セイワ工業

 三重県木曽岬町に本社を置く、1995年創業の溶接加工会社。高速道路などの標識柱が主力だったが、最近は橋梁やプラント、機械フレームにも幅を広げている。2019年に岐阜県と愛知県の企業をグループ化した。

元々、継ぐ気はなかった

 「父親が社長であることくらいは知っていましたが、何をしていたかも分からず、継ぎたい気持ちもありませんでした」。愛知県境にある三重県木曽岬町の溶接加工会社「セイワ工業」の野見山勇大社長(28)は学生時代までの自分を、こう振り返ります。野見山さんは2019年春、父から経営を引き継いで、2代目社長に就任しました。

 セイワ工業は1995年に創業しましたが、小さい頃は工場にもほとんど行ったことはありませんでした。高校時代は通訳にあこがれ、愛知県立大学に進学後はITベンチャーを目指し、将来的な起業を見据えていました。

 大学4年生の時、就職前に親孝行をしようと思い立ち、1年間だけ手伝うつもりで、家業の仕事を手がけるようになりました。同社の主力製品は、高速道路の大型標識の支柱でした。「小さな町工場でこんなものを作っているのがポジティブな驚きでした。若い従業員もたくさんいて、すごく面白い会社だと感じました」

 当時の従業員は10人ほど。野見山さんは経理を任され、領収書や書類の整理を行っていました。経理や財務に関する本も読み込みました。並行して就職活動もしていましたが、第一希望だったIT系ベンチャーからの内定が保留になったこともあり、就活をストップします。「元々、社長になってみたいというモチベーションが強くて、それなら家業に入っても一緒だと思うようになりました」。両親からは反対されましたが、卒業後、正式にセイワ工業に入社しました。

「働き方改革」へスナックで説得

 野見山さんはまず、「働き方改革」に取り組みました。経営学者の坂本光司さんの著書「日本でいちばん大切にしたい会社」に影響されたといいます。当時は夜の11時、12時までの残業が当たり前。「これでは、若い人が続けたいと思わないし、10年後、20年後は会社が無くなるという危機感がありました」

 社内で「何でお前から言われなければいけないんだ」と何度も言われました。溶接の技術も含め、知識も経験も能力も未熟な中、理屈だけで従業員は動きません。古参の社員と毎週のように、すしや焼き肉を食べてスナックに通い、仲良くなって根気よく説き続けました。内製化していた仕事を外部にお願いしたり、公共事業の繁忙期である下期は協力会社と一緒に仕事をしたりして、省力化。遅くても仕事を午後10時で終わらせるように変えました。

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