子どものころの大山さんは、梅のかつお漬けの仕込みで手が赤く染まった7代目の父の姿が印象に残っています。父は多くの時間を工場で過ごし、家では仕事の話をしなかったため、大山さんにとって家業のイメージはぼんやりしたものでした。
大山さんは中高でサッカーやバンド活動にのめり込み、東京の体育大学で教員免許を取得。母校の高校の体育講師を務めます。祖父からは幼いころから「吉田屋の後を継ぐんだ」と言われましたが、まだ現実的ではありませんでした。
講師の傍ら社会人サッカーチームでプレーし、サッカーを教える楽しさを感じ始めていたある日、父から「新規事業としてそぼろ納豆(切り干し大根のしょうゆ漬けと小粒納豆を混ぜ、秘伝のしょうゆで漬け込んだもの)を作るから、そろそろ戻ってこないか」と声をかけられました。
2003年から家業に入った大山さんは、まず全工程を学ぶところからスタート。ベテラン社員に教わりながら漬物包丁を研いだり、漬物をつける用具の消毒や殺菌をしたり、包装紙や段ボールを折ったりしました。
家業に入るもサッカー漬けの日々
そぼろ納豆づくりは手作業がほとんどで、漬物の水分調整や漬物石の重さ、置き時間の調整など、試行錯誤の日々でした。しかし、このころの大山さんに後継ぎという意識は薄く、終業後や土日はサッカー漬けだったといいます。
地元中学校で外部コーチとしてサッカー指導を続け、25歳で結婚。仕事とサッカーの往復が続きます。サッカーを教わりたいという希望者が増え、地域クラブ「ヴェレン大洗」も立ち上げました。
「家業に戻るころはプレーヤーとしても絶好調。今となっては恥ずかしい話ですが、仕事はサッカーをやるための土台という意識で、新しいことをやるモチベーションもなくて…。家業に入ってしばらく、決算書も見たことがありませんでした」
低塩分の梅干し「八代目」を開発
そんな大山さんも気になることがありました。朝食では家庭用に漬けた梅干しを食べるのが日常でしたが、「こんなにしょっぱくていいのだろうか」と感じていたのです。
家業でも、塩分を減らし無添加の梅干しを作ろうと試行錯誤します。しかし、塩分を減らすとカビや腐敗といった課題が次々と浮かびます。初めて塩にもこだわり、赤穂や伯方などミネラルが豊富な塩を集めて試作すること3年。09年に、塩分10%で無添加の梅干しが完成します。家業に入って7年、自身の代名詞の「八代目」を商品名にした梅干しは初の商品開発でした。
「八代目」は健康志向の客層から注目され、今では定番となりました。「『八代目』をきっかけに、食べる人を意識するようになり、少しずつ他社のことも調べるようになりました」
東日本大震災で受けた衝撃
11年の東日本大震災は大洗町にも被害をもたらしました。
当時、吉田屋の卸先のほとんどが茨城県内でしたが、原発事故による風評被害で店は閉められ、商品を連日引き取りに行きました。発生直後の3、4月は売り上げが立たず、梅の収穫期の5月に入ると「店にあるのは今年収穫した梅か」、「放射能がかかっているんじゃないのか」という問い合わせの対応に追われました。この年、3~12月までの売り上げは2割以上落ち込みます。
風評被害に苦しむ中、茨城県観光物産協会の青年部への誘いが転機となります。同世代の後継ぎたちが、茨城県産食材を使った商品開発やPRを進めていたのです。
大山さんは「うちは原料も何もかも、茨城県産を使わず商売していたので、恥ずかしくなりました」と衝撃を受け、「みんなが地域を盛り上げようとする中、うちは何ができるのかと考えました」。
新商品を作るには、仕入れ先や原価など考えなければいけないことだらけ。家業に入って9年目で初めて父に経営について聞き、決算書を開いたのです。
農商工連携の商品開発に難色
家業への向き合い方は180度変わりました。
食卓の梅壺や土産物の円盤型ケースに入っている印象が強い梅干しを、個包装のスイーツ感覚で食べられるものへーー。それまで徐々に進めていた、はちみつ漬けの梅干しにも一層力を入れます。
そして、震災翌年の12年1月、和紙で個包装された塩分5%ではちみつ風味の「スイート梅」の販売にこぎ着けました。自社でのEC事業にも着手します。
大山さんは茨城県産の梅にこだわった商品開発も始めます。中小機構や商工会などに農商工連携を相談。JA土浦・千代田梅部会を通じて、梅農家に加工品の企画を持ち込んだのです。
しかし、当初は難色を示されました。茨城県は梅の作付面積が全国5位ですが、農家は青梅での出荷が100%で、加工用の梅の栽培を手がけておらず、新たな取り組みへの心理的ハードルが高かったといいます。
大山さんはあきらめず梅農家に通い続け、梅の講習会や剪定、収穫などを手伝い、現場の声に耳を傾けました。
農家との距離を縮めた商品開発
12年5月、ひょう害で部会の梅の多くが傷つき、例年だと8トン出荷できる生梅は、5トンが売り物にならなくなりました。大山さんは梅農家からそのうち500キロを買い、傷があってもできる加工品として思いついたのが「梅シロップ」でした。
部会では当時、スモモと梅の交配による新品種「露茜」も生産していましたが、使い道に困り生産をやめようかという話が出ていたところを買い取り、同じくシロップに加工しました。
「露茜」のシロップは鮮やかな赤色で、大山さんは「これは売れる」と直感したといいます。廃棄されるはずの梅に価値を吹き込んだことで、梅農家との距離は少しずつ縮まりました。
大山さんは梅農家と国の農商工連携事業に応募し、13年、無添加無着色の梅シロップ「Pure Sweet」を売り出しました。
梅は苗木から育てると実をつけるまで3年、実も1年をかけて育ちます。「農家とともに成長できるようにしなければ意味がありません。まずはどの様に売って、PRやブランディングをするのかを明確にしてからお願いをしてきました」
大山さんは農家と試行錯誤を繰り返し、栽培技術の勉強会、栽培基準作り、新品種の生育や商品化にも注力。「露茜」をはじめとする茨城県産の梅を使い、「常陸乃梅」という梅製品ブランドを立ち上げて商品のバリエーションを増やし、県産梅のブランド化に取り組んでいます。
「『農産物のブランディングとは何か?』と問われたら、『農家さんが笑顔で生産できること』と自信を持って言えます」
梅専門カフェで高めた発信力
大山さんは14年、全国でも珍しい梅専門カフェ「WAON」をオープンします。露茜のほか、加賀地蔵、石川一号という県産梅も加え、「常陸乃梅」の商品を発信するのが目的でした。
「父は直売所を想定していましたが、時代のニーズに合わせ、カフェという形がふさわしいと思いました」
資金面は銀行融資で手当てしました。大山さん自身が学生時代に飲食店アルバイトを経験していたことに加え、料理やスイーツ作りにたけた妻の力で商品開発を進めました。カフェには9種類の梅干しから選べるお茶漬け、梅を使ったロールケーキ、梅酢カクテルなど、「常陸乃梅」の魅力を発信するメニューをそろえ、梅干しの食べ比べもできます。
ほかにも、歩きながら飲める梅ゼリー、青梅を甘く煮込んだウメグラッセ、地元女子高と開発した梅こしょうなど、常陸乃梅の商品が続々と生まれました。
大山さんも勉強会への参加や展示会出展で、常陸乃梅のPRを重ねました。「カフェオープンのころからプレスリリースを定期的に出しています。新商品開発やコラボなど様々な切り口を提供し、メディアからの連絡もどんどん増えました」
有名企業との縁も生まれ、ドロップで有名なサクマ製菓からの提案で開発した「梅ドロップス」は大ヒットしました。
梅製品の販売先も、JR東日本エリアの土産店、和菓子の老舗とらや、スタジオジブリ直営のカフェなどに広がっています。梅の仕入れ量もオープン時の2トンから8トンに増えました。
事業継承直後に父が他界
大山さんは18年9月に父から事業を引き継ぎ、8代目社長に就任。まもなく父にガンが見つかり、19年1月に他界しました。これまでの苦労が報われると思った矢先の訃報でした。
「父の死のショックは大きかったです。それでも、震災以降、何をするにも父と何度も話し合い、ケンカしながらも二人三脚で事業を進めてきたので、継承はうまくできていたと思います」
コロナ禍を機にECサイトもリニューアル。「おうち時間」が広がる流れに合わせ、「梅シロップづくりキット」をすぐに商品化すると、ラジオやテレビからの出演オファーが続々と届きました。特にテレビの反響は大きく、オンエアから半年、毎日途切れず注文が入るほどでした。
梅干しを世界に通じる食品に
常陸乃梅のブランド化は着実に進み、23年、吉田屋は過去最高益を記録しました。
次に目指すのは世界です。22年12月には成田山参道で「ume cafe WAON成田店」も始め、インバウンド客を中心に好評といいます。
一方、ブランド化を加速させるには課題もあります。高齢化による生産者の減少です。「将来、うちが栽培まで全部請け負うことになるかもしれない。それぐらいのスピード感で減少が進んでいます」
生産量の限界も課題となりますが、梅シロップの需要は多く、一層の量産体制の構築にも注力する予定です。
2023年7月には、梅シロップや梅酒づくりの体験、工場見学ができる施設「Ume Sonare oarai」をオープン。課題を見据え「まず自分で梅の栽培を手掛けること」と、敷地内の梅林に想いを込め、将来的には栽培を請け負うような発想も考えています。また、県内の旅行会社とも提携し、1年を通した梅の学習プログラムをスタート。子どもたちに学びの機会を提供しています。
「現在、茨城県のサポートを受けつつ事業展開を広げています。すし、天ぷら、すき焼きのように、『UMEBOSHI』を世界でも通じる食品にしたいんです」
大山さんは、茨城から世界をつなぐ架け橋として挑戦を続けます。