燦燦園は約1.5ヘクタールの栽培面積を誇り、ハウスで年間約150トンのいちごを生産しています。約9割がとちおとめで、新品種の栽培にも挑んでいます。深沼さんは「水道水の塩素はいちごの酸化を早めるため、活水機を通して水を軟水にしています。栄養剤に殺菌効果のある酢の成分を入れているのも特徴です」。
いちごは通常、60〜70%熟した状態で収穫しますが、燦燦園では完熟したものを穫り、翌日までに届くエリアにのみ流通させています。取引先は仙台三越、高島屋などの百貨店、銀座ウエストといった有名菓子店など約50社にのぼります。従業員は約30人、年商は2億円弱です。
燦燦園のルーツは50年以上前に開いた深沼農園で、深沼さんの祖父が野菜や果物の栽培を始めました。その後、山元町がいちごの一大産地を目指すと、深沼農園もいちご生産に特化します。
「当時、ほぼ家族だけの農園で直売所を開いているところは周囲にありませんでした。甘いだけでなく味の濃いいちごを作ろうと、父は水や土、ハウス内の環境などにこだわっていました。その姿を見て『農家っていいな』と思ったのです」
父の目を見て復興を決意
2000年ごろ、深沼さんはいちご農家として歩み始めます。「父はいちごの実がなる原理から教えてくれ、自分でも肥料を与えるタイミングを工夫しました」
09年~10年ごろには、深沼さんが主導して直売所をリニューアル。「道路沿いに看板を立てるなど経営的には攻めた時期で、父もかなり自由にやらせてくれました」
東日本大震災の発生は、そんな矢先のことでした。
11年3月の震災当日、深沼さんは子どもを迎えにいくため、沿岸部の学校に車で向かう途中でした。学校に着きカーナビのテレビをつけると、仙台港の津波の映像が流れていました。
「『津波がくる』とその場にいた人たちに伝え、点呼が終わった子どもを抱えて車に向かいました。その時、浜で地響きや雷のような音がしたんです。津波の第一波だったのでしょう」
近くの山まで避難し、家族や従業員は全員無事でしたが、自宅も大小合わせて約25棟あったハウスも津波で流されました。しかし、1棟だけ残ったハウスがあったのです。
「絶望的でしたが、父は残ったハウスを見て目を輝かせていたんです。いちご農家を続けようと腹を決めました」
「ただ元に戻すのはつまらない」
深沼さんは片付けに励み、全国から駆けつけたボランティアも修繕を手伝ってくれました。「色々な人と話して今後を考える中で、ただ元に戻すのはつまらないと思ったんです。加工品の生産や販売など多角化を見据えて法人化を決めました。震災前から思い描いてはいましたが、ボランティアの皆さんの行動力に背中を押されました」
11年11月、深沼農園を「燦燦園」として法人化し、深沼さんが社長に就任しました。「父には生涯現役でいてもらいたいので、今も一緒に作業しています」
ボランティアを通じて出会った全国の農業法人などに話を聞き、深沼さんはまず従業員や取引先を増やし、いちごの生産力を上げることに注力しました。
「社員はほぼ異業種からの転職者を採用しました。ボランティア活動などを通じて私のやりたいことに賛同し、私の苦手な部分をカバーしてくれる人が集まりました」
社員の配置は前職の経験を加味し、例えば、倉庫業や魚の仕分けをしていた人にはいちごの配送先の振り分けを任せました。震災で再建を断念したいちご農家などもパートとして活躍しています。
仙台駅前の大型青果店「いたがき」もいちごを扱ってくれました。12年11月には大型のハウスを請負契約しました。
法人化から2年間、燦燦園では残ったハウスのみで栽培しましたが、津波で更地になった深沼家の土地にもハウスを建て、地元の土地も借りて栽培面積を拡大。設備投資の資金は日本政策公庫の融資や県と国の補助事業を活用しました。
IT導入でいちごの品質が安定
燦燦園では12年ごろからITを駆使した栽培を始めました。しかし、栽培面積が1ヘクタールを超えた14年ごろから、深沼さんはいちごの品質に違和感を覚え始めます。
「父の栽培方法を踏襲していましたが、企業的園芸で感覚を統一するのは難しく、具体的にどう数値に落とし込んだらいいかまで見えていませんでした」
いちご栽培は気候や栽培面積の広がりに応じて、水や肥料の種類・量などを微妙に調整することが必要です。栽培技術も進化しており、深沼さんは全国の農業法人からアドバイスをもらいました。
「父がナンバーワンだと思っていましたが、時代にあった対処も必要だと感じました。肥料ならこの人、ITの使い方ならこの人というように、各分野に詳しい方にその都度聞きまくりました」
深沼さんは18年、本格的な農業専門のITシステム導入に踏み切ります。光合成に必要な二酸化炭素排出量の調整、カーテンや換気窓の開閉、暖房を使った温度管理などを自動化しました。ハウス内のデータは全員で共有できるよう事務所内のモニターに表示され、データは1分単位で更新されます。
「誰かが事務所に常駐する必要がなくなり、働き方の改善につながりました。水の出しっぱなしや窓の開閉を忘れるといったヒューマンエラーがなくなり、栽培面積が広がったにもかかわらず品質が安定しました」
「いち氷」が看板商品に
燦燦園は13年ごろから、百貨店などの催事に声をかけられるようになりました。深沼さんは加工品の生産販売を進めるため、まずはファンを増やそうと、懇意のケーキ店に燦燦園のいちごを使った商品を作ってもらい、催事で販売しました。
「棚に10種類ほど商品を並べたのですが、いちご農家の店というよりケーキ店のように見えたんです。いちご農家らしい加工品は何か、改めて模索しました」
その最中、商品にあった冷凍いちごをかき氷機で削ることを思いつきました。「何げなく削って、いちごジャムをかけて試食したらおいしくて。翌日急きょ販売したら、売れたんです」
こうして生まれたのが、看板商品の「いち氷」です。地元百貨店・藤崎で販売した時には店の前に大行列ができるほどでした。
14年には、いずれ店舗を持つことを目標に、本格的に加工品の製造・販売に乗り出します。深沼さんは「加工しすぎない加工品が消費者に刺さる」と感じ、いちごの流通を通して仲良くなった取引先のパティシエや和菓子屋、加工業者にOEM(相手先ブランドによる生産)でお願いし、加工品を製造しました。
いち氷やジャムに使用しているいちごはITQI(国際味覚審査機構)で、最高評価の三ツ星を受賞したものです。いち氷は、山元町のブランド認証を受け、復興庁の「究極のお土産」にも認定されました。19年にはキッチンカーも導入し、イベント販売も行っています。
「発売当時はいちご自体を削った商品は珍しかったのですが、復興需要もあり、ショッピングモールや自治体のイベントで評判になりました」
新しいことは「まずやってみる」
深沼さんの挑戦は続きます。19年、催事で出会った仲間が作った東京のスイーツ店「浅草苺座」と提携。燦燦園で商品を企画して材料を加工し、東京の店に届けています。大福ではなく大粒のいちごが主役の「大福いちご」、苺スムージーなどが人気です。
「(浅草苺座)で反応が良かった商品を、燦燦園でも作って催事で販売するサイクルを作り、自社での商品開発も進めました。自分たちは菓子製造業のプロではありませんが、いちごを知る素人であることを最大の強みとしています」
コロナ禍では納品先のケーキ店の休業が相次いで、催事もなくなり、年間約4千万円あった燦燦園の催事の売り上げが約200万円にまで落ち込みました。「でも、コロナ禍は必ず終わると信じていました。立地の良い場所にたくさん空きが出たので、浅草苺座では浅草と鎌倉に4店舗を構えました」
この間、青果店の「いたがき」が生食用のいちごを多く仕入れてくれたほか、ジャパネットたかたの通販サイトなどで「いち氷」の取り扱いが始まり、ECでの売り上げが伸びました。その後、巣ごもり需要でケーキ店との取引も回復しました。
「うちから営業をかけたことはありませんが、口コミや町への問い合わせなどから見つけていただくケースが多く、郵便局や高島屋でも、いちごの取り扱いが始まりました。農家は慎重な人が多く、なかなか物事が進まないこともあるかもしれません。でも、うちは新しいことでもまず一度やってみるようにしています」
念願の常設店でさらなる成長へ
深沼さんは22年、仙台市南部のショッピングモール内に、念願の常設店舗「完熟いちごや 燦燦園」を開きました。
1粒30グラム以上のいちごを丸ごと使った「こしかけいちご大福」、「いちご和さんど」などの和スイーツが並び、「完熟いちごろシェイク」などの飲み物も楽しめます。23年には加工場の建設にも踏み切りました。
24年には仙台市内にオープン予定の複合施設「仙台ハーベストビレッジ」内に、いちごの加工品を提供するカフェを出します。隣接地にはいちごのハウスを建設し、観光農園を始めます。それに先駆け、23年末には観光農園と販売部門を分社化。山元町の施設はいちご狩りをやめて、生産と加工に特化しました。
「仙台の施設はいちご狩りだけでなく、苗の植え付けなどの農業体験もできるようにしています。農作業そのものを楽しみ、経験を生む戦略を描いています」
津波で壊滅的な被害を受けた農園が、震災前をはるかに超える成長を遂げました。それは、復興ボランティアや地域の農家、東京のビジネスパートナー、取引先などの助けがあったから、と深沼さんは感じています。
「震災直後の世紀末みたいな状態から、ここまでできるとは思っていませんでした。今後も農業に力を入れながら、自社販売の店舗を増やしたいです」
3代目はこれからも様々な人を巻き込み、復興と6次産業化を推し進めます。