どおり、取りまとめ役として案件とその案件にふさわしい工場をマッチングするもの。工場を下請けではなく、対等なパートナーに引き上げることを目指しています。小川さんは営業代行費を原資にこのビジネスモデルを展開しています。
「製造現場に身を投じてみえてきた課題は、技術はあってもアピールする手立てがないということでした。わたしが窓口になれば、いくらかはこの問題が解消できるんじゃないかと考えた。しかしそれ以上に頭を悩ませていたのが買いたたかれて疲弊する状況でした」
大手は協力会という下請け企業のグループを組織。価格に重きをおいて仕入れ先を選びました。インターネット受発注が盛んになっても、やはり最低価格を入札した企業が選ばれる傾向は変わりません。廃業の流れは加速していました。
最先端分野に100社が参画
小川さんがお題目に掲げたのは、付加価値のバトンリレー。
「彼らの技術に付加価値をつけて、それに見合った対価をいただく、というものです。加工部品の少量化、多様化が進み、製造現場はみえにくくなっています。結果、案件のたらい回しが発生し、中間マージンがかさみ、コミュニケーションも疎遠に。わたしどもなら最適化された道筋(=付加価値)を提案することができる」
付加価値はパートナー企業がバトンを渡すたびに膨らんでいく――。だから、バトンリレー、というわけです。
「このビジネスモデルにおいて大切になってくるのが、信頼コストをいかに下げるかということであり、われわれには圧倒的なプライオリティーがあります。小川製作所みずからが町工場であり、コンピューターのクラスターさながらパートナー企業を知悉(ちしつ)しています。定期的な情報交換により、負荷状況や新規分野の情報も適宜アップデートされます。営業代行費をいただく製造ハブは、いわゆる商社に近い形態ですが、血の通ったこの関係性が商社とは決定的に異なる点です」
一体感は発注元にも求められます。そこでは小川製作所の目利き力が問われるといいます。
「おかげさまで各方面からお声がけいただけるようになりましたが、9割は断らざるを得ない状況です。コストが見合わないのがネックになっています。ベテラン工員の場合は時給換算4500円で見積もりを出します。健全で持続的な経営体制を守るためにはこのハードルを下げることはできません」
製造ハブのプロジェクトはいまや100社の工場がチームの一翼を担うまでに。受注内容は半導体製造装置や航空機部品など最先端分野の案件がずらりと並びます。
取引先からは絶大な信頼を得ています。同社のホームページでは、次のような顧客の声を挙げています。
切削痕の除去(研磨)や洗浄・脱気梱包にいたる半導体関連に特有な処置にまで対応できる加工業者はなかなかいない/従来の町工場ではあり得ないスピード感がある。設計から各種加工、組み立てまで精通しているからこその態勢だろう/航空機部品から治具部品ひとつまで受けてくれる振り幅の大きさには毎度驚かされる(※一部抜粋・修正)
小川製作所ホームページ
製品の幅を拡大しつつ足場固め
「われわれのものづくりはいずれAIに置き換わられてしまうのかも知れない。しかし現時点ではわかりません。不確定な未来に思い悩む暇があったら、職人が正しく評価される環境をつくりたい」
現在の状況は消極的な要因ながら、追い風になると小川さんは分析します。
「円安が進めば産地の国内回帰が進むし、輸出にも勢いがつくでしょう。ただし、価格勝負に頼っていては継続的な発展は望めません。われわれには価値の創造が求められます。多品種少量をベースとした試作品の開発やオーバーホール、カスタムのジャンルにポテンシャルがある」
小川さんは志を同じくするTOKYO町工場HUBにも参画、ものづくりインテグレータの肩書でプロジェクトを推進しています。TOKYO町工場HUBは町工場とともにアントレプレナーの事業成長を支援する組織です。
19年には東京電力パワーグリッドより開発委託を受け、電力ケーブルの工事用治具の試作品開発、特許申請まで行いました。
22年にONE SLASH ONEが公開した「次世代型ジム1/workout」に用いられるパワーラック(トレーニング装置)の試作を手掛けたのも小川製作所です。ONE SLASH ONEはグーグルのエンジニアが起業したマイクロジムの企画・開発・製造企業です。
ほぼゼロから始まった小川製作所の第2ステージは順風満帆、年商は1億円規模に達しました。
エンジニアとして経験を積んだ3次元CADを駆使した設計・開発支援もひとつの柱として成長しており、現在の構成比は粗利ベースで溶接・研磨などの金属加工が50%、精密部品加工が35%、設計・開発支援が15%となっています。
「いずれは航空機をつくってみたい、というのはありますが、それはずっと先の話。まずは足場を固めたい」